47 側妃マリーシア――王妃様が戻ればいい
その夜、陛下はいつもより遅く南の離宮へいらっしゃいました。
窓掛けの向こうはもう暗く、庭の白い花もほとんど見えません。燭台の灯りだけが、部屋の中を黄色くしていました。
わたくしは長椅子に座って、刺繍枠を膝に置いていました。
黄色い花の続きを刺すつもりだったのです。
けれど糸が何度も絡んで、花びらの端が少し歪んでしまいました。ほどこうとすると、セレスタ夫人が「お疲れの時は目を使われませんように」と言うので、針は布に刺したままです。
「今日は、もうお休みになる方がよろしゅうございます」
「陛下がいらっしゃるかもしれません」
「御成りがある場合は、先に知らせが参ります」
「知らせがなくても、来てくださることはありますわ」
そう言うと、セレスタ夫人は何も言いませんでした。
言わない時の顔が、一番嫌です。怒るわけでもなく、呆れるわけでもなく、ただこちらの言葉をどこかへしまうような顔。王宮の人は、そういう人ばかり。
やがて、本当に扉の外で声がしました。陛下です!
私は立ち上がろうとして、セレスタ夫人に袖を押さえられました。
「急にお立ちにならないでくださいませ」
「でも」
「陛下も、そのようにお望みではないはずです」
それは違うと思いました。陛下は、わたくしが喜んで迎えるのをお好きですもの。
でも、立ち上がった時に少しふらついて、それを陛下に見られる方が嫌でした。だから座ったまま、背を伸ばしました。
扉が開く。陛下が入っていらっしゃいました。
いつもなら、入ってすぐ少し笑ってくださいます。
でも今日は、笑いませんでした。
上着の前が少し乱れています。侍従が直す暇もなく来られたのでしょうか。袖口の金糸が、燭台の光で少し鈍く見えました。
「陛下」
私は手を伸ばしました。陛下は近づいて、その手を取ってくださいました。
手が温かい。けれど、握り方がいつもより強い。
「どうなさいましたの」
「少し、疲れた」
「使節の方々ですか?」
「ああ。使節も、外務官も、母上も」
――母上。
王太后陛下のことです。陛下がそうおっしゃる時は、あまり楽しい話ではありません。
「何か、嫌なことが?」
陛下は私の隣に座りました。
セレスタ夫人が下がります。でも、完全には下がりません。部屋の端に立っています。いつもそうです。
わたくしは陛下の袖に指を添えました。
人前ではあまり触れてはいけないと言われています。でも、ここはわたくしの部屋です。南の離宮です。
それくらい、よいはずです。
「公国使節の前で、そなたと子のことに少し触れようとした」
陛下は言いました。私は顔を上げます。
「本当に?」
「ああ」
「それで?」
「外務官に遮られた」
胸のあたりが、ぎゅっとしました。
使節の前で。外国の方々の前で。陛下が、わたくしとこの子のことを話そうとしてくださったのに。
「どうして」
「まだ早いそうだ」
「早い?」
「王妃が療養中だから。公国側に王宮内の事情を読ませるから。順があるから」
――順。
またです。
私はお腹に手を当てました。
今日は少し重い感じがします。王宮医は、そういう日もあります、と言いました。無理をしないように、とも。
でも、気持ちの方がずっと重いです。
「わたくしとこの子は、隠されるものなのですか」
「違う!」
陛下はすぐに言ってくださいました。
「違う。そうではない!」
「でも、皆様そうなさいますわ。茶会も小さく。礼拝も医師が許せば。公国の方々にも、まだ早い。夫人達にも、王妃様御快癒祈願。わたくし、側妃として王宮に入ったのですよね?」
「ああ」
「この子は、陛下の御子ですよね?」
「ああ」
「では、どうして皆、わたくしを少しずつ後ろへ下げようとするのですか?」
言っているうちに、目が熱くなりました。
泣きたいわけではありません。でも、涙が先に出そうになります。
泣くと、セレスタ夫人が困った顔をします。叔母様も、静かにしなさいと言います。
でも、泣きたくて泣くのではないのです。分かってほしいだけなのです。
陛下の手が、わたくしの手を包みました。
「私が悪かった」
「陛下が?」
「もっと早く、そなたの立場をきちんとさせるべきだった」
「陛下は、いつも私のために整えてくださっています」
「足りないのだろう」
陛下の声は、少し低かった。怒っている声です。
でも、わたくしにではありません。たぶん、皆に。
外務官。王太后陛下。夫人達。王宮の人達。
「フレイアが戻れば、少しは変わる」
陛下が、そう言いました。私は瞬きしました。
「王妃様が?」
「ああ。王妃府も動く。茶会も、寄付も、外務の控えも、元に戻る。そなたの立場も、王妃がきちんと示せば、皆受け入れやすくなるだろう」
――王妃様が戻る。
その考えは、私の中にあまりありませんでした。
王妃様は、公爵家で療養なさっている。皆がそのことばかり言う。
でも、戻る。戻って、王宮のことをまたなさる。
そうすれば、茶会の夫人達も来るのでしょうか?
公国の方々にも、わたくしとこの子のことを、ちゃんと示してくださるのでしょうか?
セレスタ夫人が、部屋の端で少し動きました。
「王妃様は、戻ってくださいますの?」
「戻るべきだ」
陛下は言いました。
戻る、ではなく。戻るべき。……少しだけ違う気がしました。
「でも、王太后陛下は?」
「止めるだろう」
「どうして?」
「療養中だから、と」
「もう二月ですわよね」
「ああ」
私は小さく息を吐きました。
――二月。
それだけ休めば、身体は楽になるのではないでしょうか。
もちろん、病のことは分かりません。
私も、少し眠かったり、気分が悪かったりします。
でも、ずっと寝ているわけではありません。お茶も飲むし、刺繍もします。
セレスタ夫人の話だって聞きます。
「そうですわ! 王妃様が戻ってくだされば、わたくしも教えていただけます」
口にしてから、これは良い考えだと思いました。
「教えていただく?」
「はい。茶会のことも、礼拝のことも、夫人達のことも。セレスタ夫人も叔母様も教えてくださいますけれど、皆、止めるばかりですもの。王妃様なら、きっと王妃様として、こうすれば皆が来てくださるとか、こうすれば側妃として見ていただけるとか、そういうことをご存じでしょう?」
陛下は少し考えました。
「そうだな。フレイアなら分かる」
「では、戻っていただいた方がよろしいですわ」
セレスタ夫人の方で、衣擦れの音がしました。今度は、私もそちらを見ました。何か言いかけて、口を閉じています。
「何ですの」
「いえ」
「言いたいことがあるなら、おっしゃって」
セレスタ夫人は一礼しました。
「王妃陛下は、御療養中でいらっしゃいます」
「それは存じております」
「御体調が戻られてから、王宮の御務めについては」
「だから、戻ってくだされば、と言っているのです」
私はお腹から手を離し、膝の上で重ねました。
「わたくし、王妃様に無理をさせたいわけではありませんわ。ただ、皆が王妃様、王妃様、と言うのなら、王妃様に戻っていただいて、どうすればいいか教えていただけばいいのではないかしら。王妃様も、王宮のことが気になっていらっしゃるでしょう?」
セレスタ夫人は、すぐには答えませんでした。それが答えのようでもありました。
「気になっていらっしゃらないの?」
「療養中の御方に、王宮の心配をおかけするべきではございません」
「でも、王妃様でしょう?」
自分の声が、少し細くなりました。
「王妃様なのに、王宮のことを何も知らないままでよいのですか」
セレスタ夫人の手が、袖の前で重なりました。
きつくは握っていません。でも、指先が少し白く見えました。
「マリーシア様」
彼女は言いました。
「王妃陛下は、これまで長く王宮の御務めを担ってこられました」
「だからですわ」
「今は、その御務めから離れてお休みになるための御療養でございます」
「でも、皆が困っているのでしょう?」
私は陛下を見ました。陛下は、こちらを見ていました。
止めません。だから続けました。
「陛下も困っていらっしゃる。王太后陛下も、セレスタ夫人も、儀典長も、宰相府も、皆困っているのでしょう? 夫人達も、王妃様の御快癒祈願ばかりで、わたくしの茶会にはなかなか。でしたら、王妃様がお戻りになれば、皆安心するのではありません?」
「私もそう思う」
陛下が言いました。嬉しくなりました。やっぱり、間違っていないのです。
「それに」
私は少し声を落としました。
「王妃様が戻ってくだされば、わたくしも、こんなに皆から見られなくて済みますわ」
「見られる?」
「はい。何を言っても、セレスタ夫人が見ます。叔母様も見ます。女官達も、わたくしが少し菓子を多く食べただけで、すぐ王宮医に。王妃様がいらっしゃれば、皆の目も少し王妃様の方へ行くでしょう?」
言った後、部屋が静かになりました。燭台の火が小さく揺れます。
何か変なことを言ったでしょうか。
だって本当です。今、皆がわたくしを見ます。
側妃だから。御懐妊しているから。何か間違えるのではないかと、待っているように。
王妃様が戻れば、王宮には王妃様がいる。
そうすれば、わたくしはもう少し楽になる。
「マリーシア」
陛下が私の名を呼びました。
声は優しかった。怒っていません。
「そなたは、よく耐えている」
その一言で、喉の奥が熱くなりました。
「本当に?」
「ああ」
「わたくし、頑張っていますわよね?」
「頑張っている」
「皆、分かってくださらないの」
「分かるようにする」
陛下はそう言ってくださいました。私はうなずきました。
そこで、セレスタ夫人が一歩前へ出ました。
「陛下」
「何だ」
「王妃陛下の御帰還につきましては、王太后陛下ならびに公爵家、医師の御判断が」
「分かっている」
陛下の声が、少し硬くなりました。
「その話は、今日はもうよい」
「かしこまりました」
セレスタ夫人は下がりました。でも、顔は少し白いままでした。疲れているのかもしれません。
この人も、よく働きます。いつもそばにいて、わたくしを止めて、女官に指示を出して、王宮医の言葉を覚えて、叔母様と話して。
王妃様が戻れば、セレスタ夫人も少し休めるのではないでしょうか。
そう思いました。
「陛下」
「何だ」
「明日、王妃様へお文を書いてもよろしいかしら」
陛下の手が止まりました。
「そなたが?」
「はい。お見舞いです。王妃様と、ちゃんとお話ししたことがありませんもの。ご療養はいかがですか、王宮は皆様が頑張っています、わたくしも側妃として少しずつ覚えています、と」
それから、少し考えました。
「それと、早くお元気になって戻ってきてくださいませ、と」
セレスタ夫人が、今度ははっきり息を吸いました。陛下も、すぐには返事をしませんでした。
「だめですの?」
「いや」
陛下は私の手を撫でました。
「そなたの気持ちは、悪いものではない」
「では」
「ただ、今は公爵家が文を選んでいる。王妃に届くかどうか」
「わたくしのお見舞いでも?」
「ああ」
「そんな」
私は背もたれに体を預けました。刺繍枠が膝から少し滑り、陛下が受け止めてくださいました。
黄色い花の途中。糸が絡んだままです。
「王妃様は、何も知らされていないのですか」
「知らされていないことが多いだろう」
「では、かわいそうですわ」
その言葉は、自然に出ました。本当に、少しかわいそうだと思ったのです。
王宮の皆が王妃様のことを言っているのに。白い花が置かれているのに。御快癒祈願で、皆が修道院や施療院へ行っているのに。
王妃様ご本人は、それを知らないなんて!
「かわいそう」
陛下が、私の言葉を繰り返しました。
「ええ。だって、王妃様なのに」
私は刺繍枠を受け取りました。針の刺さったところから、黄色い糸が少し浮いています。
「戻ってくだされば、皆も安心して、わたくしも教えていただけて、陛下も困らなくて、王妃様も寂しくないでしょう?」
そう言うと、陛下は私を見ました。少し長く。それから、私の髪に触れました。
「そうだな」
その声は、さっきより低かった。でも、優しい声でした。
「それが一番よい」
――やっぱり。
私は少し笑いました。陛下も分かってくださった。
――王妃様が戻ればいい。
皆がそう言えばいいのに、どうして難しくするのでしょう。
セレスタ夫人が、部屋の端で女官へ何か目配せしました。たぶん、温かいお茶を用意させるのでしょう。
「お茶はいらないわ」
私は言いました。
「今日はもう、陛下と少しお話ししていたいの」
セレスタ夫人は一礼しました。女官は動きを止めます。
陛下が、刺繍枠の花を見ました。
「これは、子供のためか」
「はい。上手ではありませんけれど」
「黄色い花だな」
「明るいでしょう?」
「ああ」
陛下は花びらの端を指でそっと押さえました。絡んでいた糸が、少し引き締まりました。
私は針を抜いて、もう一度刺し直します。
今度は、前より少しだけまっすぐ入りました。




