45 国王エルヴィス――明るい知らせをどうして
ルブラン公国の使節は、無事に帰った。少なくとも、表向きにはそう見えた。
オルヴァン伯爵は礼を尽くした。ルネ卿という若い男も、静かではあったが無礼ではなかった。贈答品も滞りなく渡され、会食も短く済み、山道税の件も次の協議へ回った。
だから、私は終わったものと思っていた。
だが、終わっていないと言った者がいる。フェリクスである。
外務官のフェリクス。会食の席で、私の言葉を遮った男だ。
あの場では何も言わなかった。使節の前で、王が家臣を咎めるものではない。そのくらいは分かっている。
だが、王が言おうとしたことを、家臣が途中で別の話に差し替える。
それを後から何も言わずに済ませるほど、私は寛大ではない。
「フェリクスを呼べ」
会食後、私は執務室へ戻ってすぐ侍従に命じた。侍従は一礼して出ていった。
机の上には、今日の使節記録が置かれている。灰青の布、山岳修道院への薬草、羊皮書面、鉱山の無事を祈る燭台。どれもきちんとしていた。
それはよい。外務府は仕事をした。儀典長も動いた。母上も、女主人役をお務めになった。
私はそれを認めている。だからこそ、余計に分からない。
《《なぜ、私が王宮の明るい知らせに触れようとしただけ》》で、あの男は口を挟んだのか。
隠すことではない。恥じることではない。マリーシアは私の子を宿している。
王宮にとって、国にとって、明るい知らせではないか。
*
しばらくして、フェリクスが来た。外務官らしく、きちんと礼を取る。
顔色は少し悪い。今日一日、使節対応で走り回ったのだろう。そこは労ってもよかった。
だが、先に訊くことがある。
「今日の会食で、そなたは私の言葉を遮ったな」
フェリクスは顔を上げた。驚いた顔はしない。
ああ、分かっていてやったのだな。
「陛下の御言葉を、外交上の支障なき形へ移したつもりでございました」
「移した」
私は椅子の肘に手を置いた。
「私は、明るい知らせが増えると言っただけだ」
「はい」
「それを、王妃の快癒がどうの、春の行事がどうのと、そなたが勝手に変えた」
「ルブラン公国使節の前で、側妃マリーシア様の御懐妊を示すような御発言は、まだ時期が早いと判断いたしました」
――まだ。
――時期が早い。
またそれだ。
「診断は済んでいる」
「はい」
「王宮医も認めている」
「はい」
「なら何が早い」
フェリクスは、そこで一度だけ視線を下げた。
言葉を選んでいる。その顔も、少し気に入らない。
皆、私の前で言葉を選ぶ。選ばなければならないようなことを、私が言わせているかのように。
「王妃陛下が御療養中でいらっしゃいます」
「それは公国側も知っている」
「はい。そのうえで、王妃陛下御不在の公的会食に、御懐妊中の側妃様の話を出しますと、王宮内の事情を公国側に読ませることになります」
「読ませる?」
「王妃陛下が御療養中。正妃席は空位。そこへ、側妃様の御懐妊の話。公国側は、王宮内の女主人の座が揺れていると見る可能性がございます」
――女主人の座。
私は眉を寄せた。
「揺れてはいない。フレイアは療養中だ」
「はい」
「戻れば王妃だ」
「はい」
「なら、なぜ揺れる」
フェリクスは返事をしなかった。部屋の端に控えていた侍従長が、こちらを見ている気配がした。
私はフェリクスから目を離さなかった。
「言え」
「陛下が、戻れば、とお考えであることが、王宮内でまだ共有されておりません」
何を言うのかと思った。
「戻るに決まっているだろう」
口から出た声は、自分で思ったより強かった。
「フレイアは王妃だ。少し疲れて公爵家へ下がっただけだ。療養が済めば戻る。王妃府も、それで元に戻る」
フェリクスは、今度も黙った。腹立たしい沈黙だった。
「何だ」
「王妃陛下の御療養について、外務府が申し上げる立場にはございません」
「なら言うな」
「はい」
あっさり引いた。だが、引かれると余計に腹が立つ。
こちらが聞きたいところだけ、立場ではないと言って下がる。
皆、そうだ。
母上も。宰相も。侍従長も。
フレイアのことになると、まるで私だけが物を知らない者のように扱う。
「マリーシアの子は、王の子だ」
「はい」
「その子の存在を、なぜ隠す」
「隠しているのではございません。順を整えております」
「順、順、順!」
私は机の上の書類を指で押した。端が少し曲がる。
「そなた達は、どれだけ順が好きなのだ」
「順を間違えますと、相手国に隙を見せます」
「子ができたことが隙か」
「王妃陛下御不在の場で、側妃様の御懐妊だけを明るい知らせとして出すことが、隙になります」
彼ははっきり言う。今度は、言葉を選ばなかった。
私は椅子から立った。フェリクスは動かない。
外務官というものは、戦場に出る騎士ではないのに、こういう時だけ妙に足が据わっている。
「そなたは、マリーシアを軽んじているのか」
「いいえ」
「では、なぜ日陰者のように扱う」
「日陰者にしないためでございます」
返事が早かった。それも腹立たしい。
「側妃様を公国使節の前で不用意に出せば、王妃陛下との比較になります。御懐妊の話を先に出せば、王宮は世継ぎを得た喜びで王妃陛下の療養を覆ったように見えます。そう見えれば、側妃様御本人にも傷がつきます」
「傷?」
「はい」
「マリーシアは、祝われたいのだ」
「承知しております」
「承知しているなら、祝えばよい」
「国内の手順を整えてからでございます」
「国内」
私は笑った。笑ったが、楽しくはなかった。
「国内では、夫人達が王妃の快癒だの施療院だのを理由に茶会を欠席する。国外では、外務官が遮る。マリーシアは、どこで祝われるのだ」
フェリクスの表情が、少しだけ変わった。ほんの少し。
だが、そこに同情のようなものが見えた気がして、余計に嫌だった。
「陛下」
「何だ」
「側妃様を祝う場は、改めて整えられます。ただし、それは王妃陛下御療養中の王宮がどう見えるかを踏まえた上で」
「また王妃か」
声が出た。部屋の空気が、少し動いた。侍従長の手が、袖の中で止まったのが見えた。
フェリクスも、今度はすぐに返さなかった。
「フレイアは何もしていない」
私は言った。
「今、王宮にいない。茶会にも出ない。礼拝にも出ない。公国使節の前にもいない。それなのに、どこでもフレイアだ。王妃陛下御療養中。王妃席。王妃府。王妃府の控え。王妃陛下の赤い字。皆、いつまでいない女のことばかり言う」
言ってから、少しだけ息が乱れていることに気づいた。
フェリクスは頭を下げた。
「王妃陛下の御不在が、現在の王宮に大きく影響しているためでございます」
静かな声だった。静かすぎて、かえって強い。
私は机に手をついた。
「なら、戻せばよい」
言ってから、自分の中でその言葉が形になった。
――そうだ。戻せばよい。
フレイアが戻れば、王妃府は動く。夫人達も茶会へ来る。
寄付も、施療院も、修道院も、外務府の控えも、皆元に戻る。
マリーシアも、王妃が側にいてくれれば王宮に慣れやすいだろう。
子が生まれれば、フレイアが洗礼や名付けをきちんとさせる。
それでよいではないか。




