44 ルブラン公国随行書記官マティアス――王の一瞬の失言
王都の門をくぐった時、最初に見えたのは花ではなく、布だった。
馬車の窓から、迎えの一団が持つ箱の上に掛けられた灰青の布が見えた。
山岳修道院の祭壇布に近い色である。
派手ではない。春の使節を迎える色としては、むしろ地味に見えるだろう。
けれど、私はその布を見て、まず羽ペンを手帳の上に置いた。
――覚えていた。少なくとも、この王国の誰かは覚えていた。
去年、ルネ卿の婚約者が亡くなった。秋口の熱だった。
公国では婚約が公にされていたため、婚礼はなかったが喪は立った。赤い花、双鳥の意匠、婚礼菓子。そういうものは、こちらではまだ避ける。
喪の正式な期間は明けている。
だが、だからといって、明けた翌年に祝いの鳥を向けられて笑えるかどうかは別である。
隣に座るルネ卿も、その布を見ていた。
表情は変えない。若いが、公弟殿下の名代である。馬車の中で指先を膝の上に置き、肩を動かさずに外を見ている。
「灰青だな……」
小さく言ったのは、使節長のオルヴァン伯爵だった。伯爵は向かいの席で、手袋の親指を直していた。
「はい」
私は答えた。
「昨年の山岳修道院への返礼にも、同じ色が使われております」
「王妃府の手配か」
「例年なら」
「今年は王妃がいないのだろう」
――いない。
伯爵は、そう言った。療養中、と言わなかった。
私は手帳へ、短く書いた。
――贈答箱、灰青布。喪への配慮あり。
手帳の端に、馬車の揺れで線が少し曲がる。
王宮に近づくにつれ、道の両側に立つ衛兵の間隔が狭くなった。槍の穂先は磨かれている。旗の位置も悪くない。
表はきちんとしている。
ただ、出迎えの列の後ろで、若い侍従が一人、別の者に何か耳打ちされていた。彼は手に黄色い花の小束を持っていた。すぐに年配の侍従がそれを受け取り、後方へ下げる。
黄色そのものは悪くない。だが、灰青の箱の横に置くには明るすぎる。
私は手帳に書くのをやめた。書くほどのことではない。
ただ、それでも目にはした。
*
王宮の広間は春の使節を迎えるには少し静かすぎるほどだった。
壁際に置かれた花は白と薄い紫。香りは弱い。中央の卓には、鉱山の無事を祈る小さな銀の燭台が置かれていた。
これはよい。山の民は、銀の光を好む。
フェリクスという外務官が、迎えの列から一歩出て、私達に礼をした。
年は私より少し上だろう。顔色は良くない。だが、目はよく動く。
彼は使節長へ挨拶し、ルネ卿へも短く言葉を添えた。
「昨年の御不幸に際し、改めてお悔やみ申し上げます。また、今年の山道と鉱山の無事を、王宮一同お祈りしております」
長すぎない。短すぎない。喪をまだ引きずらせず、忘れてもいない。
ルネ卿が、初めて少しだけ顎を下げた。
「御心遣い、痛み入る」
その一言で、最初の段は越えた。
フェリクス外務官の背後で、儀典長らしい男がわずかに目を伏せた。安堵ではない。次の段を見ている顔だった。
王太后陛下が、女主人役としてお出ましになる。
王妃席は空いていた。空席には、白い小花が置かれている。小さい。香りはない。
席を隠さず、そこが空いていることを隠すことなく。
王妃陛下が療養中であることは、事前に知らされている。春祭礼も控えめに行われたと聞いていた。
だが、空の椅子に白い花を置くなら、この王宮は王妃の不在を見せることを選んでいる。
隠すよりはよい。しかし、見せるほどには事情が重い。
私は手帳の内側に、爪で軽く印をつけ、後で書くことにし、今は、顔を上げておく。
国王陛下は、少し遅れて広間に入られた。
背は高い。装いの乱れもない。こちらへ向ける笑みは、悪くない。人好きのする方だと思う。
ただ、王太后陛下が椅子へおつきになる前に、一度だけ南側の扉へ目を向けた。
そこには誰もいない。いや、正確には、扉の向こうに女官の気配があった。
淡い黄色の袖口が一瞬見え、すぐ引いた。
フェリクス外務官の手が、後ろでわずかに動いた。儀典長が、半歩だけ扉側へ立ち位置を変える。
小さい。本当に小さい動きだった。
だが、私達は使節である。小さい動きを見るために来ている。
「遠路、よく参られた」
国王陛下が言った。オルヴァン伯爵が礼を返す。
「公王殿下より、春の御挨拶をお預かりしております」
挨拶、書簡、贈答。それらは滞りなく進んだ。
灰青の布に包まれた箱が開かれる。
中には染織品と、写本用の上質な羊皮書面、それから山岳修道院へ送る乾燥薬草の小箱が入っていた。
悪くない。むしろ、よく直した。
直した、と思ったのは、箱の隅に小さな跡があったからだ。
そこに一度、別の紐がかかっていた。細い金紐の跡だろう。
灰青の布には合わない。外したのだ。
最初から完璧だったわけではない。誰かが途中で見つけて、外した。
外せる者がいるなら、まだ大丈夫だ。
ただ、最初にそれがあったことは、書いておかねばならない。
*
昼の会食は、短めに整えられていた。
赤い果実の菓子は出ない。白い鳥の菓子もない。
食後の甘いものは、蜂蜜を薄く使った丸い焼き菓子だった。悪くはない。強い祝いの意匠もない。
王太后陛下は、ルネ卿へ一度だけ、山の春はまだ寒かろうと声をかけた。
ルネ卿は、山道の雪解けは遅いと答えた。
よい会話だった。
フェリクス外務官は、会食中ほとんど口を挟まない。ただ、給仕が皿を置く位置を一度だけ目で止めた。皿はそのまま、半歩ずれて置かれた。
儀典長は、王妃席の空位が目立ちすぎないよう、花の高さを途中で少し下げさせた。
細かい。細かいが、必要なことだ。
国王陛下は、朗らかに話された。鉱石の買い付け、山道の安全、今年の春の祭礼が静かに行われたこと。そこまではよかった。
その後、陛下は少し表情を明るくされた。
「我が王宮にも、近く明るい知らせが増えるだろう」
王太后陛下の指が、茶碗の受け皿に触れた。
音は小さい。だが鳴った。
フェリクス外務官が、すぐに言葉を継いだ。
「王妃陛下の御快癒を王宮一同願っております。また、王太后陛下の御差配により、春の行事も滞りなく」
国王陛下は、少しだけ外務官を見た。遮られたと思われたのかもしれない。
だが、外務官は顔を変えない。
オルヴァン伯爵は焼き菓子を小さく割った。ルネ卿は茶を飲んでいる。私も手帳には手を伸ばさなかった。
今は書かない。
――明るい知らせ。
王宮内にいる側妃のことだろう。御懐妊の噂は、こちらにも届いている。
正式な通達はまだない。ならば、こちらから触れることではない。
国王陛下が触れかけ、外務官が止めた。王太后陛下は、止められたことを咎めなかった。
つまり、王宮内でもこの件は慎重に扱われている。
その後の会話は、王太后陛下が引き取られた。
――山岳修道院の写本交換の話。
――昨年送った羊皮書面の質。
――こちらの修道士が好むインクの濃さ。
王太后陛下がそこまで詳しいとは思わなかった。おそらく誰かから控えを受け取っている。
王妃陛下か。外務官か。今はどちらでもよい。
会食は、表面上は穏やかに終わった。
*
宿舎へ戻る馬車の中で、オルヴァン伯爵はしばらく黙っていた。ルネ卿も、窓の外を見ている。
王宮から少し離れたところで、伯爵がようやく口を開いた。
「灰青の布はよかった」
「はい」
私は答えた。
「弔意も、長すぎなかった」
「はい」
「王太后と外務官は働いている」
「そのように見えました」
「儀典長もだ」
「はい」
伯爵は手袋を外した。指の関節を一つ鳴らす。
「王は」
そこで言葉が止まった。私は手帳を開いた。
「朗らかな御方でした」
「そう書くのか」
「公的な記録には」
伯爵は少し笑った。ルネ卿も、窓の外を見たまま口元だけを動かした。
「私的な控えには」
伯爵が訊く。私はペンを取った。馬車の中なので、字は少し崩れる。
――贈答、修正の跡あり。
――王妃不在は隠さず。
――王太后、外務官、儀典長が補う。
――国王、側妃または懐妊に触れかける。外務官が遮る。
――王宮内、意思統一に乱れあり。
そこまで書いた。ルネ卿が、初めてこちらを見た。
「祝賀の赤い花はなかったな」
「はい」
「双鳥も」
「ありませんでした」
「なら、礼は通っている」
「通っています」
「だが、通した者が苦労したのだろう」
私はペンを止めた。ルネ卿は、窓の外へ視線を戻す。
若いが、見るところは見ている。
「そう記してよいですか」
「私の名は出すな」
「もちろん」
私は私的控えの端に、小さく書き足した。
――礼は通る。ただし通す側に疲弊あり。
オルヴァン伯爵は、その文字をのぞき込んだ。
「疲弊か」
「弱いですか」
「いや、よい」
伯爵は手袋を膝に置いた。
「ただし、今後の山道税の交渉では、相手の返答が遅れる可能性を見ておけ。王妃府が触れていた修道院筋の話も、外務府だけでは拾いきれぬかもしれん」
「では、こちらの修道院経由でも確認を」
「そうしろ」
公国は小さい。だから、こういうところは早い。
王国の中央が少し乱れているなら、こちらは自分の道を増やす。
それは敵対ではない。備えである。
王宮の門が遠ざかる。
南側の窓に、午後の光を受けた離宮らしき屋根が見えた。そこだけ、白く明るい。
馬車が角を曲がると、屋根は見えなくなった。
私は手帳を閉じた。
灰青の布のことは、公的報告に入れる。黄色い袖口のことは、私的控えにだけ残す。
外務官が外した赤い布の跡も。王が明るい知らせと言いかけたことも。
ルネ卿が、通した者が苦労している、と言ったことも。
書面を閉じると、表書面の角に小さな菓子の粉がついていた。
会食の焼き菓子のものだろう。
指で払うと、馬車の床へ落ちた。




