42 外務官フェリクス――使えない赤い布
春祭礼の季節がやってきた。
短い夏の始まりへとつながる祭りである。
このあたりは冬が長い。そして春。穏やかな季節は貴重だ。
祭礼自体は例年より静かに済んだ。
表向きは、王妃陛下御療養中につき、控えめに。実際には、控えめにしなければ間に合わなかった。
私はその後始末が終わらないまま、隣国ルブラン公国の使節団を迎える準備に追われていた。
ルブラン公国。南の山脈を越えた先にある、小さいが面倒な国である。
鉱山を持ち、銀細工を持ち、山道の関所を持つ。
こちらから見れば小国だが、あちらから見れば自分達は古い公国であり、王国の端の大貴族と同格に扱われることを嫌う。
その国から、毎年の春、王都へ使節が来る。
目的は、山道の通行税、鉱石の買い付け、修道院間の写本交換、それから王家同士の季節の挨拶。
例年なら、面倒ではあるが難しくはなかった。王妃府から、薄い控えが来ていたからだ。
――使節長はオルヴァン伯爵。夫人同伴なし。
――公弟殿下の名代として、若いルネ卿が随行。
――ルネ卿は昨年、婚約者を病で失っているため、赤い花、婚礼菓子、双鳥文様を避けること。
――贈答品は、銀糸ではなく染織品を中心に。
――山岳修道院へは乾燥薬草と写本用羊皮書面。
――挨拶の席では、王妃陛下より先に鉱山事故への弔意を一言。
そういう控えである。今年は、それがない。
記録庫に去年の写しはあった。あったが、今年の状況が分からない。
――ルネ卿の喪は、もう明けたのか?
――公国側の鉱山事故は、今年も祈りに入れるべきなのか?
――昨年の贈答品の返礼に、今年何を重ねるべきなのか?
外務府にも記録はある。もちろんある。
だが、外務府の記録は条約と関税と使節名簿が中心だ。
誰がどの菓子を避けるか。誰が喪の色をまだ身につけているか。どの夫人がどの修道院と手書面を交わしているか。
そういうものは、王妃府の方が強かった。
強かった、というより、王妃陛下が拾っていた。
「フェリクス様、贈答品の箱が届きました」
書記官のニールが、両手で木箱を抱えて入ってきた。
箱そのものは悪くない。磨いた胡桃材。角には真鍮の金具。蓋の上には王家の印を入れるための小さな銀板もついている。
問題は、その上に掛けられていた布だった。
――深い赤。祝宴用の赤。端に金糸で小さな双鳥が刺されている。
私はペンを置いた。
「その布は、誰が選んだ!?」
ニールは箱を机の手前に置いた。若いが、馬鹿ではない。私の声で、まずいと気づいたらしい。
「王宮倉庫から、祝礼用の覆い布として出されました。贈答品係が、《《春の使節なら明るいもの》》を、と」
「双鳥が見えなかったのか」
「見えたとは思います。ただ、細かい刺繍なので」
「細かければ消えるのか!」
ニールは口を閉じた。
責めても仕方ない。彼が選んだわけではない。だが、今責めなければ、誰もまずいと分からない。
私は箱の布をつまみ上げた。金糸の鳥が二羽、向かい合っている。婚礼祝いによく使う意匠だ。
昨年の控えには、はっきり書いてあった。
――双鳥の文様は避けること。
「去年の写しを、贈答品係へ回したか」
「回しました。ただ、王妃府の正式控えではなく外務府写しなので、参考扱いに」
「参考扱い」
私は布を畳んだ。その手に、少し力が入る。
王妃府の書面なら従う。外務府の写しなら参考。
同じ内容でも、出所で重さが変わる。
それは分かる。分かるが、今はそれを言っている場合ではない。
「すぐ外せ。赤も双鳥も使わない。無地の濃紺か、灰青の布を出させろ」
「灰青でございますか」
「ルブランの山岳修道院が使う色だ。去年、王妃陛下の控えにあった」
「確認します」
「確認ではない。出せ。確認はその後でいい」
ニールは赤い布を抱え、すぐに部屋を出ようとした。
「走るな――」
言いかけて、私はやめた。
外務府の廊下なら、今は走ってもいい。転ばなければ。
ニールが出ていくと、机の上に残った木箱だけがやけに立派に見えた。
私は蓋を開けた。中には、染織品が入っている。
絹の織物。色は悪くない。
けれど、上に置かれている小箱を見て、手が止まった。
砂糖菓子。白い鳥の形。対になっている。
私は小箱を取り出し、机の端へ置いた。吸い取り紙が一枚、その下に挟まった。
鳥の尾が少し欠けている。婚礼菓子である。
誰が入れた? 春だからか。鳥だからか。めでたいからか?
外務府の机の上で、私はしばらくその菓子を見た。
菓子に罪はない。ただ、これをルネ卿の前へ出せば、こちらが昨年の喪を忘れていることになる。
忘れていたのは、王宮である。
……いや、違う。王宮は忘れていなかった。王妃府の去年の控えには、書いてあった。
今年、それを今年のものにする者がいなかっただけだ。
「フェリクス様――」
今度は別の書記官が入ってきた。
「神官長より、使節歓迎の祈り文について確認が」
「鉱山事故への弔意か」
「今年も入れるべきかと」
「公国側に確認は」
「外務府から問い合わせを出しましたが、返答がまだ」
「いつ出した」
「昨日の朝です」
遅い。返答が来るわけがない。公国使節はもう国境を越えている。
「去年はどうしていた」
「王妃府より、先方の山岳修道院から王妃陛下宛に届いた文をもとに、弔意を入れるよう指示が」
「今年、山岳修道院からは」
「王妃府へは届いているかもしれませんが、王妃府は」
「閉じている」
言葉が重なる。書記官は頭を下げた。
皆、同じ壁にぶつかる。
王妃府は閉じている。王妃陛下は療養中。新規執務確認は禁止。記録庫の写しだけで動け。
それで国は回るはずだった。
だがもう二ヶ月。
……少なくとも、陛下はそうお考えなのだろう。
「弔意は入れる。ただし長くするな。昨年の事故で亡くなった者達の安息と、今年の鉱山の無事を祈る形にする」
「公国側がもう喪を明けていた場合は」
「無事を祈る文が残る。問題は小さい」
「承知しました」
「赤い花は使うな。双鳥も婚礼菓子も外す。贈答品係、厨房、花方、儀典長へ同じ文を回せ」
「はい」
「文頭に、ルブラン公国使節接遇につき、と入れろ。側妃様の茶会の余り飾りを流用しないように」
書記官が顔を上げた。彼は何か言いかけたが、やめた。
「何だ」
「南の離宮の茶会で使われた黄色と白の花が、まだ倉庫に残っているそうで」
「使うな」
「はい」
「黄色はよい。白もよい。だが、南の離宮の茶会の余りを、公国使節へ回すな」
「はい」
書記官は書面を抱えて下がった。部屋の中が少し静かになる。
私は婚礼菓子の小箱を閉じた。箱の上には、小さな金の紐がかかっている。それも外す。
外した紐を机の隅へ置く。机の隅には、似たようなものが増えてきた。
使えない赤い布。使えない金紐。使えない双鳥の飾り。使えない婚礼菓子。
悪くないものばかりである。
だが、悪くないものでも、場を間違えると無礼になるのだ。




