41 王太后――不機嫌で済むなら安い
「務めでございます」
「そうだ。務めだ」
その言葉で、人はどれほど働くのか。フレイアも、そうだったのか。
務めだから。王妃だから。国に世継ぎが要るから。王宮には手順があるから。
そうして五年。
私は、世継ぎが要る、と言った。側妃は仕方ない、とも思った。
今も、世継ぎが要らぬとは思っていない。
だが、その言葉で誰の背に何を乗せたかを、見ていなかった。
「王妃陛下の御加減は」
セレスタが静かに言った。
「公爵夫人からの文では、眠れる日が増えたそうだ」
「それは、ようございました」
「まだ長い文は読ませていない、とも」
「賢明かと」
――賢明。
私へ来る書面を見れば、その判断は正しい。
王妃府の現状など知らせれば、フレイアは起き上がろうとするかもしれぬ。あるいは、起き上がれぬまま、頭の中で席順と配分を組み始めるかもしれぬ。
それでは療養にならない。
ディート公爵は、それを読んで止めている。腹立たしいほど正しい。
「陛下は、王妃へ文を出したがっている」
「王妃府の状況を添えて、でございますね」
「そなたも聞いたか」
「侍従長より、注意が回っております」
――注意。
陛下の御文が、注意の対象になっている。
この時点で既におかしい。だが、止めねばならない。
「止めよう」
私は言った。
「王太后陛下より?」
「そうだ。私の名で、陛下へ伝える。療養中の王妃に王妃府の状況を知らせるな、と」
「陛下は」
「不機嫌になるだろう」
「はい」
「不機嫌で済むなら安い」
セレスタは頭を下げた。その頭が、以前より少し重そうに見えた。
「そなたも休みを取れ」
「南の離宮が」
「交代を入れる」
「どなたを」
私は答えられなかった。セレスタの代わり。誰がいるか?
マリーシアに泣かれても崩れず、陛下の前でも礼を失わず、コリンナ殿と話ができ、女官達を動かし、王宮医の指示を守らせ、呼称を直し、菓子の甘さまで見られる者。
フレイアがいれば、選んだだろう。だが私は、選べない。
「半日だけでも」
ようやくそう言った。
「手配いたします」
セレスタは、できないとは言わなかった。できるとも言わなかった。
ただ、務めとして持ち帰った。
*
その夜、私は礼拝堂へ向かった。
王妃席には、白い小花が置かれている。半月、毎回置かれている。
儀典長の判断か、女官長の判断か、最初は確認していた。
今はもう確認しない。置くべきものとして、置かれている。
花は小さい。香りはない。席を隠さない。空いていることを、見せるための花である。
側妃席は、その少し下にある。
最近はマリーシアが出たり休んだりするので、椅子と踏み台は毎回置かれ、使わない時には祈祷書だけが置かれる。
礼拝堂に、空席が二つあるように見える日もある。
王妃の席。側妃の席。
どちらも空いていると、王家の女達がどこかへ消えたように見える。
実際には、一人は公爵家にいる。一人は南の離宮にいる。
どちらも王宮の中枢にはいない。
祈りの後、儀典長が近づいてきた。深く一礼する。
「王太后陛下」
「何か」
「来月の春祭礼の件で、御確認がございます」
春祭礼。もうその時期か。
王妃が例年、もっとも忙しくなる行事の一つである。
「王妃席は空位のままか」
「はい。ただ、祭礼では王妃陛下による施療院と修道院への春の贈り物の披露がございます」
「今年は」
「王妃府が閉じております」
儀典長は、書類を差し出した。目録の写しだ。空欄が多い。
贈り物の品目。寄付先。担当夫人。運搬日。
例年なら、そこに赤い字が入っていたのだろう。
「宰相府へ」
「回しました。ただ、宰相府では寄付配分は処理できても、祭礼での見せ方までは」
「王太后府で見る」
言ってから、私は自分の喉が少し乾くのを感じた。
――王太后府で見る。
言うのは簡単だ。だがやる者は誰だ。
セレスタは南の離宮に取られている。女官長は日々の不足で手一杯。
儀典長は席と祭礼を抱えている。宰相府は現場からの照会で書面に埋まっている。
私の周囲にも女官はいる。
だが、フレイアが五年で作った目を、そのまま持つ者はいない。
「可能な範囲で、王妃府の昨年控えを使え」
私は言った。
「王妃府へ問い合わせず、記録庫の写しを使うように」
「かしこまりました」
「王妃席の花は、白のまま。春祭礼だからと色を入れるな」
「はい」
「側妃マリーシアが出席できる場合は、王妃の春送りと絡めるな。別に祝福の祈りを入れる」
「神官長へ確認いたします」
「確認しなさい」
私は目録を受け取った。薄い書類なのに、手の中でずいぶんと重い。
「王太后陛下」
儀典長が、まだ下がらなかった。
「何だ」
「このままですと、春祭礼は例年より縮小せざるを得ません」
「どの程度」
「表向きは、王妃陛下御療養中につき、静かに。実際には、調整が間に合いません」
正直だ。今の王宮には、正直な者が増えた。
余裕がなくなると、人は飾る力も減る。
「縮小しなさい」
「よろしいのですか」
「無理に例年通りにして、穴を見せるよりよい」
「はい」
「ただし、施療院と修道院への実物は減らすな。見せ方を縮小するだけだ」
「かしこまりました」
儀典長は頭を下げる。その頭の下げ方に、少し安堵が混じっていた。
祭礼の華やぎは削れる。麦や薬は削れない。
それを、誰かがはっきり言わねばならなかったのだ。
皆、私が言うまで待っていた。以前なら、フレイアが先に書面で出しただろう。
――祭礼は縮小可。
――実物配分は維持。
――王妃御療養中の名目を用いる。
そんな赤い字で。
*
部屋へ戻ると、陛下から使いが来ていた。南の離宮から戻ったばかりだという。
陛下は、三夫人が茶会へ来たことを喜んでおられる。次も同じように整えたい、と。
私は使いの前で返事をしなかった。
「明朝、陛下へ直接申し上げる」
それだけ伝えると、使いが下がる。
私は机の上に、春祭礼の目録を置いた。空欄が多い。
その横に、セレスタからの報告。
――マリーシア殿が、茶会がうまくいったので次はもっと多くの夫人を呼びたい、と言っている。
その下に、宰相府からの報告。
――北区施療院、薬代支出済み。西の修道院、麦はローレン侯爵家より。東の孤児院、豆と塩漬け肉はデュラン男爵家より。
王宮は、後から礼を言う立場になっている。
動いたのは外だ。王宮は追認している。
それが悪いとは言わない。だが、中心が外へ移っている。
陛下は、それを見ていない。マリーシアも、見ていない。
見えている者ほど、疲れている。
私はペンを取った。陛下への明朝の話の控えを書く。
――側妃茶会は、当面小規模。
――高位夫人への陛下御名の個別招待は控える。
――春祭礼は王妃陛下御療養中につき縮小。
――実物配分は維持。
――王妃陛下への王妃府状況報告は禁ず。
最後の一行で、ペン先が少し書面に引っかかった。
インクが小さく溜まったので吸い取り紙を乗せる。
外すと、その一行だけ少し太くなっていた。
――王妃陛下への王妃府状況報告は禁ず。
母が、息子へ出す言葉ではない。王太后が、国王へ出す言葉だ。
私は書面を折らず、そのまま机の上に置いた。
窓の外、南の離宮の方だけが、まだ明るかった。




