4 王妃付き侍女リーナ――私の判断でございます
「リーナ」
「はい」
フレイア様は、便箋の一行目を見ておられました。
――お父様。
それだけです。
それだけで、私はもう、公爵閣下のお顔を思い浮かべておりました。
ディート公爵閣下は、無駄に声を荒げる方ではございません。
フレイア様が公爵家にいらした頃、私は何度か遠くから拝見しております。広間でお声をおかけになる時も、庭で犬を呼ぶ時も、だいたい同じ高さの声でした。
ただ、フレイア様が十六の時、乗馬の帰りに手袋を片方失くされたことがございました。白い手袋です。探しても見つからず、フレイア様は謝っておられました。公爵閣下はしばらく手袋の片方を見て、それから馬丁へ「道を戻れ」とだけお命じになりました。馬丁はすぐ走りました。
その時の声を、今も覚えております。
低い声でした。
けれど、怒鳴るよりずっと、人を動かすことができる声でございました。
……今は、あの声が必要です。
「陛下」
「何かしら」
「お手紙は、事実だけでよろしいかと存じます」
フレイア様の指が、ペンの軸を撫でました。
「……事実」
「はい。陛下が側妃をお迎えになること。入内が十日後であること。マリーシア様がレーヴェ伯爵家の分家にあたる子爵家の御令嬢であること。すでに御子を宿していると陛下が仰せであること。王宮医の診断がまだであること。南の離宮を望まれていること。準備を王妃府へ一任されたこと」
並べながら、自分の声の端が固くなるのがわかりました。
私は頭の中で適切な言葉を探します。
侍女の言葉は、刃物ではございません。けれど刃物でなくとも、切れることはございます。
「叔母君、イルマ殿下へ前例のご確認を願いたい、と添えれば、公爵閣下には通じます」
フレイア様は、そこで私を見ました。目元に疲れが出ております。
今朝の化粧で隠したはずの薄い影が、昼前には戻ってきていました。昨夜も遅くまで北方伯爵家への返礼品を見ておられたからです。
真珠ではなく銀細工にした方がよい、とお決めになったのは、北方伯爵家の若奥様が金属の強い飾りを好まないからでした。
……そんなことまで覚えておられる方が、今、ご自分のことをどこに書けばよいかわからずにいる。
「リーナ」
「はい」
「お父様は、怒るかしら」
「お怒りになります」
フレイア様の指が、ペンの軸で止まりました。
私は膝を折りました。床へ近づくと、机の下に小さな紙片が落ちているのが見えます。昨日の封筒の端でしょう。フレイア様は昨日、封蝋を剥がす時に指を切られました。爪の横に、まだ赤い筋が残っています。
「公爵閣下は、お怒りになります」
もう一度申し上げました。
「王妃陛下が何かをなさったからではございません」
そこは間違えさせてはなりません。フレイア様は、すぐご自分の仕事へ話を戻す方です。
怒られる理由すら、自分の手落ちに変えてしまうことがあります。
南の離宮の準備が遅れたから。王太后陛下への報告順が悪かったから。伯爵家本家への根回しが足りなかったから。そういうところへ持っていこうとなさる。
――持っていかせません。
「陛下が、助けをお求めになる前にここまで削られたことに、お怒りになります」
ペンの先が、紙に落ちました。点がひとつ、白い便箋にできました。
フレイア様はその点を見つめ、それから小さく息を吸われました。
「……そう」
「はい」
「では、事実だけ」
「はい」
フレイア様は、ゆっくり書き始めました。
字は細いままでございます。けれど、今度は続きました。
――陛下が、側妃を迎えられます。
――入内は十日後とのこと。
――お相手はマリーシア様。レーヴェ伯爵家分家の子爵家の御令嬢です。
――すでに陛下の御子を宿していると、陛下より伺いました。
――王宮医の診断は、まだ受けておられません。
――南の離宮を望まれています。
――準備は、王妃府へ一任されました。
ペンが止まります。次の一行を待つ間に、廊下から侍従の声が聞こえました。
陛下ではございません。次の謁見の準備に走る者たちです。いつも通りの王宮。誰もまだ、何が折れたか知りません。
フレイア様はペンを持ち直しました。
――可能でしたら、イルマ叔母様に前例をご確認いただけますでしょうか。
そこでペンが置かれました。
「これで」
「はい」
「封を」
「承知いたしました」
便箋を乾かします。吸い取り紙でインクを取り、紙を折る。そして公爵家へ出す私用の折り方をします。
王妃府の正式文書とは違います。嫁がれた日に、公爵家の家令から私が教わりました。
――フレイア様からご実家へ出すものは、この折り方で。
家の者は、それで急ぎかどうかわかります。今日ほど急ぎのものが、これまであったでしょうか!
封蝋を温めます。公爵家から持参された小さな印章を、フレイア様へ差し出しました。フレイア様はそれを取ります。指先が白くなっていました。
蝋に印が沈みます。公爵家の紋が、赤い蝋の中に出ました。
私は封を受け取り、胸の前で一度礼をしました。
「すぐに出してまいります」
「王妃府の使いで」
「いいえ」
フレイア様が顔を上げます。私はもう一度、礼を深くしました。
「公爵家から付き従っております者を使います。王妃府の使いでは、途中で宰相府に寄ります。宰相府に寄れば、誰かが読む理由を探します」
「リーナ」
「私の判断でございます」
ここだけは、先に申し上げました。
責められるなら、私の判断です。フレイア様のせいにさせません。




