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「側妃を迎える。準備は王妃府で」そう告げた王は、二ヶ月後、王座を失いました。  作者: さんけい


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3 王妃付き侍女リーナ――人は布ではない

 王妃陛下が「疲れました」と仰せになった時、私は布の端をつかんでおりました。


 帳面についた赤いインクを拭くための布です。端が指の中で潰れましたので、一度広げ、角を合わせて畳み直しました。

 布に罪はございません。帳面にも罪はございません。

 銀の杯にも、水差しにも、ペン置きにも、何の罪もございません。

 罪があるものを挙げろと言われましたら、私はいくらでも挙げられます。

 けれど侍女の身で、陛下のお名前を最初に口へ出すわけにはまいりません。口へ出したところで、聞くべき方々が耳を貸すかどうかも、また別の話でございます。


「お疲れでございましたら、奥の長椅子へ」

「いい」


 王妃陛下――フレイア様は、そう仰せになりました。

 声は細くございました。細いのに、いつもの形を保とうとしていらっしゃる。五年お仕えしていれば、わかります。


 フレイア様は十八でこの王宮へお入りになりました。

 私もその時、公爵家から付き従ってまいりました。

 母が公爵家の針仕事をしており、私自身も幼い頃から奥向きの手伝いをしておりましたから、フレイア様付きに選ばれた時は、家じゅうの者に喜ばれました。

 フレイア様は、その頃から《《お静か》》な方でございました。

 お静か、という言葉は便利です。周りの方々は、何かにつけてそう仰います。


 ――フレイア様はお静かでいらっしゃる。

 ――フレイア様は落ち着いておられる。

 ――フレイア様はお強い。

 ――フレイア様なら大丈夫。


 そのたびに、私は膝の上で手を重ねました。爪が手袋の内側に当たることもございました。

 《《お静か》》なのは、《《騒ぐ暇がない》》からでございます。

 落ち着いておられるのは、騒いだところで誰も仕事を代わらないからでございます。

 《《お強い》》のではなく、《《強いことにされている》》だけでございます。


 朝、フレイア様は誰より先に起きます。

 祈りの前に、夜のうちに届いた文を分けます。

 王妃府に回すもの。宰相府へ送るもの。王太后陛下へお伺いを立てるもの。陛下へ直接お渡しするもの。いま読むと朝食が冷えるもの。朝食が冷えても読まねばならないもの。


 朝食はよく冷えてしまいました。

 温かい粥をお出ししても、使者が来れば蓋を戻します。蓋を戻した粥は、二度目に開けた時には縁だけ固くなっております。フレイア様はその縁を避けて、中ほどだけを匙で掬われます。

 それを見て、厨房の者は次から少し水を多めにしました。匙ですくいやすいようにです。

 誰も表立って言いません。けれど、厨房も、針子部屋も、洗濯場も、フレイア様が何を食べ、何を残し、いつ茶を冷ましているか、ちゃんと見ております。

 《《見ていないのは、見なくても困らない方々だけでございます》》。


 陛下は、困らない方でございました。

 いえ、困らないようにフレイア様がしておられた、と言う方が正しいのでしょう。

 陛下が謁見で相手国の王弟殿下のお名前を間違えられた日、フレイア様は午後の茶会で、その国の大使夫人の故郷の菓子をお出ししました。小麦ではなく、木の実の粉を使う菓子です。厨房が難しい顔をしておりましたので、フレイア様は公爵家にいた頃の古い料理帳まで出されました。

 大使夫人は、菓子を一口召し上がってから、皿の縁に添えていた指を緩めました。

 陛下は、その夜の晩餐で「今日は無難に済んだな」と仰せになりました。

 私はその時、水差しを持っておりましたか、ついつい銀の柄が、手のひらに食い込みました。

 水差しに罪はございません。


 王太后陛下が、先代王陛下の御命日に、去年とは違う修道院へ寄付を増やしたいと仰せになった時も、フレイア様は三日かけて調整なさいました。

 去年多く受けた修道院には布を。別の施療院には薬草を。王太后陛下のお名前で出す分と、王妃府から出す分を分け、どちらの面目も傷つかないようにしました。

 王太后陛下は、最後に「フレイアは細かいところに気がつきますね」と仰せになりました。

 褒め言葉でございます。たぶん、褒め言葉のつもりでいらしたのでしょう。

 その日、礼拝堂から戻ったフレイア様の靴を脱がせました。踵の皮が赤くなっていました。長く立っておられたからです。

 けれど翌朝には、同じ靴を履かれました。王太后陛下の前で使うには、その靴が一番よいからでございます。


 そういうものを、私は五年見てまいりました。


 陛下がフレイア様の寝室へお越しになる日は、私たちにもわかります。

 香が違います。湯の温度も、寝具も、夜着も違います。侍女は表に出さず、けれど準備だけは整えます。


 ――《《五年で、両手に届きません》》。


 その数を、私は数えるつもりなどございませんでした。

 ですが、寝具を整える者が数えずにいられるわけもございません。

 フレイア様が数えたかどうかは存じません。存じませんが、数えなくてもわかるほど少なかったことだけは確かです。

 その陛下が、本日、フレイア様に仰せになりました。


 ――そなたに子があれば。

 ――そなたは少し、薄い。

 ――丈夫だから忘れがちだろうが。


 私は、布を畳み直しました。一度では足りず、もう一度、角を合わせました。

 白い布の端が、指の下で四角くなります。

 きちんと畳めば、棚に戻せます。汚れたら洗えます。破れたら縫えます。

 でも、人は布ではございません。

 薄い、と言ってよいものでもございません。


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