2 王妃フレイア――疲れました
「そなたに子があれば、このような話にはならなかった」
陛下の視線が、私の肩のあたりに来た。
「わかってくれるな」
銀の文鎮を少しずらす。
修道院長の文字が全部見えた。最後の一行に、今年は薬草の値が上がっております、とある。控えめな字だった。
「マリーシア様は、おいくつでいらっしゃいますか」
「二十五だ」
「二十五」
「そなたより少し上だが、可愛らしい女だ。よく笑う」
陛下の声が柔らかくなった。
「王宮も、あれくらい明るい方がよい。そなたは、よくやってくれているが」
そこで言葉が切れた。
陛下は手袋を持ち直した。革が、きゅ、と鳴る。
「何でございましょう」
「いや。そなたは少し、《《薄い》》」
――薄い。
南の離宮の寝具は、去年の秋に入れ替えた。だが、王族用の紋章が入っている。側妃に使わせるなら替えが要る。身重なら、香は弱いものに。階段の敷物は厚く。庭へ出る石段は苔を削る。王宮医の診断が先。レーヴェ伯爵家本家への文も要る。分家の男爵家へ送る文とは別にしなければならない。
――薄い。
なのに、その言葉だけが、どこにも置けない。
「フレイア」
「はい」
「《《そなたなら、うまくやってくれるだろう》》」
陛下は立ち上がった。
手袋を片方だけはめ、もう片方を持ったまま扉へ向かう。侍従が外で控えている。次の予定の紙を差し出す音がした。
「マリーシアは気の優しい女だ。そなたも、あまり堅苦しくしないでやってくれ」
「努めます」
「彼女は王宮に慣れていない。何かあれば、教えてやってほしい」
「はい」
「それと、妊娠しているのだから、無理はさせないように」
「はい」
「《《そなたは丈夫だから》》、そのあたりのことを忘れがちだろうが」
赤いインクのついたペン先が乾いていく。
「では頼んだぞ」
扉が閉じた。侍従の声が廊下に流れる。
「陛下、次は財務卿がお待ちです」
「ああ、行く」
足音が遠ざかる。
机の上には、施療院の帳面。西方侯爵夫人の茶会の招待客一覧。北方伯爵家への返礼品の控え。王太后陛下の礼拝の席順。今日中に終わらせるはずだったものが、順番に重なっている。
その上に、南の離宮が乗る。妊娠三ヶ月が乗る。
伯爵家ではなく、分家男爵家の娘が乗る。
私はペンを取る。
軸が指の腹をすべった。赤いインクが帳面の端に細くつく。施療院の薬草代の横に、意味のない線が一本入った。
「王妃陛下」
控えていたリーナが、机の横へ来た。
いつもの足音より少し速い。裾が床を擦る音が乱れている。
「お茶を、お淹れいたします」
「……いい」
声が思ったより小さく出た。
リーナは膝を折った。私の手元を見ている。帳面の端の赤い線。筆先。乾きかけた墨。
「殿下」
「大丈夫」
――大丈夫。
よく使う言葉だった。
礼拝の席順が変わっても。侯爵夫人同士が招待状の日付に腹を立てても。陛下が謁見で相手国の王弟の名を間違えても。王太后陛下が去年と違う修道院へ寄付を増やしたいと仰せになっても。夜更けに使者が来ても。
朝までに返事を書けばいい。誰に先に謝るか決めればいい。何を隠し、何を表に出すか決めればいい。
十日後。南の離宮。妊娠三ヶ月。世継ぎ。――薄い。
リーナが、水差しに手を伸ばした。銀の杯に水が注がれる。水面が細かく揺れて、机の上の光を崩した。
杯を受け取る。
縁が唇に触れる前に、手が止まった。
「――リーナ」
「はい」
「お父様へ、手紙を……」
リーナは返事の代わりに立ち上がった。
棚の二段目を開ける。いつもの王妃府の便箋ではなく、公爵家へ出す私用の紙を取る。白く、少し厚い紙。嫁ぐ時に、父が持たせてくれたものだった。
机の上に置かれた紙は、施療院の帳面より白い。
書き出しを考える。
――お父様。
――陛下が、側妃を迎えられます。
――入内は十日後。
――マリーシア様という、レーヴェ伯爵家分家の男爵令嬢で、すでに陛下の御子を宿しているとのこと。
――王太后陛下はご存じです。
――準備は王妃府へ一任されました。
そこまで頭の中で並べて、杯を机へ戻した。水は少し減っている。いつ口に含んだのか、覚えていない。
ペンを持つ。今度はすべらなかった。
インクが紙に吸われる。字は、思ったより細い。
――お父様。
そこまで書いて、ペンを置いた。
次の行が白い。
十日後。南の離宮。王宮医。王太后陛下。伯爵家本家。分家男爵家。妊娠三月。陛下の子。側妃。世継ぎ。
……書く順番が決まらない。
リーナが、机の端に布を置いた。帳面についた赤いインクを拭くための布だ。
けれど、まだ誰も帳面に触れない。
「リーナ」
「はい」
「……疲れました」
リーナの指が、布の上で一度だけ曲がった。




