1 王妃フレイア――身重の側妃が来るそうです
「側妃を迎えることにした」
国王エルヴィス陛下は、部屋に入るなりそう言った。
朝の執務前だった。机の上には、東部の施療院から届いた帳面が開いてある。昨年より熱病の流行が早い。修道院長の願い出は控えめだったが、控えめに書かなくてはならないほど困っている、ということもある。
薬草代を増やす。布も要る。洗い替えが足りないのだろう。
赤い印をひとつ入れたところで、扉が開いた。
先触れはあった。用件までは聞かされていない。
「側妃、でございますか」
「ああ」
陛下は椅子の前まで来て、そこでようやく手袋を外した。袖口から、甘い香油の匂いがした。朝の執務前に使うものではない。少なくとも、謁見の前に選ぶ香ではなかった。
「いつ、お迎えに」
「十日後だ」
ペン先が紙の上で止まる。赤いインクが、まだ触れていない紙の上に小さく丸くなった。
「十日後」
十日。
王宮に側妃を迎えるには短い。
部屋の手配。侍女の選定。衣装。馬車。先方への正式な使者。王太后陛下への報告。儀典長との相談。貴族夫人たちへの根回し。席順。
側妃は王妃ではない。けれど、ただの愛妾でもない。迎えるなら、迎えたことにするだけの形が要る。形がなければ、王宮の誰かが勝手に意味を付ける。意味を付けられたものは、あとから剥がす方が面倒になる。
「先方のお家は」
「レーヴェ伯爵家だ」
「レーヴェ伯爵家の、どなたでございましょう」
「マリーシアだ」
その名に、すぐ顔は浮かばなかった。
レーヴェ伯爵家の令嬢なら、二年前の春の舞踏会で一度顔を合わせている。黒髪の落ち着いた娘だったはずだ。名が違う。年も、たぶん違う。
「陛下。レーヴェ伯爵家のご令嬢に、マリーシア様という方は」
「分家だ」
陛下は椅子に腰を下ろした。
「だが同じ血筋だ。細かく分ける必要はないだろう」
「分家でございましたら、家名と爵位を確認いたします。伯爵家の御令嬢として扱うか、子爵家、男爵家の御令嬢として扱うかで、招待状の書き方が変わります」
「フレイア」
陛下の声が、少し低くなった。叱責ではない。面倒なことを言われた、という声だ。
ペンを置く。インク壺に当たり、小さく鳴る。
「失礼いたしました。マリーシア様のご実家へは、すでに正式な使者を」
「まだだ」
「では、本日中に」
「それもそなたが手配してくれ」
「承知いたしました。お部屋はどちらを」
「南の離宮がいい」
南の離宮。
かつて先代王の末姫が使っていた離宮だ。明るく、庭も近い。身重の女性には悪くない。悪くないが、あそこは王族の姫君か、他国から嫁いだ王族の賓客が一時的に使う格の部屋だった。
側妃に与えるには重い。
「南の離宮でございますか」
「ああ。マリーシアは明るいものが好きだ。部屋も暗いと気が滅入るだろう」
「身重でいらっしゃるのですか」
陛下の手が、肘掛けの上で軽く跳ねた。
そこで初めて、陛下の表情は機嫌のよくなった。謁見で褒め言葉を受けた時より、狩りで大鹿を仕留めた時より、ずっとわかりやすい。
「ああ。私の子を宿している」
窓の外で、庭師が枝を切った。
ぱちん、と乾いた音がした。
「いつ頃、と」
「三月だそうだ」
「王宮医の診断は」
「まだだ。だが彼女の家の医師がそう言っている」
「では、入内前に王宮医を」
「疑うのか」
陛下の指が、肘掛けを二度叩いた。
「いえ。王家の御子である可能性があるなら、王宮医の記録が必要でございます」
「可能性ではない。私の子だ」
もう一度、肘掛けが鳴った。
南の離宮。十日後。王宮医の診断なし。妊娠三月。分家の娘。伯爵家の名で通したい陛下。王宮に慣れていない側妃。
施療院の帳面を閉じる。
東部への返事は午後に回すしかない。午後には西方侯爵夫人の茶会がある。明日は王太后陛下の礼拝。明後日は北方伯爵家の婚礼祝いの返礼品を確認する。そこに十日後の側妃入内。
十日後。
側妃。
しかも、すでに子がいる。
「陛下」
「何だ」
「王太后陛下は、この件を」
「母上には昨夜話した」
「何と」
「世継ぎのためなら仕方ない、と」
世継ぎ。陛下はその言葉を、ようやく話題に乗せた。
五年だ。
私は十八でこの王宮に入った。その時陛下は二十五でいらした。
王妃としての務めは、最初から多かった。先代王の崩御から二年しか経っていない王宮は、どこにも先代の影を残していた。
王太后陛下はまだお若く、けれど先代王の妃でいらした時間が長く、陛下の治世に譲るべきものと譲りたくないものの区別を、日ごとに変えられた。
私はひとつずつ覚えた。
どの夫人が王太后陛下の前で先代王の話をしてよいか。どの家に、王妃からの返礼を一日遅らせてもよいか。
どの修道院には金貨より布が要るか。どの国境伯には、言葉より先に馬を褒めるべきか。
そういうことを覚えている間に、陛下の夜の訪れは減っていった。
片手では足りない。両手には届かない。
五年という時間に置くには、ずいぶん軽い数だった。




