39 宮中有力者グライス夫人――要請ならば謹んで参上いたします
陛下の御名で招待状が届いた。昼前のことだった。
私は、修道院へ送る布の目録を見ていた。厚手のもの、薄手のもの、古いがまだ使えるシーツ、ほつれを繕えば子供用の肌着にできるもの。その横に、北区施療院へ回す薬草代の覚え書きも置いていた。
そこへ、王宮の使いである。
侍女が盆に載せて持ってきた封書を見た瞬間、部屋にいたローレン侯爵夫人が扇を止めた。
「まあ」
それだけだった。
カッセル伯爵夫人は、持っていた茶碗を受け皿へ戻した。音はほとんどしない。
私は封を見た。王太后陛下のものではない。陛下の印だった。
「これは、開けないわけにはまいりませんね」
私が言うと、ローレン侯爵夫人がにこりとした。
「もちろんですわ。王宮からの御文ですもの」
――王宮からの御文。
便利な言い方だ。陛下からの命令、と言わずに済む。
封を開けると、中の書面は厚かった。宰相府が整えた文面なのだろう。字は書記官の手で、最後に陛下の署名がある。
――側妃マリーシア様の御入内後の御挨拶の席。
――王太后陛下の御意向。
――御身に障りなき範囲。
――小さく。
そこまではよかった。
けれど最後に一文、陛下の御名で添えられていた。
――側妃の新たな務めに、王宮の諸家が心を寄せることを望む。
私はそこを二度読んだ。
――心を寄せることを望む。
命じる、とは書いていない。だが、陛下の署名でそれを書くなら、同じことだ。
「何と?」
カッセル伯爵夫人が訊いた。私は書類を折らず、そのまま二人の前へ置いた。
ローレン侯爵夫人が先に読み、次にカッセル伯爵夫人が読む。二人とも、途中までは何も顔に出さなかった。
最後の一文で、ローレン侯爵夫人の扇の骨が、ほんの少しだけ鳴った。
「まあ」
また、同じ言葉だった。今度は少し中身が違う。
「陛下は、私どもの《《心》》を御所望なのですね」
カッセル伯爵夫人が静かに言った。
「そう読めますわね」
「困りましたこと」
「ええ、本当に」
私達は黙った。
窓の外では、庭師が冬越しに失敗した鉢を片付けている。乾いた土が布の上に落ちる音がした。
「参りましょう」
私は言った。ローレン侯爵夫人も、カッセル伯爵夫人もうなずいた。
そこに迷いはない。王の署名つきの招待を、続けて断るのは下策だ。
私達は反逆者ではない。不作法者でもない。王宮を乱したいわけでもない。
「参って、座って、お茶をいただいて、御挨拶をして、帰りましょう」
ローレン侯爵夫人が言った。
「ええ」
カッセル伯爵夫人は、茶碗をもう一度手に取った。
「側妃様には、失礼のないように」
「もちろん」
「王太后陛下にも」
「もちろん」
「陛下にも」
「もちろん」
そこで、三人とも少し笑った。笑うしかない時は、上品に笑う。
「ただし」
私は目録の上に手を置いた。
「王宮へ、こちらから手を差し出すのはやめましょう」
ローレン侯爵夫人の扇が止まった。
カッセル伯爵夫人の目が、私の手元へ落ちる。
布の目録。薬草代の覚え書き。修道院への寄付先。施療院への問い合わせ。
これまでなら、王妃府へ写しを送った。
王妃陛下の御快癒祈願という名目で動かした寄付も、本当ならどこかで王宮に伝えておいた方がよい。重複や不足が出るからだ。
だが、宰相府が今、それを集めようとしている。陛下の御意向で、必要なところへ回すために。
言葉は正しい。中身も、間違ってはいない。
でも、それをされるなら、こちらはもう私的寄付を私的寄付として扱うしかない。
「王妃府が閉じている間、私どもは私どもで祈る。それだけですわ」
私は言った。
「王宮へまとめて差し出せば、今度は側妃様の御挨拶の席に合わせて、都合よく使われます」
「善意の付け替えですわね」
カッセル伯爵夫人が言った。
「それは困りますわ」
ローレン侯爵夫人は、扇をゆっくり閉じた。
「私は、王妃陛下の御快癒祈願として修道院へ布を送りました。側妃様御入宮の華やぎとしてではありません」
「私も、施療院へ薬草代を出しました。王妃陛下が去年気にかけておられた北区です」
「では、王宮へは」
「礼状の写しだけ」
私は答えた。
「金額や品目は、求められれば答えます。ただし、宰相府を通して配り直される形にはしない。最初から、こちらで必要なところを確かめて送る」
「施療院や修道院から直接聞くのですか」
「ええ。王妃府がなさっていたことの、ほんの端ですけれど」
口にしてから、胸の奥が少し重くなった。
王妃府がなさっていたことの端。
端どころではない。私達三人が動いても、王妃陛下の表の一行に届くかどうか。
どこに何が足りないか。誰の寄付をどこへ回せば、顔も立ち、物も届くか。
どの家とどの家を同じ寄付先にしない方がよいか。
どの修道院には布が余り、どの施療院には薬が足りず、どの孤児院には聖人伝より麦が必要か。
それを知るには、人と書類が要る。そして、聞いてもらえる信用が要る。
王妃陛下は、それを五年で作った。
私達は、それを今になって触っている。
「王妃陛下は、怒っていらっしゃるかしら」
ローレン侯爵夫人が、ふと小さく言った。
「さあ」
私は答えた。
「怒っているなら、まだよろしいのかもしれません」
カッセル伯爵夫人が、手袋の指先を撫でた。
「怒るには、力が要りますもの」
その通りだった。療養中の方に、怒る力が残っているかどうか。
私達は少し黙った。
侍女が新しい茶を運んできた。今度の茶は、ちょうどよい温度だった。うちの侍女が入れたものだ。王宮の茶ではない。
「返事をいたしましょう」
私は封書をもう一度手に取った。
「出席で?」
「ええ。喜んで参ります、と」
「喜んで」
ローレン侯爵夫人の声に、少し笑いが混じった。
「ええ、喜んで。そこは大事ですわ」
カッセル伯爵夫人が、今度ははっきり微笑んだ。
「喜んで参り、茶をいただき、御挨拶をし、帰る」
「側妃様には何を?」
「御入宮、おめでとうございます。御身を大切になさってくださいませ」
「御子のことは?」
「公の発表がきちんとしてから」
「王妃陛下のことは?」
「聞かれたら、御快癒を祈っております、と」
「聞かれなければ」
「言わない」
三人で顔を見合わせる。方針は決まった。
王宮へは行く。礼は尽くす。
しかし、こちらから親しみを差し出さない。助け舟も出さない。
王宮がこちらの心を望むなら、まず王宮が王妃陛下の心をどう扱ったかを見せればよい。
私は文机へ移った。ペンを取り、短く返事を書く。
――御招き、ありがたく存じます。
――王太后陛下の御席に、謹んで参上いたします。
――側妃マリーシア様には、御身穏やかにお過ごしのほど、お祈り申し上げます。
陛下の御心に添い、とは書かなかった。心を寄せる、とも書かなかった。
吸い取り紙を乗せ、すぐに外す。
「グライス夫人」
ローレン侯爵夫人が言った。
「何でしょう」
「茶会の後、そのまま修道院へ寄りません?」
「よろしいですわね」
カッセル伯爵夫人も頷いた。
「私も参ります。王宮の馬車溜まりで長く立ち話をするより、ずっとよいでしょう」
「では、そうしましょう」
これで、茶会の後に王宮へ残らない理由ができた。
側妃様が引き留めたとしても、修道院への約束がある。
王妃陛下御快癒祈願の寄付相談。誰も咎められない。
「ところで」
カッセル伯爵夫人が、机の上の目録を見た。
「北区施療院、薬代がかなり足りないとか」
「ええ。昨日、院長から写しが来ました」
「では、うちからも少し回します。去年、薬草園の支援を王妃陛下に勧められたのです。あれを今年も続ける形にすれば、名目は立ちます」
「助かります」
「ローレン夫人は布を?」
「布はもう充分らしいの。むしろ西の修道院が麦を欲しがっているとか。うちの領地から出せる分を見ますわ」
話はすぐにそちらへ移った。
茶会の服。側妃様への挨拶。王宮での席。
それらも大事だ。
だが、布と麦と薬代は、もっと早く決めなければならない。
王宮が王宮の都合で招待状を出している間にも、施療院の瓶は空になる。修道院の麦は減る。孤児院の子供は腹を空かせる。
「王妃陛下は」
ローレン侯爵夫人が、目録に目を落としたまま言った。
「毎年、これをなさっていたのね」
「ええ」
「私、布を送ればよいと思っていた年がありましたの」
「私は蝋燭」
「私は薬草園。正直、どうして施療院ではなく薬草園なのかと思いましたわ」
カッセル伯爵夫人が苦笑した。
「でも、去年それで助かったのでしょう?」
「ええ。薬草園へ入れた分が、今年の春先に回るはずでした」
「回るはず」
その言葉で、また少し空気が沈む。回るはずのものが、回らない。それは王宮の中だけの話ではない。
私は返書を封じ、封蝋を垂らし、印を押す。
蝋が固まるまで、三人とも黙っていた。小さな赤い丸が、書面の上で艶を失っていく。
固まったところで、侍女を呼んだ。
「王宮へ。お返事は、出席」
「かしこまりました」
侍女が盆に載せて持っていく。
扉が閉まると、ローレン侯爵夫人が息を吐いた。
「行くのですね」
「行きます」
私は茶碗を取った。
「陛下が、心を寄せよとお望みですもの」
「寄せます?」
カッセル伯爵夫人が訊いた。
私は茶を一口飲んだ。温度はやはり、ちょうどよい。
「祈りの中でなら」
二人が、今度は声を立てずに笑った。
*
王宮の茶会当日、私達三人は約束したわけでもないのに、ほとんど同じ時刻に馬車を降りた。
遅れず。早すぎず。王宮が困らない時刻。
ローレン侯爵夫人は薄い藤色。
カッセル伯爵夫人は青灰色。
私は淡い緑。
誰も黄色は着なかった。誰も白を避けすぎもしなかった。
喪服めいた色にもしていない。礼を尽くした装い。
それだけ。
南の離宮へ向かう回廊は、前より花が増えていた。
黄色と白。香りは弱い。王宮医が止めているのだろう。
小広間に入ると、側妃マリーシア様がぱっと顔を上げた。
今日は嬉しそうだった。私達を見て、本当に嬉しそうに。
その顔を見た時、少しだけ胸が痛んだ。
――この方は、何も分かっていない。
分からないまま、王の署名で私達をここへ呼んだ。私達が来たことを、自分が受け入れられたのだと思うだろう。
「ようこそ、おいでくださいました」
マリーシア様は、明るい声で言った。人前の呼称も、今日は間違えなかった。
セレスタ夫人が少し後ろに控えている。コリンナ様もいる。
「御招き、ありがたく存じます」
私は礼をした。ローレン侯爵夫人も、カッセル伯爵夫人も続く。
椅子に案内される。茶が出る。菓子は柔らかく、甘さは控えめだった。
側妃様は、今日はよく話した。
南の離宮の庭。黄色い花。王宮医が甘いものを控えろと言うこと。刺繍を始めたこと。陛下が、子は元気ならどちらでもよいとおっしゃったこと。
私達は聞いた。微笑んだ。相槌を打った。
失礼はしない。けれど、誰も自分の話を深くは出さない。
娘のことも。領地のことも。施療院の薬代のことも。修道院の麦のことも。
王妃陛下が去年、踏み台を出してくださったことも。
それは、この場へ差し出さない。
「皆様、今日は来てくださって、本当に嬉しいです」
マリーシア様が言った。その声は素直だった。
「また、ぜひ」
私は微笑んだ。
「御身に障りのない範囲で」
セレスタ夫人の視線が、こちらへ来た。分かっている目だった。
この夫人は、おそらく今日の席の意味を分かっている。だから、少し気の毒だった。
茶会は、つつがなく終わった。
つつがなく。まさにその言葉の通りに。
私達は立ち上がり、礼をして、南の離宮を出た。
馬車溜まりへ向かう途中、ローレン侯爵夫人が小さく言った。
「可愛らしい方ね」
「ええ」
カッセル伯爵夫人が答えた。
「可愛らしい方でした」
それ以上は言わなかった。
*
王宮の門を出ると、馬車は修道院へ向かった。
南の離宮の明るい窓は、後ろへ遠ざかっていく。
馬車の中で、ローレン侯爵夫人が膝の上の目録を広げた。
「麦の話ですけれど」
私達は、すぐにそちらを見た。




