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「側妃を迎える。準備は王妃府で」そう告げた王は、二ヶ月後、王座を失いました。  作者: さんけい


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38 国王エルヴィス――皆、なぜ難しくする

 その日の夕方、マリーシアのもとへ行くと、彼女は窓辺の長椅子に座っていた。


 膝に薄い掛け布を置き、手には小さな刺繍枠を持っている。黄色い花を刺しているらしい。

 ただ、針は布に刺さったまま、ほとんど進んでいない。


「陛下!」


 彼女は私を見ると、すぐに立ち上がろうとした。セレスタ夫人が横から支える。


「そのままでよい」


 私が言うと、マリーシアは長椅子へ戻った。

 素直だ。素直なのに、皆が難しくする。


「お加減は」

「悪くありません。でも、少し眠くて。セレスタ夫人が、眠い時は眠るようにと」

「そうしなさい」

「でも、眠っていたら、陛下がいらした時にお迎えできませんもの」


 言いながら、彼女は刺繍枠を横に置いた。

 布の上には、黄色い花が半分だけ咲いている。糸が少し絡んでいた。


「刺繍か」

「はい。お腹の子のために、何か作れたらと思って。でも、あまり上手ではなくて」

「ゆっくりでよい」

「ゆっくりばかりですわ」


 彼女の声が沈む。私は長椅子の隣に座った。

 セレスタ夫人は少し下がる。控えの女官も下がった。

 完全に二人にはならないが、それでも少し話しやすくなる。


「茶会のことか」


 私が訊ねると、マリーシアは唇を噛んだ。


「また、皆様おいでにならないのですか」

「何人かは来る」

「何人か」


 彼女は、その言葉を小さく繰り返した。


「ローレン侯爵夫人も、カッセル伯爵夫人も、グライス夫人も?」

「調整している」

「それは、来ないということですわ」


 思ったよりはっきり言った。

 私は彼女の手を取った。指先は温かいが、少し湿っている。


「心配するな。私からも言う」

「言わないと来てくださらないの?」


 それを言われると、返事に困る。マリーシアは私の手を握り返した。


「わたくし、何かしたのかしら」

「何も」

「では、どうして?」

「夫人達は、王妃の療養を気にしている」

「また王妃様……」


 その声には、隠しきれないものがあった。苛立ちか、寂しさか、どちらもか。


「わたくし、王妃様にお会いしたこともほとんどありません。嫌なことを言ったわけでも、追い出したわけでもありません。なのに、皆様、王妃様のために祈る、王妃様のために寄付する、王妃様のために欠席する。わたくしのためには?」

「そなたのための茶会だ」

「椅子が空いた茶会です」


 マリーシアの目が潤んできた。泣きそうになるのが早い。

 だが、今日は責める気になれなかった。


「この子もいるのに」


 彼女は腹へ手を当てた。掛け布の上からなので、まだ形は分からない。


「この子は、陛下の子なのでしょう? 皆様、王妃様のお祈りはできるのに、この子へのお祝いはできないの?」

「できる」

「では、どうして」

「順があるのだ」


 言った瞬間、自分でも母上や侍従長の言葉のようだと思った。

 マリーシアもそう思ったのだろう。顔を伏せる。


「陛下まで」

「違う」

「皆、順、手続き、体調、王妃様。わたくし、王宮に来たのに、陛下のそばに来たのに、前より寂しいです」


 その言葉は、胸に来た。


 ――前より寂しい。


 私は彼女を王宮へ入れた。南の離宮を与えた。医師をつけ、セレスタ夫人をつけ、部屋を明るくした。

 それなのに、彼女は寂しいと言う。

 つまり、足りないのだ。周囲が足りない。彼女を側妃として受け入れる空気が足りない。


「マリーシア」

「はい」

「茶会は、もう一度整えさせよう」

「でも」

「私の名で、夫人達へ声をかける」


 マリーシアの顔が上がり、潤みの残った目がこちらを向く。


「……本当に?」

「ああ」

「陛下が言ってくださるの?」

「言う」

「では、皆様来てくださるかしら」

「来るだろう」


 そう言った時、部屋の端でセレスタ夫人の指が動いた。

 何か言いたいのだろう。だが言わせない。今はマリーシアを安心させることが先だ。


「嬉しい」


 マリーシアは、ようやく少し笑った。それだけで、部屋の色が変わったように見える。


「やっぱり陛下だけですわ」

「大げさだ」

「本当です。皆、わたくしに優しい顔はしてくださるけれど、遠いのです。セレスタ夫人も、叔母様も、女官達も。陛下だけが、近くにいてくださる」


 ――近くに。


 その言葉に、私は少し気分が良くなった。


 ――近くにいる。


 王は、遠いものだ。礼拝堂でも、会議室でも、謁見の間でも、人は一定の距離を置く。

 フレイアも、いつもその距離を守った。夫婦であっても、王と王妃として。

 それは正しい。正しかったのだろう。

 だが、マリーシアは違う。私を男として見る。

 名で呼び、袖をつかみ、寂しいと言い、子の話をする。

 なのにそこに、王宮の面倒な書類が入り込む。


「無理はするな」


 私は彼女の腹の上の手に、自分の手を重ねた。


「この子のためにも」

「はい」

「茶会のことは、私に任せなさい」

「はい」


 マリーシアは、今度は素直にうなずいた。


 *


 執務室へ戻ると、机の上に新しい書面が置かれていた。

 宰相府からだった。

 北区施療院。西の修道院。東の孤児院。

 配分表。薬代。麦。香油。

 私は一枚目を読んだが、途中で目が止まった。


 ――王妃府より宰相府へ照会するよう御返答をいただきましたため。


 王妃府。またそこだ。

 フレイアが療養に出た途端、皆が王妃府を探す。

 王妃府が閉じているから、宰相府へ来る。宰相府が困ると、私へ来る。

 では、王妃府が閉じる前に、なぜ皆で写しを持っていなかったのか?


「宰相を」


 私は侍従に言った。


 しばらくして、宰相が来た。疲れた顔をしている。

 彼も最近、書類を抱えていることが多い。


「これは何だ」


 私は施療院からの書面を見せた。


「北区施療院からの再照会でございます」

「なぜ私に来る」

「王妃府が新規執務を受けられず、宰相府へ回ったためでございます」

「なら宰相府で処理せよ」

「例年の配分は王妃府が調整しておりました。写しはありますが、今年の増減については」

「去年と同じでよいだろう」


 宰相は、口を開きかけて、やめた。


「何だ」

「今年は、王妃陛下御快癒祈願の名で、夫人方から個別の寄付が動いております。布、香油、聖人伝、果物などが、例年とは違う流れで入っており、去年と同じにいたしますと、偏りが」

「では調整せよ」

「その調整を、王妃府が」

「また王妃府か」


 声が強くなった。宰相は頭を下げた。


「申し訳ございません」

「謝れと言っているのではない。宰相府は何のためにある」

「国政のために」

「施療院の薬代も国政だろう」

「はい」

「なら処理せよ。夫人達が勝手に布や香油を送っているなら、必要なところへ回せばよい」

「夫人方の寄付品を、宰相府が勝手に付け替えることは難しゅうございます。名目が王妃陛下御快癒祈願であり、それぞれ寄付先が指定されている場合」

「面倒だな」

「はい」


 宰相が、初めて素直にそう言った。

 私は机に手を置いた。書面が少し震えた。


「皆、なぜ難しくする」


 言うと、宰相は頭を下げたままだった。侍従長も、部屋の端で動かない。


「必要なところに必要なものを送ればよい。茶会には来ればよい。王妃の療養を祈るなら祈ればよいが、側妃を避ける理由にするな。フレイアがいないなら、いる者で回せばよい」


 誰も返事をしない。部屋の中に、紙の匂いとインクの匂いがある。

 私は椅子に座った。


「宰相」

「はい」

「配分は、去年の表を基準に、急ぎのものから処理せよ。薬代はすぐ出せ。麦もだ。布と香油は、後でよい」

「かしこまりました」

「夫人達の寄付については、王太后名で礼を出せ。今後は宰相府を通すように、と」


 宰相の肩が、少しだけ強張った。


「陛下、それは」

「何だ」

「王妃陛下御快癒祈願の私的寄付を、宰相府に集めるとなりますと、夫人方は」

「必要なところへ回すためだ」

「お気持ちを害される方が出るかと」

「また夫人方か」


 私は手を振った。


「では文面は任せる。角を落とすのは得意だろう」


 宰相は、もう一度頭を下げた。


「承知いたしました」

「それと、茶会の三夫人への招待。私の名で出す」


 宰相が顔を上げた。侍従長も、今度はさすがに一歩動いた。


「陛下」


 二人の声が重なった。珍しい。

 私は少し笑った。


「何だ。今度は息が合うのか」


 宰相は唇を引き結んだ。侍従長は、すぐに頭を下げた。


「陛下御名での個別招待につきましては、王太后陛下へ」

「確認は要らない」

「しかし」

「これは私が決める」


 言ってから、私はマリーシアの涙を思い出した。


 ――とても寂しゅうございました。


 彼女は、あの明るい部屋で寂しがっている。王妃の名で欠席する夫人達が、その寂しさを作っている。

 ならば、王が声をかけるしかない。


「文面は、失礼のないように整えろ。だが、私が出席を望んでいることは分かるように」


 宰相は返事をするまで、少し時間がかかった。


「……かしこまりました」


 その間が、また腹立たしかった。

 だが、命令は出した。これで動く。王宮は、動かねばならない。

 私は施療院の書類を宰相へ戻した。

 端に折れ目がついている。何人もの手を渡ってきたのだろう。

 宰相はその書類を受け取り、折れ目を指で押さえた。

 押さえても、跡は残っていた。



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