35 北区施療院――今年の配分表が来ない
今年の配分表が、まだ来ない。
北区施療院の院長エミールは、朝の診察前にそれを三度確認した。
一度目は、机の右の引き出し。二度目は、受付横の書類棚。三度目は、薬房の壁に吊ってある昨年の控えの裏。
来ていない。
来ていないものは、どこを探しても出てこない。
薬房の方で、瓶の触れ合う音がした。いつもならメリはもっと静かに棚を扱う。だが今日は、瓶の底が棚板に当たる音が少し強い。
「院長先生」
戸口から顔を出したメリの髪は、後ろで乱れていた。
朝から何度も薬草袋を下ろしたり戻したりしているからだろう。袖口にも乾いた葉の粉がついている。
「咳止めに使う方、昨日の夜の分を除いたら、もう大きい瓶の底が見えてます。熱冷ましの樹皮も、南区から分けてもらった分まで削りました。向こうには返すって約束しているんですけど、たぶん向こうも待ってないと思います」
「向こうも足りていないか」
「足りていたら、あんな薄い包みで寄越しませんよ」
メリはそう言って、すぐに口を閉じた。言い過ぎたと思ったのだろう。
だが、間違ってはいない。南区施療院から届いた包みは、確かに薄かった。
分けてくれた、というより、こちらが頼んだので削ってくれたという量だった。
「昨日、王妃府へ出した返事は、もう戻ってきたんでしょう?」
「戻ってきた」
「何て」
「王妃陛下御療養中につき、新規執務確認は受けられない。宰相府へ照会せよ」
メリは棚の上を見た。そこには、空き瓶を三つ並べてある。
割れたわけではない。中身がなくなっただけだ。布をかけて隠していたが、何度も開け閉めするうちに布がずれて、瓶の口が見えている。
「王妃陛下が療養なさるのは、仕方ないです。そこは分かります。でも、配分表って、前もって作ってあるものじゃないんですか。去年なんて、春になる前に来ましたよね。北区は薬代多め、南区は布と包帯、西の修道院は麦、って。あれ、誰がやってたんですか」
「王妃府だ」
「王妃府って、王妃陛下お一人じゃないでしょう」
メリはまた言ってから、苦いものを飲んだような顔をした。エミールは椅子の背にかけていた上着を取る。
「お一人ではない。だが、最後にどこを増やしてどこを減らすかを見ていた方が、今いない」
「書面くらい、残ってないんですか」
「写しはあるだろう。宰相府に」
「じゃあ宰相府が送ってくれればいいのに」
「それを頼んでいる」
表の待合から、子供の咳が聞こえた。一度では終わらない。胸の奥に引っかかったような咳が、続けて三つ出た。
メリの顔が薬房の方へ戻る。
「……あの子、昨日の夕方の子ですよね」
「先に診る」
「熱冷まし、薄くします?」
「今は薄くしない。夜の分を考える」
「夜までに返事が来なかったら」
そこでメリは黙った。答えは分かっている。
来なかったら、夜の薬を薄くする。そういう話になる。
エミールは机の上の去年の配分表を見た。
赤い印がついている。
――北区施療院、春先薬代増。王妃府確認済み。
その下に、王妃府の細い字で、短い添え書きがある。
――前年より咳熱多し。薬草園支援を先に。
その一行のおかげで、去年は春を越えられた。
表の咳が、また聞こえた。
*
昼前、西の修道院からシスター・マルタが来た。
馬車ではない。
外套の裾に泥がついている。膝のあたりまで跳ねていたから、ずいぶん早足で歩いたのだろう。
「院長先生、これを先に受け取ってください」
挨拶もそこそこに、彼女は包みを机の上へ置いた。結び目は固い。布は上等だった。
「包帯にできます。うちは今年、布ばかり来ました。ええ、それ自体は本当にありがたいのです。ありがたいのですが、上等な布を抱えていても、子供の粥は煮えません」
「麦が足りないのか?」
「足りません。去年は王妃府の表で、うちは麦を多めに回されました。布は南区へ、薬はそちらへ、薪は東の孤児院へ。あれがあったから、こちらも余った布を施療院へ回せたんです」
シスター・マルタは包みを開いた。白い布が畳まれている。
礼拝堂の祭壇布にしてもよさそうな質だった。包帯にするには上等すぎる。
「ローレン侯爵夫人からも、グライス夫人からも、王妃陛下御快癒祈願として布が届きました。別の方からは香油も。側妃様御入内祝いを兼ねて、という札つきで」
「西の修道院に香油か」
「使えなくはありません。礼拝堂には。けれど、今ほしいのは麦です。孤児達が香油を舐めるわけにはいきませんから」
冗談の形にしていたが、目は笑っていなかった。
エミールは布を一枚持ち上げる。さらりとしている。洗えば、何度か使える。
「こちらは受け取る。代わりに出せるものが、今は」
「薬は駄目です」
シスター・マルタはすぐに言った。
「施療院から薬を取るつもりで来たのではありません。こちらに布を置きに来たのと、宰相府へもう一度届け出を出すつもりで、その前に状況を合わせに来ました」
「そちらも宰相府へ?」
「王妃府へ出したら戻りました。女官長のところへ聞け、と言われ、女官長からは、王妃陛下御療養中につき宰相府へ、と。施療院も同じでしょう?」
「同じだ」
「では、同じ書面を二枚出しましょう。施療院から一枚。修道院から一枚。東の孤児院にも書かせます」
「宰相府の机が埋まるな」
「埋まれば、どなたかが見ます」
シスターは、さらりと言った。上品な声ではあったが、中身はなかなか荒い。
「西の修道院も、少し気が立っているらしい」
「麦が足りない時に、礼儀を噛んで食べる子はいません」
表の待合で、子供がまた咳をした。
シスター・マルタもそちらを見る。彼女は包みをもう一つ机に置いた。
「こちらは、干し林檎です。レーヴェ本家から、側妃様への祝いの一部を回すと届きました。王妃陛下御快癒祈願として、と札がついています。うちだけでは多いので、半分持ってきました」
「レーヴェ本家が?」
「はい。コリンナ様のお名前でした。文も丁寧でした。丁寧でしたけれど、あれは謝っている文ですね」
エミールは包みの札を見た。
――王妃陛下御快癒祈願として。
――また、側妃マリーシアの入内に際し、王都の皆様へ御迷惑のなきよう。
王都の皆様へ御迷惑のなきよう。たしかに、謝罪に近い。
「本家は分かっているのだな」
「分かっている方がいるのでしょう。だから、まだ助かります。でも、果物では薬草は煎じられません」
「宰相府へは、今日中にもう一度出す」
「うちも出します。東にも寄ってから戻ります。あちら、聖人伝が三箱来たそうです」
「聖人伝」
「子供達は喜んだそうです。喜んだあと、お腹が空いたと」
エミールは返事をしなかった。できなかった。
シスターは椅子に座らず、また包みの紐を締め直した。
「院長先生、書面には丁寧に書きます。でも、どこかに一つくらい、急ぎ、と入れてください」
「入れている」
「もっと大きく」
「大きく書くと、品がない」
「薬がなくなる方が、ずっと品がありません」
今度は少し笑ってしまった。シスターも、ほんの少しだけ口元を動かす。
それからすぐ、待合の方へ目をやった。
「先ほどの子、咳が深いですね」
「今日から薬を出す」
「なら、布はここに置いていきます。包帯にしてください。うちは、古いシーツを裂きます」
「そちらも要るだろう」
「要ります。でも、咳の子に布を巻くより、傷の子に巻いた方がよいでしょう」
彼女は外套の前を直すが、泥のついた裾を払うことはしなかった。
払っても、また東の孤児院まで歩けば汚れるからだろう。
「返事が来たら、写しをください」
「そちらも」
「もちろん」
シスター・マルタは頭を下げ、出ていった。
戸口で、待合の母親に声をかけているのが聞こえた。
「もう少しですよ。先生がすぐ診ますからね」
もう少し。
またその言葉だった。




