表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「側妃を迎える。準備は王妃府で」そう告げた王は、二ヶ月後、王座を失いました。  作者: さんけい


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
32/67

32 とある夫人の夫――女達の噂を聞く男たち

 妻を迎えに行っただけだった。少なくとも、最初はそのつもりだった。


 礼拝が終わり、王太后陛下の御側の女官が、夫人方を東回廊の控えの間へ案内した。男達は男達で、西側の小部屋に通される。礼拝後にすぐ帰る者もいれば、王に短く挨拶を願う者もいる。私は後者ではない。

 今日は、余計な挨拶をしない方がよい日だった。

 だから壁際の椅子に腰を下ろし、出された茶に手をつけず、窓の外を見ていた。

 その窓から、南の離宮へ続く回廊の屋根が少しだけ見える。

 側妃マリーシア様が入られた離宮だ。明るく整えた、と聞いた。陛下の御希望だとも。

 妻は今朝、その言葉を聞いて、手袋の留め具を一つ外しかけたまま止めた。


「明るく、ね」


 それだけ言った。その声で、私は今日の礼拝後すぐ帰るのはやめた。

 女達が何を言うか、聞いておいた方がよい。

 もちろん、聞き耳を立てたわけではない。

 男の小部屋と夫人方の控えの間は、壁一枚と廊下の角を隔てている。扉が開けば声が通る。扇でひそめた声は、案外よく響く。


「ねえ、聞きまして?」


 ローレン侯爵夫人の声だった。その瞬間、窓辺にいたデュラン男爵が茶碗を持つ手を止めた。

 カッセル伯爵は、私の向かいで眉を少しだけ上げた。

 誰も顔を見合わせない。そういうことはしない。ただ、部屋の中の男達は一様に口を閉じた。

 妻達の声が、廊下を渡ってくる。


 ――側妃様の御席。

 ――王妃陛下のお席の白い花。

 ――一段下がった南側。

 ――王妃府の赤い控え。

 ――グライフ公爵夫人の欠席。

 ――王妃陛下御療養中につき。


 茶碗を置く音がした。

 こちらの部屋ではない。向こうの部屋だ。

 私は指先で膝の上の帽子の縁を撫でた。

 女達の噂話を、ただの噂話だと思っている男は、王宮に長くいられない。

 男達は会議室で決まったことを政治だと思う。

 だが、宮廷では、誰が誰の隣に座ったか、誰が誰の茶に手をつけなかったか、誰が欠席の理由にどの言葉を選んだか、その方が先に動く。

 そして、今日は動いた。


「グライフ公爵夫人が欠席とはな」


 カッセル伯爵が、ようやく小さく言った。


「老侯爵夫人もだ」


 デュラン男爵が答えた。


「ベルニー伯爵未亡人も、と聞こえた」


 私は帽子を膝に置いたまま言った。


「ベルニー夫人が動いたなら、修道院筋も動く」

「施療院もだ」


 カッセル伯爵の声は低い。彼の妻は、昨年の寄付配分でローレン侯爵夫人と少し揉めた。

 揉めた、というほどではない。ただ、どちらの後援先へどれだけ王妃府から配分されるかで、二度ほど手書面が行き来した。

 その後、王妃陛下が両家の顔を潰さず、後援の日程を分け、表の名誉も金の流れも整えた。

 カッセル伯爵は、それを知っている。ローレン侯爵も知っている。

 男達は、妻から細かく聞かされるからだ。

 うるさい、と言う者もいるだろう。私は言わない。妻が王宮で何を見たかを話してくれる家は、まだ助かる。


「王妃陛下の席に白い花、か」


 デュラン男爵が言った。


「儀典長は苦労したな」

「苦労はしただろうが、よい配置の仕方だ」


 私は答えた。


「正妃席は空けた。側妃は王家女性列には入れたが、代行にはしなかった。王太后陛下の顔も立てた。陛下のお顔も少し見える位置だったのだろう」

「見ていたのか」

「妻の目が、そこを見ていた」


 カッセル伯爵が小さく笑った。


「それは確かだ」


 彼の妻も、そういうところを見逃さない。

 夫人方の声はまだ続いている。


 ――側妃様は可愛らしい。

 ――悪い方ではない。

 ――ただ、王宮は悪い方でなければ務まる場所ではない。


 そこで、こちらの部屋の男達も一度黙った。

 言ったのは、妻だ。私は茶碗を取った。飲まずに戻した。

 熱かったからではない。今の言葉は、熱い茶よりずっと喉に残る。


「グライス」


 カッセル伯爵が私を見る。


「奥方は、相変わらずよく切る」

「切るつもりはないのだろう」

「なら余計に切れる」


 それは否定できない。

 妻は、切る時に刃物を振り回さない。書面の端で指を切るようなことを言う。


 ――王宮は、悪い方でなければ務まる場所ではない。


 その通りだ。

 側妃マリーシア様は、礼拝堂で遠目に見ただけなら、確かに可愛らしかった。

 淡い黄色。柔らかな髪。少し不安げに祈祷書を開く仕草。陛下の方を見た時の、ほっとしたような顔。

 あれを見て、可哀想だ、守ってやらねば、と思う男は多いだろう。

 陛下は、まさにそう思われたのだろう。

 だが、王宮はそれだけで済まない。

 可哀想な女を一人守るために、可哀想ではない顔をしている女が何人使われたのか。

 王妃陛下は、その筆頭だ。


「南の離宮の準備も、王妃陛下がなさっていたと」


 デュラン男爵が言った。


「聞こえたな」

「十日で」

「十日で」


 カッセル伯爵が、言葉を重ねた。それから、喉の奥で短く笑った。


「うちの厩の屋根を直すのでも、十日では足りん」

「王宮は屋根より早く側妃を入れるらしい」


 デュラン男爵の言い方に、若い男爵家の息子が少し笑いかけた。

 父親に肘で止められていた。

 笑うところではない。笑ってしまいたいところではあるが。


「レーヴェ本家は、どう出る」


 カッセル伯爵が訊いた。


「コリンナ殿が付き添っていた」


 私は礼拝堂で見た姿を思い出した。側妃の少し後ろ。扇を膝の前に置き、背筋を伸ばしていた女。

 あれは、逃げる女ではない。


「まともだろう」

「まともなら、苦労するな」

「まともだから苦労する」


 デュラン男爵が言った。その通りだ。

 まともでない親族なら、陛下の寵愛だ、御懐妊だ、側妃だと浮かれて終わる。

 まともなら、伯爵家本家の名がどう使われるか、男爵家の娘が何を言うか、王妃陛下が療養中であることをどのように受け止めるか、考えざるを得ない。

 つまり、胃が痛くなる。


「男爵家の母君は、体調不良だったな」


 カッセル伯爵が言った。


「便利な病だ」


 デュラン男爵が返す。


「いや、実際に寝込んだのかもしれん」


 私は言った。二人がこちらを見る。


「王宮がどういう場所か、今朝になって分かったのなら、寝込むこともあるだろう」

「遅い」

「遅いな」


 そこは二人とも即答だった。私も否定しない。


 ――遅い。


 娘が新年の宴で王に見初められた。後で王から声がかかった。

 その時点で、男爵家は本家へ頭を下げ、礼儀作法の教師を呼び、王妃府への確認を取り、家中の女達を黙らせねばならなかった。

 それができないまま、御懐妊。王宮医診断より先に、陛下の御子だという話が広がった。

 王妃陛下が療養に出た。

 そして今日、側妃として礼拝に出た。

 早すぎる。何もかも、順が逆だ。


「陛下は、どう見ておられると思う」


 デュラン男爵が声を落とした。部屋の中の者が、窓の外や茶碗に目をやった。

 聞きたいが、聞いていない形を取る。

 男も女も、そこは同じである。


「《《無事に済んだ》》と思っておられるのではないか」


 私は言った。カッセル伯爵が、目を細める。


「済んだ?」

「側妃は礼拝に出た。王妃席は荒れなかった。王太后陛下もお出ましだった。夫人達も静かだった。誰も声を荒げなかった」

「だから済んだ、と」

「陛下なら、そうご覧になるかもしれない」


 デュラン男爵は、窓の外を見た。


「空席はご覧になっただろうか」

「目には入っただろう」


 カッセル伯爵が言った。


「意味が入ったかは別だ」


 その言い方は無感情で、部屋の空気が少し重くなった。

 不敬とまでは言わない。だが、軽い言葉ではない。


「王妃陛下御療養中につき」


 私は、夫人方の声をなぞるように言った。


「この言葉は、しばらく使われる」

「便利だ」

「実際、心配している者もいる」

「心配しているから使える」


 カッセル伯爵は、茶碗の縁に指を添えた。


「心配が嘘なら、ただの口実になる。だが、皆、本当に心配している。だから強い」


 そう。王妃陛下は、人気者ではなかった。

 少なくとも、部屋に入れば皆が笑顔で駆け寄るような方ではない。

 フレイア王妃陛下は、静かな方だった。

 手順を整え、席を整え、寄付を整え、誰かの足元に踏み台を置き、誰かの喪中に花の色を変え、誰かと誰かを離し、誰かと誰かを近づける。

 それを、恩として売らない。

 だから目立たない。

 目立たないものが急になくなると、初めて皆が床の傾きに気づく。


「施療院の寄付は、今年どうなる」


 デュラン男爵が言った。


「王妃府の配分表がまだ出ていない」


 カッセル伯爵が答えた。


「修道院もだ」

「王妃陛下御療養中なら、止まるか」

「止まれば困る」

「誰が引き継ぐ」


 三人で黙った。答えがない。

 王太后陛下か。王妃府の残った者か。宰相府か。財務卿か。新しい側妃か。

 最後の可能性を考えた時、夫人方の部屋から別の声が聞こえた。


「側妃様も、これから覚えられるでしょう」


 誰かの声。すぐ別の声が返す。


「ええ、《《これから》》」


 ――これから。


 便利な言葉だ。だが寄付配分は待たない。

 修道院の冬支度も、施療院の薬代も、孤児院の麦粉も、これから覚えます、では足りない。

 王宮の礼拝席だけで済む話ではない。


「カッセル」


 私は言った。


「何だ」

「施療院の件、今年は夫人同士で先に話を通した方がよい」

「王妃府を通さずにか」

「通せないなら」

「勝手に動いたと取られる」

「だから、王妃陛下御療養中につき、御快癒祈願の名目で始める」


 カッセル伯爵は、少し考えた。


「妻が乗るな」

「うちの妻もだ」


 デュラン男爵が言った。


「修道院の方は、男爵家だけでは軽い。ローレン侯爵夫人を入れた方がよい」

「ローレン侯爵は」

「本人は寄付に渋いが、夫人には弱い」

「それは皆そうだ」


 カッセル伯爵が言った。今度は、小さく笑いが起きた。

 このくらいの笑いならよい。すぐに消える。


「側妃様の茶会は、どうする」


 若い男爵家の父親が、控えめに言った。これまで黙っていた男である。

 息子を王宮に慣らすために連れてきたのだろう。


「女達に任せる」


 カッセル伯爵が即答した。


「出るなと言うのですか」

「言うな。言えば、出る」


 デュラン男爵が言った。


「うちの妻なら、間違いなく出る」


 私はうなずいた。


「行くなとは言わない方がよい。ただ、王妃陛下御快癒祈願の予定を先に入れる」

「なるほど」

「修道院、施療院、礼拝、見舞いの文、領地からの薬草。何でもよい」

「何でもよいのか」

「王妃陛下のためなら」


 言ってから、少し苦くなった。


 ――王妃陛下のため。


 その言葉が、社交上の退避先になる。

 本当に王妃陛下を案じている者もいる。側妃を避けたい者もいる。王の軽さに距離を取りたい者もいる。

 全部が同じ言葉に乗る。


 ――王妃陛下御療養中につき。


 これは強い。


「ディート公爵は、これを読んでいるだろうか」


 デュラン男爵が言った。


「読んでいるだろう」


 私は答えた。


「あの方は、怒鳴らない」

「書面を集める」

「ああ、欠席返答も、寄付の名目も、王宮医診断の順も、全部な」


 カッセル伯爵が、手袋を直した。


「王は、公爵を大げさと思っておられるかもしれん」

「は、大げさな公爵だったら、もっと早く怒鳴り込む」


 私は言った。


「ディート公爵は、書面を待つ。書面が揃ったところで動く」

「怖いな」

「怖い方がよい」


 少なくとも、今は。

 王宮の床が傾いている時に、誰かが角度を測っているなら、まだ倒壊まで間がある。

 問題は、陛下がその傾きを、明るくなった、と見ておられるかもしれないことだ。


 夫人方の声が、少し遠ざかった。茶会がお開きになるらしい。

 椅子を引く音。扇を閉じる音。女官が扉を開ける声。

 男達も、それぞれ立ち上がる。聞いていたことなど、誰も口にしない。

 ただ、帽子を取り、外套を受け取り、妻を迎えに行く。

 廊下へ出ると、夫人方がちょうど控えの間から出てきたところだった。

 妻は私を見つけると、何でもない顔で近づいてきた。


「お待たせしました?」

「いや」

「お茶が少し熱かったわ」

「そうか」

「ええ」


 それだけ。

 それだけで充分だった。

 妻の後ろでは、ローレン侯爵夫人とカッセル伯爵夫人が、次の寄付の相談をしている。

 その声を、夫達は聞こえない顔で聞いていた。

 廊下の先、礼拝堂へ続く扉が開いていた。中に、白い花が見えた。まだ片付けられていない。

 妻が歩きながら、そこへ一度だけ目を向けた。

 私は帽子を持つ手を変えた。


「修道院への寄付だが」


 妻が顔を上げる。


「何か」

「今年は少し増やしてもよい」


 妻は、ほんの少しだけ笑った。


「まあ」

「王妃陛下の御快癒祈願なら、名目も立つ」

「ええ」


 妻は手袋の指先を直した。


「では、ローレン夫人と相談いたします」

「そうしなさい」


 廊下の向こうで、黄色いリボンを持った侍女が南の離宮の方へ急いでいく。今度は走っていた。

 途中で、セレスタ夫人らしい声がした。


「歩きなさい」


 侍女の足音が、すぐに遅くなる。妻はその音を聞き、何も言わなかった。

 私も何も言わなかった。

 ただ、南の離宮へ続く回廊の明るい窓だけが、午後の光を受けて白く光っていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ