32 とある夫人の夫――女達の噂を聞く男たち
妻を迎えに行っただけだった。少なくとも、最初はそのつもりだった。
礼拝が終わり、王太后陛下の御側の女官が、夫人方を東回廊の控えの間へ案内した。男達は男達で、西側の小部屋に通される。礼拝後にすぐ帰る者もいれば、王に短く挨拶を願う者もいる。私は後者ではない。
今日は、余計な挨拶をしない方がよい日だった。
だから壁際の椅子に腰を下ろし、出された茶に手をつけず、窓の外を見ていた。
その窓から、南の離宮へ続く回廊の屋根が少しだけ見える。
側妃マリーシア様が入られた離宮だ。明るく整えた、と聞いた。陛下の御希望だとも。
妻は今朝、その言葉を聞いて、手袋の留め具を一つ外しかけたまま止めた。
「明るく、ね」
それだけ言った。その声で、私は今日の礼拝後すぐ帰るのはやめた。
女達が何を言うか、聞いておいた方がよい。
もちろん、聞き耳を立てたわけではない。
男の小部屋と夫人方の控えの間は、壁一枚と廊下の角を隔てている。扉が開けば声が通る。扇でひそめた声は、案外よく響く。
「ねえ、聞きまして?」
ローレン侯爵夫人の声だった。その瞬間、窓辺にいたデュラン男爵が茶碗を持つ手を止めた。
カッセル伯爵は、私の向かいで眉を少しだけ上げた。
誰も顔を見合わせない。そういうことはしない。ただ、部屋の中の男達は一様に口を閉じた。
妻達の声が、廊下を渡ってくる。
――側妃様の御席。
――王妃陛下のお席の白い花。
――一段下がった南側。
――王妃府の赤い控え。
――グライフ公爵夫人の欠席。
――王妃陛下御療養中につき。
茶碗を置く音がした。
こちらの部屋ではない。向こうの部屋だ。
私は指先で膝の上の帽子の縁を撫でた。
女達の噂話を、ただの噂話だと思っている男は、王宮に長くいられない。
男達は会議室で決まったことを政治だと思う。
だが、宮廷では、誰が誰の隣に座ったか、誰が誰の茶に手をつけなかったか、誰が欠席の理由にどの言葉を選んだか、その方が先に動く。
そして、今日は動いた。
「グライフ公爵夫人が欠席とはな」
カッセル伯爵が、ようやく小さく言った。
「老侯爵夫人もだ」
デュラン男爵が答えた。
「ベルニー伯爵未亡人も、と聞こえた」
私は帽子を膝に置いたまま言った。
「ベルニー夫人が動いたなら、修道院筋も動く」
「施療院もだ」
カッセル伯爵の声は低い。彼の妻は、昨年の寄付配分でローレン侯爵夫人と少し揉めた。
揉めた、というほどではない。ただ、どちらの後援先へどれだけ王妃府から配分されるかで、二度ほど手書面が行き来した。
その後、王妃陛下が両家の顔を潰さず、後援の日程を分け、表の名誉も金の流れも整えた。
カッセル伯爵は、それを知っている。ローレン侯爵も知っている。
男達は、妻から細かく聞かされるからだ。
うるさい、と言う者もいるだろう。私は言わない。妻が王宮で何を見たかを話してくれる家は、まだ助かる。
「王妃陛下の席に白い花、か」
デュラン男爵が言った。
「儀典長は苦労したな」
「苦労はしただろうが、よい配置の仕方だ」
私は答えた。
「正妃席は空けた。側妃は王家女性列には入れたが、代行にはしなかった。王太后陛下の顔も立てた。陛下のお顔も少し見える位置だったのだろう」
「見ていたのか」
「妻の目が、そこを見ていた」
カッセル伯爵が小さく笑った。
「それは確かだ」
彼の妻も、そういうところを見逃さない。
夫人方の声はまだ続いている。
――側妃様は可愛らしい。
――悪い方ではない。
――ただ、王宮は悪い方でなければ務まる場所ではない。
そこで、こちらの部屋の男達も一度黙った。
言ったのは、妻だ。私は茶碗を取った。飲まずに戻した。
熱かったからではない。今の言葉は、熱い茶よりずっと喉に残る。
「グライス」
カッセル伯爵が私を見る。
「奥方は、相変わらずよく切る」
「切るつもりはないのだろう」
「なら余計に切れる」
それは否定できない。
妻は、切る時に刃物を振り回さない。書面の端で指を切るようなことを言う。
――王宮は、悪い方でなければ務まる場所ではない。
その通りだ。
側妃マリーシア様は、礼拝堂で遠目に見ただけなら、確かに可愛らしかった。
淡い黄色。柔らかな髪。少し不安げに祈祷書を開く仕草。陛下の方を見た時の、ほっとしたような顔。
あれを見て、可哀想だ、守ってやらねば、と思う男は多いだろう。
陛下は、まさにそう思われたのだろう。
だが、王宮はそれだけで済まない。
可哀想な女を一人守るために、可哀想ではない顔をしている女が何人使われたのか。
王妃陛下は、その筆頭だ。
「南の離宮の準備も、王妃陛下がなさっていたと」
デュラン男爵が言った。
「聞こえたな」
「十日で」
「十日で」
カッセル伯爵が、言葉を重ねた。それから、喉の奥で短く笑った。
「うちの厩の屋根を直すのでも、十日では足りん」
「王宮は屋根より早く側妃を入れるらしい」
デュラン男爵の言い方に、若い男爵家の息子が少し笑いかけた。
父親に肘で止められていた。
笑うところではない。笑ってしまいたいところではあるが。
「レーヴェ本家は、どう出る」
カッセル伯爵が訊いた。
「コリンナ殿が付き添っていた」
私は礼拝堂で見た姿を思い出した。側妃の少し後ろ。扇を膝の前に置き、背筋を伸ばしていた女。
あれは、逃げる女ではない。
「まともだろう」
「まともなら、苦労するな」
「まともだから苦労する」
デュラン男爵が言った。その通りだ。
まともでない親族なら、陛下の寵愛だ、御懐妊だ、側妃だと浮かれて終わる。
まともなら、伯爵家本家の名がどう使われるか、男爵家の娘が何を言うか、王妃陛下が療養中であることをどのように受け止めるか、考えざるを得ない。
つまり、胃が痛くなる。
「男爵家の母君は、体調不良だったな」
カッセル伯爵が言った。
「便利な病だ」
デュラン男爵が返す。
「いや、実際に寝込んだのかもしれん」
私は言った。二人がこちらを見る。
「王宮がどういう場所か、今朝になって分かったのなら、寝込むこともあるだろう」
「遅い」
「遅いな」
そこは二人とも即答だった。私も否定しない。
――遅い。
娘が新年の宴で王に見初められた。後で王から声がかかった。
その時点で、男爵家は本家へ頭を下げ、礼儀作法の教師を呼び、王妃府への確認を取り、家中の女達を黙らせねばならなかった。
それができないまま、御懐妊。王宮医診断より先に、陛下の御子だという話が広がった。
王妃陛下が療養に出た。
そして今日、側妃として礼拝に出た。
早すぎる。何もかも、順が逆だ。
「陛下は、どう見ておられると思う」
デュラン男爵が声を落とした。部屋の中の者が、窓の外や茶碗に目をやった。
聞きたいが、聞いていない形を取る。
男も女も、そこは同じである。
「《《無事に済んだ》》と思っておられるのではないか」
私は言った。カッセル伯爵が、目を細める。
「済んだ?」
「側妃は礼拝に出た。王妃席は荒れなかった。王太后陛下もお出ましだった。夫人達も静かだった。誰も声を荒げなかった」
「だから済んだ、と」
「陛下なら、そうご覧になるかもしれない」
デュラン男爵は、窓の外を見た。
「空席はご覧になっただろうか」
「目には入っただろう」
カッセル伯爵が言った。
「意味が入ったかは別だ」
その言い方は無感情で、部屋の空気が少し重くなった。
不敬とまでは言わない。だが、軽い言葉ではない。
「王妃陛下御療養中につき」
私は、夫人方の声をなぞるように言った。
「この言葉は、しばらく使われる」
「便利だ」
「実際、心配している者もいる」
「心配しているから使える」
カッセル伯爵は、茶碗の縁に指を添えた。
「心配が嘘なら、ただの口実になる。だが、皆、本当に心配している。だから強い」
そう。王妃陛下は、人気者ではなかった。
少なくとも、部屋に入れば皆が笑顔で駆け寄るような方ではない。
フレイア王妃陛下は、静かな方だった。
手順を整え、席を整え、寄付を整え、誰かの足元に踏み台を置き、誰かの喪中に花の色を変え、誰かと誰かを離し、誰かと誰かを近づける。
それを、恩として売らない。
だから目立たない。
目立たないものが急になくなると、初めて皆が床の傾きに気づく。
「施療院の寄付は、今年どうなる」
デュラン男爵が言った。
「王妃府の配分表がまだ出ていない」
カッセル伯爵が答えた。
「修道院もだ」
「王妃陛下御療養中なら、止まるか」
「止まれば困る」
「誰が引き継ぐ」
三人で黙った。答えがない。
王太后陛下か。王妃府の残った者か。宰相府か。財務卿か。新しい側妃か。
最後の可能性を考えた時、夫人方の部屋から別の声が聞こえた。
「側妃様も、これから覚えられるでしょう」
誰かの声。すぐ別の声が返す。
「ええ、《《これから》》」
――これから。
便利な言葉だ。だが寄付配分は待たない。
修道院の冬支度も、施療院の薬代も、孤児院の麦粉も、これから覚えます、では足りない。
王宮の礼拝席だけで済む話ではない。
「カッセル」
私は言った。
「何だ」
「施療院の件、今年は夫人同士で先に話を通した方がよい」
「王妃府を通さずにか」
「通せないなら」
「勝手に動いたと取られる」
「だから、王妃陛下御療養中につき、御快癒祈願の名目で始める」
カッセル伯爵は、少し考えた。
「妻が乗るな」
「うちの妻もだ」
デュラン男爵が言った。
「修道院の方は、男爵家だけでは軽い。ローレン侯爵夫人を入れた方がよい」
「ローレン侯爵は」
「本人は寄付に渋いが、夫人には弱い」
「それは皆そうだ」
カッセル伯爵が言った。今度は、小さく笑いが起きた。
このくらいの笑いならよい。すぐに消える。
「側妃様の茶会は、どうする」
若い男爵家の父親が、控えめに言った。これまで黙っていた男である。
息子を王宮に慣らすために連れてきたのだろう。
「女達に任せる」
カッセル伯爵が即答した。
「出るなと言うのですか」
「言うな。言えば、出る」
デュラン男爵が言った。
「うちの妻なら、間違いなく出る」
私はうなずいた。
「行くなとは言わない方がよい。ただ、王妃陛下御快癒祈願の予定を先に入れる」
「なるほど」
「修道院、施療院、礼拝、見舞いの文、領地からの薬草。何でもよい」
「何でもよいのか」
「王妃陛下のためなら」
言ってから、少し苦くなった。
――王妃陛下のため。
その言葉が、社交上の退避先になる。
本当に王妃陛下を案じている者もいる。側妃を避けたい者もいる。王の軽さに距離を取りたい者もいる。
全部が同じ言葉に乗る。
――王妃陛下御療養中につき。
これは強い。
「ディート公爵は、これを読んでいるだろうか」
デュラン男爵が言った。
「読んでいるだろう」
私は答えた。
「あの方は、怒鳴らない」
「書面を集める」
「ああ、欠席返答も、寄付の名目も、王宮医診断の順も、全部な」
カッセル伯爵が、手袋を直した。
「王は、公爵を大げさと思っておられるかもしれん」
「は、大げさな公爵だったら、もっと早く怒鳴り込む」
私は言った。
「ディート公爵は、書面を待つ。書面が揃ったところで動く」
「怖いな」
「怖い方がよい」
少なくとも、今は。
王宮の床が傾いている時に、誰かが角度を測っているなら、まだ倒壊まで間がある。
問題は、陛下がその傾きを、明るくなった、と見ておられるかもしれないことだ。
夫人方の声が、少し遠ざかった。茶会がお開きになるらしい。
椅子を引く音。扇を閉じる音。女官が扉を開ける声。
男達も、それぞれ立ち上がる。聞いていたことなど、誰も口にしない。
ただ、帽子を取り、外套を受け取り、妻を迎えに行く。
廊下へ出ると、夫人方がちょうど控えの間から出てきたところだった。
妻は私を見つけると、何でもない顔で近づいてきた。
「お待たせしました?」
「いや」
「お茶が少し熱かったわ」
「そうか」
「ええ」
それだけ。
それだけで充分だった。
妻の後ろでは、ローレン侯爵夫人とカッセル伯爵夫人が、次の寄付の相談をしている。
その声を、夫達は聞こえない顔で聞いていた。
廊下の先、礼拝堂へ続く扉が開いていた。中に、白い花が見えた。まだ片付けられていない。
妻が歩きながら、そこへ一度だけ目を向けた。
私は帽子を持つ手を変えた。
「修道院への寄付だが」
妻が顔を上げる。
「何か」
「今年は少し増やしてもよい」
妻は、ほんの少しだけ笑った。
「まあ」
「王妃陛下の御快癒祈願なら、名目も立つ」
「ええ」
妻は手袋の指先を直した。
「では、ローレン夫人と相談いたします」
「そうしなさい」
廊下の向こうで、黄色いリボンを持った侍女が南の離宮の方へ急いでいく。今度は走っていた。
途中で、セレスタ夫人らしい声がした。
「歩きなさい」
侍女の足音が、すぐに遅くなる。妻はその音を聞き、何も言わなかった。
私も何も言わなかった。
ただ、南の離宮へ続く回廊の明るい窓だけが、午後の光を受けて白く光っていた。




