31 とある宮中の夫人――ねえ、聞きまして?
「ねえ、聞きまして?」
そう切り出したのは、ローレン侯爵夫人だった。
朝の礼拝が終わって、王宮の東回廊に面した小さな控えの間に、私達は何となく集まっていた。
何となく。
ええ、もちろん何となくよ。
王妃陛下が御療養中でいらっしゃる、その翌日に、側妃マリーシア様が初めて礼拝堂にお出ましになったのですもの。まっすぐ帰るのも、それはそれで角が立つでしょう?
だから、少しだけお茶をいただく。少しだけ言葉を交わす。少しだけ、皆の顔を見る。
そういうものなのよ、王宮というところは。
「何をですの?」
カッセル伯爵夫人が、扇の陰から応じた。
この二人は、昨年の施療院寄付の配分で少しばかり言い合ったと聞いている。
少しばかり。ええ、少しばかりよ。
その後、王妃陛下が両家の後援先を別々の祭礼に振り分けて、同じ席に並ばないようになさった。だから、この二人が同じ部屋にいること自体、今日は珍しい。
それだけ、皆、帰れなかったということね。
「側妃様の御席ですわ」
ローレン侯爵夫人は、声を潜めた。
とはいえ、この部屋にいる者には充分聞こえる。
声を潜めるというのは、聞かせたくない時にするものではないのよ。聞いてほしい時に、少しだけ品よくするものなの。
「王妃陛下のお席は、白いお花だけでしたでしょう?」
「ええ」
「香りのない、小さなお花」
「ええ」
「その斜め下に、側妃様」
「一段だけ下がって」
「ええ、一段だけ」
そこで二人とも茶を口にした。
私も茶碗を持った。薄い茶だった。
王妃陛下がいらっしゃる時の礼拝後のお茶は、もう少し温度が低かった。年寄りの夫人達が口をつけやすいように、たぶん少し早めに淹れさせていたのだと思う。
今日の茶は、少し熱いわ。
別に文句を言うほどではない。ただ、皆、一口目の前に少し待ったの。
それだけ。
「儀典長は、お困りだったでしょうね」
私が言うと、ローレン侯爵夫人がすぐにこちらを見たわ。
「まあ、グライス夫人もそう思われまして?」
「思うも何も」
私は茶碗を受け皿に戻す。
「正妃席は空けねばならない。側妃様はお出ししなければならない。王太后陛下もいらっしゃる。しかも御懐妊中。どこへ置いても意味が出ますもの」
「そうなのよ」
カッセル伯爵夫人が、ぱちりと扇を開いた。
「意味が出るのよねえ」
皆、その言葉で少し笑った。
小さく。口元だけ。
何もおかしくはないのだけど、笑うしかない時もあるわけよ。
「でも、よく考えたお席でしたわ」
私は言う。
「王妃陛下のお席は守られていましたし、側妃様も低く置かれすぎてはいなかった」
「ええ。儀典長、よくお働きになったわ」
「王妃府の赤い控えもないでしょうに」
つい、出てしまった。言ってから、茶碗へ視線を落とす。
部屋の中の扇が、二つ、三つ、少しだけ止まった。
王妃府の赤い控え。
それを知っている夫人は、少なくない。
少なくとも、ここにいる女達の半分以上は、何かしら恩恵を受けていたわけだし。
席を離された。席を近づけられた。足元に踏み台が置かれた。
香りの強い花を避けてもらった。喪中の色を気にしてもらった。
苦手な夫人と同じ馬車待ちにならないよう、帰りの順をずらされた。
そういう、小さなこと。
小さなことなのよ。
でも、小さなことを先に片付けてくださる方がいると、一日が荒れないの。
「今朝は、グライフ公爵夫人が欠席でしたわね」
カッセル伯爵夫人が話を変えた。変えたようで、変えていない。
「ええ。御自邸の礼拝堂で、王妃陛下の御快癒を祈られるそうよ」
「老侯爵夫人も」
「ベルニー伯爵未亡人も」
「まあ」
まあ、と言いながら、誰も驚いていなかったわ。皆、知っていたのよ。
昨日の夜のうちに、使いが走ったのだと思う。
――王妃陛下御療養中につき。
その言葉は、とても便利。
側妃様の入宮を祝う礼拝に出たくないとは書かない。陛下に不満があるとも書かない。
――王妃陛下の御身が案じられるので、自邸で祈ります。
それだけ。それだけで、空席は作れるの。
「側妃様は、気づかれたかしら」
ローレン侯爵夫人が言った。
「空席に?」
「ええ」
「どうかしら」
カッセル伯爵夫人が扇を少し傾けた。
「御自分のお席の辺りは、よく見ていらしたわね」
ああ。皆、見ていたのね。
側妃マリーシア様は、淡い黄色の衣装で礼拝堂にお入りになった。
御懐妊中だから、締め付けのない形。髪も強く結わず、黄色の細いリボンでまとめていた。
可愛らしい方だった。それは本当。
ぱっと見た時、春のお茶会の菓子のようだと思った。ふわりとして、甘そうで、皿の上にある分には可愛らしい。
ただ、王宮は菓子皿ではないのよね。
「陛下の方を、何度か見ていらしたわ」
「見えていたのね、あのお席」
「少し見えるようにしたのでしょう」
「まあ、儀典長」
「お優しい」
「違いますわ、賢いのよ」
そこでまた、皆が少し笑った。
そう。賢いのよ。
陛下のお顔が全く見えなければ、側妃様は落ち着かなかったでしょう。近すぎれば、礼拝の間に何かしら目で会話なさったかもしれない。
少し見える。けれど、声は届かない。それがちょうどいいの。
王妃陛下なら、そういう線も書面に入れてくださったかもしれないわ。
私は、王妃陛下のことをよく知っているわけではない。個人的に親しくお話ししたことなど、数えるほど。
でも、礼拝堂の席で、足元に小さな踏み台が出ていた時があったわ。あれは一昨年の冬。
右足の甲を痛めていたの。誰にも言っていなかった。
家の中で少し転んだだけで、腫れも引いていたし、歩けたから王宮へ出た。
すると、私の席の足元にだけ、低い踏み台があったの。
女官に聞くと、
「王妃陛下より」
それだけ。それだけよ。
でも、その踏み台があったおかげで、私は礼拝の間、足を少し休めることができたの。
その後、王妃陛下から何か恩を着せられたことはないわ。踏み台の話をされたこともない。
本当に、それだけ。
「側妃様、祈祷書を開く時、少し戸惑っていらしたわね」
誰かが言った。たぶん、デュラン男爵夫人。
男爵夫人と言っても、実家が古い。こういう場で見ていないようで、よく見ている方だ。
「セレスタ夫人が、横からそっと」
「ええ、指で」
「ページを」
「見えました?」
「見えましたわ」
また茶が進む。今日は皆、よく喋る。
ただ、喋る内容の半分は、実は誰も口にしない。
――側妃様は祈祷書の開き方に戸惑った。
――入宮翌日の礼拝で。
――二十五歳で。
――王の子を宿して。
誰も、その形では言わない。でも、皆がよく知ってるわ。
「コリンナ様は、お疲れのようでしたわ」
「お気の毒に」
「本家も大変でしょうね」
「だって、そもそも、男爵家の娘なのでしょう?」
その言葉が出た瞬間、部屋の温度ではなく、扇の角度が変わった。
皆、少しだけ顔を隠す。
聞きたい。話したい。でも、言い過ぎると品がない。
だから、私は受け皿を少し指で回した。
「レーヴェ本家の分家筋とは伺っております」
「分家筋」
「ええ」
「伯爵家令嬢、ではないのね」
「本家の娘ではありませんわね」
「でも、レーヴェの娘とは名乗れる」
「名乗れますわ」
「便利ね」
ローレン侯爵夫人がさらりと言う。皆、今度は笑わなかった。
――便利。
本当に便利だ。王が見初めた後で、男爵家の娘だと分かった。
そのままでは弱い。だからレーヴェの名が前に出る。
本家は逃げられない。
側妃様は、伯爵家に近い娘のように扱われる。
けれど、いざ礼儀や責任の話になると、男爵家育ちだから不慣れで、可哀想で、優しく教えねばならない。
便利。ええ、本当に便利。
「コリンナ様がついていらっしゃるだけ、まだ」
カッセル伯爵夫人が言った。
「そうですわね。あの方は、まともですもの」
「まとも」
「失礼?」
「いいえ、褒め言葉ですわ」
私はそう言って、茶を飲んだ。今度はちょうど良い温度になっていた。
「ところで」
デュラン男爵夫人が声を潜めた。
「南の離宮、明るく整えられたそうですわね」
「陛下の御希望でしょう?」
「側妃様が明るいものをお好きだから」
「陛下は、お優しいから」
――お優しい。
この言葉も便利ね。王を悪く言わずに、王の軽さを伝えられるし。
「王妃陛下は、南の離宮の準備もなさっていたとか」
「御療養前に?」
「ええ」
「あら」
「十日後の入宮予定でしたでしょう。寝具、窓掛け、妊婦用の踏み台、廊下の敷物、そこまでは王妃府から指示が出ていたと」
「まあ」
「まあ」
「まあ」
まあ、が三つ重なった。
噂話。あくまで噂話よ。
でも、こういう噂は、火のない所には出ないの。
「では、王妃陛下は御自分が御療養に出られる前に」
「側妃様のために南の離宮を整えていらした」
「御懐妊中の側妃様のために」
「十日で」
「十日で」
ローレン侯爵夫人の扇が、膝の上で一度閉じた。ぱちり、と音がした。
「それで、王妃陛下は御療養」
誰も続けなかった。言わなくても分かる。
言えば、強すぎる。だから言わない。
「グライフ公爵夫人が欠席なさった理由、分かりますわね」
カッセル伯爵夫人が言った。
「ええ」
「ええ」
「ええ」
今度は、ええ、が三つ。私は茶碗を置いた。
窓の外では、庭師が花壇の端を直している。春先の花を入れ替えるのだろう。
王妃陛下なら、今日の礼拝堂にあった白い小花の残りを、どこへ回すかまで決めていそうだった。
そう思った。
「側妃様は、悪い方ではなさそうでしたわ」
私は言った。皆がこちらを見る。
「悪い方ではない」
ローレン侯爵夫人が繰り返した。
「ええ。悪い方ではないと思います。ただ」
「ただ?」
「王宮は、悪い方でなければ務まる場所ではないでしょう」
少しの間、誰も茶を飲まなかった。
それから、カッセル伯爵夫人が扇を閉じた。
「本当に」
小さな声だった。
「本当に、その通りですわ」
側妃様は悪い方ではない。それはたぶん本当。
だからこそ、周りの者が困る。
悪い方なら遠ざかればよい。愚かな方なら笑えばよい。
でも、王の寵愛を受け、御懐妊し、可愛らしく、悪気なく、すぐに傷つき、すぐに陛下を見る方。
近づけば巻き込まれる。離れれば冷たいと言われる。
その上には、王妃陛下御療養中、という大きな白い花が置かれている。
「次の茶会は、どうなさる?」
デュラン男爵夫人が訊いた。
「王太后陛下主催の?」
「ええ。側妃様もお出ましになるかもしれないとか」
「私は、王妃陛下の御快癒祈願で修道院へ寄付を」
ローレン侯爵夫人が言った。
「まあ、偶然。私も施療院の方へ」
カッセル伯爵夫人が続いた。
「私は、娘の体調が少し」
「孫が来る予定で」
「夫の従妹が領地から」
理由は次々出てくる。
どれも嘘ではない。たぶん、本当に少しは用がある。
ただ、王宮へ来られないほどではない用が、急に大事になる。
そういうものだ。
「皆様、お忙しいのね」
私は言った。
「ええ」
ローレン侯爵夫人が、にこりとした。
「王妃陛下が御療養中ですもの。私達も、静かにしておりませんと」
上手い。実に上手い。
静かにしている。王宮に来ない。側妃様を囲まない。遠くで祈る。
誰も責められない。
その時、控えの間の扉が開いた。女官が一礼する。
「皆様、王太后陛下より、礼拝後のお茶はそろそろお開きにとのことでございます」
「まあ、もうそんな時間」
ローレン侯爵夫人が立ち上がる。
私達もそれぞれ立つ。扇を閉じ、手袋を直し、外套を受け取る。
廊下へ出ると、少し向こうに南の離宮へ続く回廊が見えた。
黄色いリボンを持った侍女が、急ぎ足になりかけて、すぐ歩幅を直した。
誰かに注意されたのかもね。私はそれを見て、少しだけ目を細めた。
「グライス夫人」
カッセル伯爵夫人が、隣に並んだ。
「はい」
「次の修道院の寄付、王妃陛下の御快癒祈願でご一緒しません?」
「ええ、ぜひ」
「ローレン夫人もお誘いして」
「それはよろしいですわね」
王宮の廊下を、私達はゆっくり歩いた。
足音は揃わない。それぞれ少しずつ違う速さで、けれど同じ方向へ進む。
角を曲がる前、もう一度だけ礼拝堂の方を見たら、王妃席に置かれていた白い小花は、まだ片付けられていなかったわ。
小さな花だったの。
香りはなくて、ただ、白かったわ。




