30 儀典長――王宮はそうやって冷えていく
王妃府から、書面が来ない。
その事実を、私は夜半前の机で三度確認した。
一度目は、いつもの銀盆を見た時。二度目は、控えの儀典官に「王妃府からは」と問うた時。三度目は、自分で過去三年分の礼拝控えを開いた時。
来ない。当たり前だ。王妃陛下は療養中であり、国王陛下御署名の許可状には、王妃府への新規執務確認を禁ずるとある。
だから来ない。正しい。実に正しい。
なのに、こちらの机は一つも正しくない。
「明朝の礼拝に、側妃マリーシア様がご出席の可能性がございます」
控えの儀典官が、同じ文をもう一度読んだ。
「可能性」
私はそれを繰り返した。儀礼において、一番扱いづらい言葉の一つだ。
出席するなら、席を決める。欠席するなら、欠席の扱いを決める。
出るかもしれない。出ないかもしれない。医師の判断次第。
王の御意向は、体が許せば出ればよい。側妃御本人は、皆に顔を見せたい。王太后陛下は、王妃陛下の席へ近づけるな。
侍従長からの書面には、そう書かれていた。
丁寧な字で。丁寧すぎる字で。
……こちらへ余計な逃げ道を残さない字で。
「王太后陛下の御沙汰は」
「正妃席は空位。側妃席は新設。ただし、王妃陛下の代行に見える配置を避けよ、とのことです」
「陛下の御裁可は」
「医師が許せば出席可。位置については儀典長の判断に委ねる、と」
――委ねる。
私はペンを置いた。
――委ねる、ではない! それは、後でどちらへも言えるように、手を離しただけだ!
だが、口には出さない。そうしたら控えの儀典官は、まだ若い。こういう言い方に顔を動かすだろう。
机の上に、礼拝堂の席次図を広げた。
中央奥、王の席。その右手、王妃席。そのさらに下がって、王太后席。
通常なら、王太后陛下の位置は場合により変わる。王妃陛下が在席なら、王妃を立てる形を取りつつ、王太后陛下の格も落とさない。
そこは毎回、王妃府の赤い書き込みがあった。
――王太后陛下、膝痛あり。石段二段下を避ける。
――西側の光が強い。午前礼拝では薄絹を。
――ローレン侯爵夫人、喪中。黄色花不可。
――南側二列目、伯爵家二家を並べない。昨年の寄付配分で不和。
字は細い。だが、迷いがない。必要なことだけが、赤で置かれていた。
私の仕事は、その赤に従い、儀礼として崩れぬようきちんとさせることだった。
……楽をしていた。
そう認めるのは腹立たしいが、事実である。
「側妃席を、王太后陛下の下手に置いては」
控えの儀典官が言った。
「高すぎる」
「では、南側二段下」
「低すぎる。入内翌日の礼拝だ。しかも御懐妊の診断が出ている」
「王妃席は空けるとして、その斜め後ろに」
「王妃陛下の控えに見える」
「では」
そこで彼は黙った。よろしい。
簡単に案を出して簡単に潰されることを覚えれば、この職は少し続く。
私は過去の帳面を一冊開いた。
先王の御代。前王弟殿下の御成婚後、妃イルマ殿下が初めて礼拝に出られた時の席次。
この時は簡単だ。王弟妃は王弟妃であり、王妃ではない。王太后でもない。席は王家の女性列に入るが、中央の線には触れない。
だが、今回は側妃であり、正妃は生きている。そして療養中。王宮を出て、公爵家にいる。
空いた席は、《《空いている》》のではない。《《空けておかねばならない》》。
そこへ、御懐妊した側妃が入ってくる。
本人は、皆に顔を見せたい。陛下は、医師が許せば出せ、とおっしゃる。
医師は、おそらく短時間なら、と言うだろう。神官は、きっと祈りの言葉を変えるなと言う。
夫人達は、何も言わずに見る。
……何も言わずに。
それが一番厄介だ。
「ローレン侯爵夫人は、明朝来るか」
「はい。出席の返答が」
「カッセル伯爵夫人は」
「来ます」
「二人を離せ」
「昨年の寄付配分の件ですか」
「それもある。明日は、側妃を見る目で余計に気が立つ。近づけるな」
「はい」
「レーヴェ本家からは」
「コリンナ様が付き添いとして」
「本家当主夫人は」
「欠席です」
妥当だ。泣く女を出されるよりずっと良い。
「レーヴェ男爵家母君は」
「体調不良とのことで」
私は帳面の端に線を引いた。
――体調不良。
便利な言葉である。王宮では、時に病よりも政治の匂いがする。
「マリーシア様の席は、王太后陛下の斜め下、ただし王妃席の線からは外す」
控えの儀典官が顔を上げた。
「南側ですか」
「南側。ただし二段下げない。一段下げる。王家女性列に入れるが、正妃列ではない」
「正妃席は」
「空ける」
「花は」
「置く」
「王妃陛下がお出ましでないのに」
「だから置く」
彼は口を閉じた。私は席次図に赤ではなく、黒で印を入れた。
赤は使わない。赤は王妃府の色だ。
今日、私がそれを真似る必要はない。
「王妃席には白の小花。香りのないもの。大きくするな。席が見えなくなる」
「側妃席は」
「花は置かない」
「置かないのですか」
「本人が花のような衣装で来る」
控えの儀典官が、ペンを止めた。私は顔を上げた。
「何か」
「いえ」
「笑うところではない」
「申し訳ございません」
まったく。こちらは本気で言っている。
淡い黄色の衣装。黄色い髪紐。
陛下は明るいとお喜び。御本人も、明るく可愛らしく見られたい。
その横にさらに花を置けば、礼拝堂が見世物小屋になる。
「側妃席には、祈祷書のみ。足元に低い踏み台。医師の指示で椅子は少し深め。立ち座りの回数を減らすため、神官へ祈りの途中で着座許可を伝える」
「神官が難色を示すのでは」
「王宮医の名を出せ」
「はい」
「ただし、御懐妊を祝う文言は入れない」
「なぜですか」
若い。本当に若い。
「正式な発表前だ」
「あ」
「礼拝堂で神官が先に言えば、それが発表になる。発表の順を間違えれば、王太后陛下、宰相府、王宮医、レーヴェ本家、全員がこちらを見る」
「はい」
「こちらを見るだけならまだいい。誰が許した、と言う」
「はい」
「誰も許していない。だから言わせない」
控えの儀典官は、今度はしっかり書いた。
私は次の書面を取った。出席夫人一覧。
王妃陛下がいれば、ここに赤い点が三つ四つついていた。
近づける者。離す者。話しかけさせない者。
今はない。自分でやるしかない。
「ローレン侯爵夫人は王太后側へ。カッセル伯爵夫人は反対側。グライフ公爵夫人は」
「欠席です」
「欠席?」
私は顔を上げた。
「今朝、返答が。王妃陛下御療養中につき、祈りは自邸礼拝堂にて捧げる、と」
書面を出させた。
確かにそう書いてある。美しい字だ。丁寧すぎるほど丁寧な文面。
――王妃陛下御療養中につき。
――祈りは自邸礼拝堂にて。
――明朝の王宮礼拝には欠席。
これを欠席とだけ読んでしまう者は、王宮には向いていない。
「他には」
「二件、似た返答が」
「出せ」
出てきた。
一つは老侯爵夫人。一つは、王妃陛下が以前寄付配分で助けた修道院の後援者である伯爵未亡人。
どちらも文面は穏やかだ。だが、同じ言葉が入っている。
――王妃陛下御療養中につき。
「始まったな」
つい口に出た。控えの儀典官がペンを止めた。
「何がでございますか」
「書くな」
「はい」
私は欠席返答の書面を重ねた。
声を荒げる者はいない。側妃を罵る者もいない。王を責める者もいない。
ただ、来ない。
礼拝に来ない。茶会に来ない。
返答を遅らせる。贈り物を控える。
王宮は、そうやって冷えていく。大声で燃える方が、まだ始末しやすい。
「欠席者の席は詰めるな」
「空けたままですか」
「空けたまま。王妃陛下への祈りを理由に欠席した者の場所を、側妃入宮翌日に詰めれば、意味が出る」
「では、空席が目立ちます」
「目立たせる」
そう言ってから、私は席次図を見下ろした。
――目立たせる。
王太后陛下はお気づきになるだろう。陛下も、もしかしたらお気づきになるかもしれない。
マリーシア様は、どう見るか。私の席の周りが広くて嬉しい、と思う可能性がある。
その可能性が一番腹立たしい。
「側妃席の周りは、詰めすぎるな。かといって囲むな。コリンナ様を左後ろ。セレスタ夫人を右後ろ。レーヴェ男爵家の者は入れない」
「御母堂もですか」
「来ないのだろう」
「はい」
「ならよい」
来ない者に席は要らない。体調不良。便利である。
「王妃席の近くには、誰を」
「空ける。王妃府付きの者は出さない。王太后付きから一名、花と祈祷書の確認に置く」
「王妃府付きは」
「出すな」
そこは強く言った。
王妃府の誰かが礼拝堂に立てば、夫人達は必ず見る。
王妃陛下はどうなのか。公爵家は何を言っているのか。側妃をどう見ているのか。
その目に晒す必要はない。
それに、王妃府付きの者が、側妃席の調整をしているように見えても困る。
王妃陛下が、側妃入内を整えた。
そう見える。それだけは避ける。今朝まで、その仕事を実際になさっていたとしても。
「陛下への説明はどういたしますか」
「説明?」
「この席次について」
私は席次図を見た。
線。印。空白。花。踏み台。椅子。欠席者の空席。正妃席の白い小花。側妃席の祈祷書。
これを陛下へ説明する。
陛下は、おそらく途中でこうおっしゃる。
――そんなに難しく考えずともよい。
――マリーシアが疲れないようにすればよい。
――明るく見える場所でよい。
――夫人達も喜ぶだろう。
私は机の上の書面を、指で一度揃えた。
「陛下には、三案で出す」
「三案も」
「一案では、儀典長が勝手に決めたと言われる。二案では、どちらかを選ばねばならない。三案なら、真ん中を選びやすい」
「真ん中が、今の案でございますか」
「そうだ」
控えの儀典官の目が、少しだけ明るくなった。
これは覚えておくといい。王に限らず、人は三つ並べられると真ん中を選びたがる。
ただし、両端は本当に選ばれては困る案にしてはならない。
選ばれても何とかなる形にしておく。
それが、儀典で生き残るこつである。
「第一案。側妃欠席。王妃席空位、王太后陛下主導の通常礼拝」
「はい」
「第二案。側妃出席。王妃席空位、側妃は王家女性列の南側一段下。医師配慮あり」
「はい」
「第三案。側妃出席。側妃はさらに下がった南側二段下。これは慎重案とする」
「陛下は、第二を選ばれるでしょうか」
「マリーシア様が出たいとおっしゃれば、第一は選ばれない。だが第三は低すぎると感じられる。第二を選ぶ」
「王太后陛下は」
「王妃席を守れば、おそらく通る」
「マリーシア様は」
「分からない」
そこが問題だ。彼女は、席の意味を理解しない可能性が高い。
ただ、自分がどれだけ見えるか、陛下からどれだけ近いかで判断するだろう。
「側妃席から陛下のお顔は見えますか」
控えの儀典官が言った。私は彼を見る。今度は悪くない。
「少し見える位置にする」
「はい」
「近すぎると困る。だが全く見えないと、落ち着かないだろう」
「セレスタ夫人が大変になりますね」
「書くな」
「はい」
書くなと言うことばかり増える。まったく。
私はもう一度、王妃陛下の過去の控えを見た。
赤い字。
――陛下の視線が届く位置を避ける。発言を誘うため。
――王太后陛下からは見える位置。止めやすい。
――幼い令嬢は母の後ろ。退屈で動く。
よく見ておられた。
王妃陛下は、陛下のことも見ておられた。王太后陛下のことも。夫人達も、令嬢達も、神官も、足元の段差も。
そして今、その赤は来ない。
「儀典長」
控えの儀典官が、少し低い声で言った。
「何だ」
「王妃陛下は、いつお戻りに」
「私に聞くな」
「申し訳ございません」
彼はすぐ頭を下げた。私は叱るつもりで顔を上げたが、やめた。
聞きたくなるのは分かる。私も、机の上の赤い字を見ながら、同じことを考えた。
戻られるのか。戻られたとして、元のように書面が来るのか。
王妃陛下が戻られた時、明るい南の離宮には、御懐妊の側妃がいる。
王妃席は空けた。だが、空けた席に戻る人が、戻る気を失っていたら。
私は帳面を閉じた。ぱたん、と少し強い音がした。
控えの儀典官が肩を動かした。
「三案を清書しろ。侍従長へ一部、王太后陛下へ一部、陛下へ一部。神官長へは第二案を基準に、ただし陛下御裁可待ちとして送る」
「かしこまりました」
「女官長へは、側妃席の椅子、踏み台、祈祷書。王妃席の花は王太后付きに任せると書け」
「はい」
「欠席者の席は詰めない。これは必ず書け」
「はい」
控えの儀典官は立ち上がった。書面を抱え、扉へ向かう。
「走るな」
言うと、彼は足を止めた。
「はい」
この十日で、何人に同じことを言ったか。
王宮の者が走る時は、火事か、出産か、王の危篤くらいでよい。側妃の席順などで走るな。
腹の中では走りたいが。
*
扉が閉まる。私は一人になった。
机の上には、閉じた帳面が残っている。王妃陛下の赤い書き込みが挟まった、過去の礼拝控え。
もう一度開くか迷い、やめた。
代わりに、明日の礼拝堂の図を見た。
中央に王。空いた王妃席。王太后。少し下がった側妃席。欠席者の空席。白い小花。黄色い衣装の女。
その腹にいる、まだ公に祝えない子。
私はペンを取り、図の端に小さく書いた。
――白花、香りなし。
それだけでペンを置いた。
赤ではない。
黒い字は、書面の上でやけに薄く見えた。




