29 国王エルヴィス――どうしてそんなに心配するのか
夕方、私は南の離宮へ向かった。
近衛を少し下がらせ、侍従長だけを連れて行く。
南の離宮の廊下には、白い敷物が敷かれていた。厚すぎず、薄すぎず、足音が少しだけやわらぐ。
窓の外には庭。夕方の光が差し、部屋の中は金色に近い色になっていた。
悪くない。むしろ、思っていたより良い。
フレイアがいた頃、私はこの離宮へあまり来なかった。
昔は王弟夫妻が使ったというが、ここしばらくは賓客用の控えとして使われることが多かった。
いずれは弟のアレクシスが必要か、と思われていたが、あれは各地を飛び回る方が性に合うとかで宮中に普段は居つかず、たまに戻っては昔からの部屋で事すます。
どの離宮を欲しいとも言わない。無欲な奴だ。
だからこの南の離宮は今整えれば充分使える。
それに、マリーシアには合っている。
「陛下」
控えの間で、セレスタ夫人が迎えた。
「マリーシアは?」
「奥でお休みでございます。先ほどまで少しお眠りに」
「起こしたのか」
「陛下がお越しと伺い、ご本人が起きると」
それならよい。
奥の扉が開く。
マリーシアは、昼の衣装から着替えていた。柔らかな薄黄色の部屋着で、髪はゆるくまとめられている。朝のリボンよりも細いものだった。顔色も悪くない。
「陛下!」
彼女は今度は、きちんとそう呼んだ。
そして、セレスタ夫人の方をちらりと見た。褒めてほしいのだろう。
「よく休めたか」
「はい。少しだけ。けれど、陛下が来てくださると思ったら、眠っているのがもったいなくて」
私は近づき、彼女の手を取った。手は温かい。少し汗ばんでいる。
「無理はするな」
「はい」
「部屋は気に入ったか」
「とても。窓が大きくて、光が綺麗で。朝になったら、もっと明るいのでしょう?」
「そうだろう」
「お花も可愛いです。香りがあまりしないのは少し寂しいですけれど」
言いながら、彼女はセレスタ夫人を見た。
「でも、今は強い香りはだめなのですって」
「医師の言うことは聞きなさい」
「はい」
返事は素直だ。
なぜ周囲は、この子をそんなに心配するのか。言えば聞くではないか。
「陛下、こちらへ」
マリーシアは椅子を示した。私は座る。
彼女も向かいに座ろうとして、少し迷い、隣の椅子へ移った。
セレスタ夫人の目が動く。だが止めない。よい判断だ。
マリーシアは私の近くに座ると、声を少し落とした。
「今日は、ちゃんとできてましたか」
「できていた」
「本当に?」
「ああ」
「名前で呼ばなかったでしょう?」
「途中までな」
彼女は少し頬を膨らませた。
「途中からも、気をつけました!」
「そうだったな」
「セレスタ夫人が、すぐにこっちを見るのですもの……」
その言い方が小さく、少し拗ねている。
セレスタ夫人は離れたところに立っている。聞こえているかもしれない。だが、聞こえていないふりでいる。
「セレスタ夫人は、そなたのためにいるのだ」
「分かっていますわ」
分かっている声ではなかった。私は少し笑った。
「そのうち慣れる」
「……わたくし、王宮に入ったら、もっと自由になれると思っていました」
「自由?」
「はい。だって、陛下の側にいられるのでしょう? お茶も一緒にできて、庭も歩けて、夜も……」
彼女はそこで頬を赤くした。セレスタ夫人がいることを思い出したのだろう。
私は手を伸ばし、彼女の指先に触れた。
「しばらくは医師の言う通りに」
「……皆、そればかり」
「子供のためだ」
その言葉には強い力がある。マリーシアはすぐにお腹へ手を当てた。
「はい。この子のためなら!」
「そうだ」
「陛下、この子が男の子なら……」
彼女は少し身を乗り出した。
「きっと、陛下に似ますわ」
「そうか」
「目元とか、手の形とか。あ、でも髪はわたくしに似てもいいかしら。陛下はどちらがいいです?」
そんなことを聞かれても、分からない。だが、悪い気はしなかった。
「元気ならどちらでもよいな」
「もう」
マリーシアは笑った。
「そういうことではなくて。想像するのが楽しいのです」
想像――。
王子。小さな手。洗礼。名付け。
王宮の礼拝堂に、祝福の声が満ちる。
母上も、公爵も、イルマ叔母上も、その時には今のような顔はできまい。
フレイアも戻ってくるだろう。王妃として、側妃の産んだ王子を抱く。
それは王家の形として正しい。
きっと、うまくいく。
「名は、考えてありますの?」
「まだ早い」
「でも、少しくらい」
「洗礼名は、神官とも相談だ」
「また相談」
彼女は笑いながら言った。さっきまでの不満顔より、柔らかい。
「王宮って、本当に何でも誰かに相談なのですね……」
「そういうものだ」
「陛下が決めてしまえばいいのに」
その言葉に、私は少し顔を上げた。セレスタ夫人も、ほんのわずかにこちらを見た。
「いくら私が王であっても、すべてを一人で決めるわけではない」
「でも、陛下が一番偉いのでしょう?」
「そうだ」
「なら、陛下がわたくしに明るい部屋をくださったみたいに、もっと何でも決めてくださればいいのに」
悪気はない。ただ、彼女はそう思っているのだ。
王が望めば、物事は動く、と。
実際、南の離宮は彼女のために整えさせた。黄色いリボンも、甘い蜂蜜も、医師の診察も、家格確認も、すべて王の指示で動いた。
彼女にとっては、そう見える。
「必要なことは決める」
私は言った。
「では、明日も会いに来ると決めてくださいませ」
「明日は会議がある」
「その後……」
「分かった」
「本当に?」
「ああ」
マリーシアは嬉しそうに笑った。すると、部屋がやはり明るくなる。この笑顔のためなら、多少の手続きは《《周りが何とかするだろう》》。
そう思った時、侍従長が扉の外から声をかけてきた。
「陛下」
「何だ」
「儀典長より、明日の礼拝について御確認がございます」
「今か」
「王妃陛下御不在、側妃マリーシア様御入宮後初日となりますため」
マリーシアの指が、私の袖を少しつまんだ。
「礼拝、わたくしも出るのですか?」
セレスタ夫人が一歩前へ出た。
「明日は、王宮医の判断を仰いでからでございます」
「でも、側妃になったのに」
「御身が第一でございます」
「陛下……」
マリーシアがこちらを見る。
私は少し考えた。側妃として入った以上、礼拝に姿を見せることには意味がある。
だが、医師が止めるかもしれない。母上も何か言うだろう。
「明朝、医師に聞きなさい」
「医師が駄目と言ったら?」
「その時は休むんだ」
「でも、皆に顔を見せたいです」
珍しい。
先ほどまで休みたい、甘い菓子がいい、王宮は面倒だと言っていたのに。
「なぜ」
「だって、今日、ちゃんと見られなかった方も多いでしょう? わたくしが側妃だと、皆に分かっていただかないと」
その言葉で、セレスタ夫人の指が軽く動いた。
侍従長は扉の外にいる。聞こえたかどうか。たぶん聞こえている。
「焦ることはない」
私は言った。
「もう王宮へ入ったのだから」
「はい」
マリーシアはうなずいた。だが、どこかまだ何か考えているようだ。
皆に見られたい。側妃だと分かってほしい。王の子を宿していると知ってほしい。
その気持ちは分かる。むしろ当然だ。
これまで男爵家の娘だった彼女が、今日から王宮にいる。胸を張りたいだろう。
「体が許せば、礼拝に出ればよい」
私が言うと、セレスタ夫人が顔を上げた。
「陛下」
「医師が許せば、だ」
「かしこまりました」
セレスタ夫人はそれ以上言わなかった。マリーシアは嬉しそうに私の手を握った。
「ありがとうございます」
「ただし、無理はするな」
「はい」
返事はよい。
やはり、ちゃんと言えば聞くではないか。
*
南の離宮を出た時、外はすっかり暗くなっていた。廊下の燭台に火が入り、窓にはこちらの姿が薄く映っている。
侍従長が横に控えていた。
「儀典長はどこだ?」
「控えの間に」
「明日の礼拝だな」
「はい」
「側妃は、医師が許せば出す」
「記録いたします」
「また記録か」
「必要でございます」
私は足を止めた。侍従長も止まる。少し離れて、近衛の足音も止まった。
「……そなた達は、最近何でも書面にするな」
「後日の混乱を避けるためでございます」
「混乱など起きていない」
侍従長は、すぐには返事をしなかった。廊下の燭台の火が、小さく揺れる。
「今は、起こさぬようにしております」
静かな声だった。
私は彼を見る。カレル侯爵。父の代から王宮に仕えている家の男だ。若い頃から侍従職にあり、今では王宮内の細かな流れをほとんど把握している。
その彼が、顔色一つ変えずに立っている。
「そうか」
私はそれだけ言った。咎めるほどのことではない。
彼らが手順を守るから、王宮は回る。今日も実際、うまく回った。
マリーシアは無事に南の離宮へ入り、診断も済み、部屋も気に入り、明日の礼拝の話まで出ている。
どこに問題がある。
「明日の礼拝は、母上にも伝えておけ」
「すでに」
「早いな」
「王太后陛下より、御確認がございましたので」
母上も気が早い。
私は歩き出した。廊下の向こう、王妃府へ続く渡り廊下が見えた。
明かりは少ない。いつもより、ずいぶん暗い。
フレイアは今頃、公爵家で眠っているのだろうか。柔らかな寝台で、母親に甘やかされ、医師に薬湯でも飲まされて。
少し休めばいい。戻ってきた時には、王宮はもう少し明るくなっている。
南の離宮には花があり、マリーシアが笑い、子の話がある。
フレイアも、最初は戸惑うかもしれない。
だが、彼女は賢い。いずれ分かる。王宮には、こういう明るさも必要だったのだと。
私は自分の執務室へ戻った。机の上には、赤い紐の書類がまた一つ増えていた。
その上に、侍従長の字で小さな紙が添えられている。
――明朝礼拝。
――王太后陛下御席、側妃マリーシア様御出席可否、王宮医判断待ち。
――陛下御裁可、要確認。
私はその書面を見て、ベルを鳴らした。入ってきた侍従に言う。
「明日の朝、聞く」
「かしこまりました」
侍従は紙を下げようとした。
「いや、置いておけ」
私が言うと、侍従は手を止めた。赤い紐の書類の上に、小さな紙が戻される。
その赤が、燭台の火に少し沈んで見えた。




