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「側妃を迎える。準備は王妃府で」そう告げた王は、二ヶ月後、王座を失いました。  作者: さんけい


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29 国王エルヴィス――どうしてそんなに心配するのか

 夕方、私は南の離宮へ向かった。


 近衛を少し下がらせ、侍従長だけを連れて行く。

 南の離宮の廊下には、白い敷物が敷かれていた。厚すぎず、薄すぎず、足音が少しだけやわらぐ。

 窓の外には庭。夕方の光が差し、部屋の中は金色に近い色になっていた。

 悪くない。むしろ、思っていたより良い。

 フレイアがいた頃、私はこの離宮へあまり来なかった。

 昔は王弟夫妻が使ったというが、ここしばらくは賓客用の控えとして使われることが多かった。

 いずれは弟のアレクシスが必要か、と思われていたが、あれは各地を飛び回る方が性に合うとかで宮中に普段は居つかず、たまに戻っては昔からの部屋で事すます。

 どの離宮を欲しいとも言わない。無欲な奴だ。

 だからこの南の離宮は今整えれば充分使える。

 それに、マリーシアには合っている。


「陛下」


 控えの間で、セレスタ夫人が迎えた。


「マリーシアは?」

「奥でお休みでございます。先ほどまで少しお眠りに」

「起こしたのか」

「陛下がお越しと伺い、ご本人が起きると」


 それならよい。


 奥の扉が開く。

 マリーシアは、昼の衣装から着替えていた。柔らかな薄黄色の部屋着で、髪はゆるくまとめられている。朝のリボンよりも細いものだった。顔色も悪くない。


「陛下!」


 彼女は今度は、きちんとそう呼んだ。

 そして、セレスタ夫人の方をちらりと見た。褒めてほしいのだろう。


「よく休めたか」

「はい。少しだけ。けれど、陛下が来てくださると思ったら、眠っているのがもったいなくて」


 私は近づき、彼女の手を取った。手は温かい。少し汗ばんでいる。


「無理はするな」

「はい」

「部屋は気に入ったか」

「とても。窓が大きくて、光が綺麗で。朝になったら、もっと明るいのでしょう?」

「そうだろう」

「お花も可愛いです。香りがあまりしないのは少し寂しいですけれど」


 言いながら、彼女はセレスタ夫人を見た。


「でも、今は強い香りはだめなのですって」

「医師の言うことは聞きなさい」

「はい」


 返事は素直だ。

 なぜ周囲は、この子をそんなに心配するのか。言えば聞くではないか。


「陛下、こちらへ」


 マリーシアは椅子を示した。私は座る。

 彼女も向かいに座ろうとして、少し迷い、隣の椅子へ移った。

 セレスタ夫人の目が動く。だが止めない。よい判断だ。

 マリーシアは私の近くに座ると、声を少し落とした。


「今日は、ちゃんとできてましたか」

「できていた」

「本当に?」

「ああ」

「名前で呼ばなかったでしょう?」

「途中までな」


 彼女は少し頬を膨らませた。


「途中からも、気をつけました!」

「そうだったな」

「セレスタ夫人が、すぐにこっちを見るのですもの……」


 その言い方が小さく、少し拗ねている。

 セレスタ夫人は離れたところに立っている。聞こえているかもしれない。だが、聞こえていないふりでいる。


「セレスタ夫人は、そなたのためにいるのだ」

「分かっていますわ」


 分かっている声ではなかった。私は少し笑った。


「そのうち慣れる」

「……わたくし、王宮に入ったら、もっと自由になれると思っていました」

「自由?」

「はい。だって、陛下の側にいられるのでしょう? お茶も一緒にできて、庭も歩けて、夜も……」


 彼女はそこで頬を赤くした。セレスタ夫人がいることを思い出したのだろう。

 私は手を伸ばし、彼女の指先に触れた。


「しばらくは医師の言う通りに」

「……皆、そればかり」

「子供のためだ」


 その言葉には強い力がある。マリーシアはすぐにお腹へ手を当てた。


「はい。この子のためなら!」

「そうだ」

「陛下、この子が男の子なら……」


 彼女は少し身を乗り出した。


「きっと、陛下に似ますわ」

「そうか」

「目元とか、手の形とか。あ、でも髪はわたくしに似てもいいかしら。陛下はどちらがいいです?」


 そんなことを聞かれても、分からない。だが、悪い気はしなかった。


「元気ならどちらでもよいな」

「もう」


 マリーシアは笑った。


「そういうことではなくて。想像するのが楽しいのです」


 想像――。

 王子。小さな手。洗礼。名付け。

 王宮の礼拝堂に、祝福の声が満ちる。

 母上も、公爵も、イルマ叔母上も、その時には今のような顔はできまい。

 フレイアも戻ってくるだろう。王妃として、側妃の産んだ王子を抱く。

 それは王家の形として正しい。

 きっと、うまくいく。


「名は、考えてありますの?」

「まだ早い」

「でも、少しくらい」

「洗礼名は、神官とも相談だ」

「また相談」


 彼女は笑いながら言った。さっきまでの不満顔より、柔らかい。


「王宮って、本当に何でも誰かに相談なのですね……」

「そういうものだ」

「陛下が決めてしまえばいいのに」


 その言葉に、私は少し顔を上げた。セレスタ夫人も、ほんのわずかにこちらを見た。


「いくら私が王であっても、すべてを一人で決めるわけではない」

「でも、陛下が一番偉いのでしょう?」

「そうだ」

「なら、陛下がわたくしに明るい部屋をくださったみたいに、もっと何でも決めてくださればいいのに」


 悪気はない。ただ、彼女はそう思っているのだ。

 王が望めば、物事は動く、と。

 実際、南の離宮は彼女のために整えさせた。黄色いリボンも、甘い蜂蜜も、医師の診察も、家格確認も、すべて王の指示で動いた。

 彼女にとっては、そう見える。


「必要なことは決める」


 私は言った。


「では、明日も会いに来ると決めてくださいませ」

「明日は会議がある」

「その後……」

「分かった」

「本当に?」

「ああ」


 マリーシアは嬉しそうに笑った。すると、部屋がやはり明るくなる。この笑顔のためなら、多少の手続きは《《周りが何とかするだろう》》。

 そう思った時、侍従長が扉の外から声をかけてきた。


「陛下」

「何だ」

「儀典長より、明日の礼拝について御確認がございます」

「今か」

「王妃陛下御不在、側妃マリーシア様御入宮後初日となりますため」


 マリーシアの指が、私の袖を少しつまんだ。


「礼拝、わたくしも出るのですか?」


 セレスタ夫人が一歩前へ出た。


「明日は、王宮医の判断を仰いでからでございます」

「でも、側妃になったのに」

「御身が第一でございます」

「陛下……」


 マリーシアがこちらを見る。

 私は少し考えた。側妃として入った以上、礼拝に姿を見せることには意味がある。

 だが、医師が止めるかもしれない。母上も何か言うだろう。


「明朝、医師に聞きなさい」

「医師が駄目と言ったら?」

「その時は休むんだ」

「でも、皆に顔を見せたいです」


 珍しい。

 先ほどまで休みたい、甘い菓子がいい、王宮は面倒だと言っていたのに。


「なぜ」

「だって、今日、ちゃんと見られなかった方も多いでしょう? わたくしが側妃だと、皆に分かっていただかないと」


 その言葉で、セレスタ夫人の指が軽く動いた。

 侍従長は扉の外にいる。聞こえたかどうか。たぶん聞こえている。


「焦ることはない」


 私は言った。


「もう王宮へ入ったのだから」

「はい」


 マリーシアはうなずいた。だが、どこかまだ何か考えているようだ。

 皆に見られたい。側妃だと分かってほしい。王の子を宿していると知ってほしい。

 その気持ちは分かる。むしろ当然だ。

 これまで男爵家の娘だった彼女が、今日から王宮にいる。胸を張りたいだろう。


「体が許せば、礼拝に出ればよい」


 私が言うと、セレスタ夫人が顔を上げた。


「陛下」

「医師が許せば、だ」

「かしこまりました」


 セレスタ夫人はそれ以上言わなかった。マリーシアは嬉しそうに私の手を握った。


「ありがとうございます」

「ただし、無理はするな」

「はい」


 返事はよい。

 やはり、ちゃんと言えば聞くではないか。


 *


 南の離宮を出た時、外はすっかり暗くなっていた。廊下の燭台に火が入り、窓にはこちらの姿が薄く映っている。

 侍従長が横に控えていた。


「儀典長はどこだ?」

「控えの間に」

「明日の礼拝だな」

「はい」

「側妃は、医師が許せば出す」

「記録いたします」

「また記録か」

「必要でございます」


 私は足を止めた。侍従長も止まる。少し離れて、近衛の足音も止まった。


「……そなた達は、最近何でも書面にするな」

「後日の混乱を避けるためでございます」

「混乱など起きていない」


 侍従長は、すぐには返事をしなかった。廊下の燭台の火が、小さく揺れる。


「今は、起こさぬようにしております」


 静かな声だった。

 私は彼を見る。カレル侯爵。父の代から王宮に仕えている家の男だ。若い頃から侍従職にあり、今では王宮内の細かな流れをほとんど把握している。

 その彼が、顔色一つ変えずに立っている。


「そうか」


 私はそれだけ言った。咎めるほどのことではない。

 彼らが手順を守るから、王宮は回る。今日も実際、うまく回った。

 マリーシアは無事に南の離宮へ入り、診断も済み、部屋も気に入り、明日の礼拝の話まで出ている。

 どこに問題がある。


「明日の礼拝は、母上にも伝えておけ」

「すでに」

「早いな」

「王太后陛下より、御確認がございましたので」


 母上も気が早い。

 私は歩き出した。廊下の向こう、王妃府へ続く渡り廊下が見えた。

 明かりは少ない。いつもより、ずいぶん暗い。

 フレイアは今頃、公爵家で眠っているのだろうか。柔らかな寝台で、母親に甘やかされ、医師に薬湯でも飲まされて。

 少し休めばいい。戻ってきた時には、王宮はもう少し明るくなっている。

 南の離宮には花があり、マリーシアが笑い、子の話がある。

 フレイアも、最初は戸惑うかもしれない。

 だが、彼女は賢い。いずれ分かる。王宮には、こういう明るさも必要だったのだと。


 私は自分の執務室へ戻った。机の上には、赤い紐の書類がまた一つ増えていた。

 その上に、侍従長の字で小さな紙が添えられている。


 ――明朝礼拝。

 ――王太后陛下御席、側妃マリーシア様御出席可否、王宮医判断待ち。

 ――陛下御裁可、要確認。


 私はその書面を見て、ベルを鳴らした。入ってきた侍従に言う。


「明日の朝、聞く」

「かしこまりました」


 侍従は紙を下げようとした。


「いや、置いておけ」


 私が言うと、侍従は手を止めた。赤い紐の書類の上に、小さな紙が戻される。

 その赤が、燭台の火に少し沈んで見えた。


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