28 国王エルヴィス――こんな素敵な日に
マリーシアが南の離宮に入った日、空はよく晴れていた。
朝から陽が強く、南の離宮の白い壁は、庭の緑を受けて明るく見えた。窓には淡い金色の布が掛けられている。儀典長が選んだものだという。
私はそれを見て、悪くないと思った。
「綺麗ですわ」
隣でマリーシアが声を上げた。
入宮用の衣装は、淡い黄色だった。腹を締めない形にしたらしいが、胸元と袖には小さな刺繍が入っていて、華やかさはある。
王宮医とセレスタ夫人が、締め付けがどうの、重さがどうの、裾がどうのと朝から言っていたらしい。だが、今のマリーシアを見る限り、それほど不満はなさそうだった。
髪にも黄色いリボンが使われている。彼女は、光の中でよく映えた。
「気に入ったか」
「はい。エル…… 陛下」
少し言い直した。セレスタ夫人が控えているからだろう。
私は笑いそうになったが、やめた。マリーシアがこちらを見て、唇に小さく笑みを浮かべる。言い直せたことを褒めてほしい顔だった。
――可愛い。
王宮は、今まで少し静かすぎた。
フレイアは、こういう時にもあまり声を上げない。窓掛けが新しくなれば、生地の保存状態を確かめる。花が飾られれば、香りの強さを気にする。椅子が変われば、誰が座るのかを聞く。
それは大切なことなのだろう。
だが、今日のような日には、まず綺麗だと言えばよいのではないか。
マリーシアは、それができる。
「こちらへ」
儀典長が一礼し、南の離宮の玄関扉を開かせた。
扉の内側には、小さな花が飾られていた。黄色と白。強い香りはない。そこは医師の指示に従ったのだろう。
マリーシアが少し身を乗り出す。
「まあ、可愛い」
その一言で、花を用意した女官の肩が少し下がった。安心したらしい。
私はそれを見て、やはりマリーシアは王宮に合うと思った。
人を明るくする。そこにいる者が、少し楽になる。
フレイアはよく働いた。それは認める。
だが、彼女がいると皆、少し背筋を伸ばしすぎるところがあった。王妃として正しいのかもしれないが、王宮とは正しさだけでできているわけではない。
人には、息をつく場所が要る。私にも。
マリーシアは、私にとってその場所だった。
「陛下」
セレスタ夫人が声をかけてきた。
「何だ」
「側妃マリーシア様には、この後、休息をお取りいただきます。王宮医より、入宮の儀の後は長く立たせぬようにとの指示がございます」
「分かっている」
今日は朝から何度もそれを聞いた。
――入宮の儀は短く。
――謁見も短く。
――廊下は最短で。
――階段は使わせない。
――香は控える。
――茶は薄く。
――菓子は甘すぎないもの。
まるで病人のようである。
とはいえ、腹に子がいるのだから大事にせねばならない。
「マリーシア」
「はい」
「疲れたか」
「少しだけ」
彼女はそう言ってから、そっと私の袖をつまんだ。
「でも、陛下がいてくださるから平気です」
セレスタ夫人の目が、一瞬だけ袖に落ちた。すぐ戻る。何も言わない。
この夫人は、王太后付きにしては口うるさすぎない。マリーシアも、少しずつ慣れてきたようだった。
「あとで見舞う」
「本当に?」
「ああ」
「待っていますわ」
マリーシアは、そこでようやく袖を離した。偉い。
人前で甘えすぎるなと、コリンナ殿とセレスタ夫人にかなり言われているのだろう。少し不満そうではあるが、最近は言い直すし、止まる。
覚えればできるのだ。周囲が最初から厳しく言いすぎるから、あの子が怯える。
そう思う。
*
午後には、王太后の部屋で短い茶があった。
マリーシアは欠席。
入内初日に王太后へ挨拶を済ませた後、本来なら親しい高位夫人を数人だけ招いて顔合わせをする予定だったが、王宮医が止めた。
かわりに、王太后が私を呼んだ。
「今日は無事に済んだな」
「はい」
母上は茶碗を持ち、口元へ運ぶ前にこちらを見た。
「無事に済ませた者達がいる」
「分かっています」
「ならよい」
何を言いたいのかは分かる。
儀典長。侍従長。女官長。セレスタ夫人。王宮医。コリンナ殿。
彼らが動いたから、今日の入宮は無事に済んだ。それは認める。
だが、王宮とは《《そういうものだろう》》。
それぞれの役を、それぞれが果たす。
《《今までフレイアが担っていたというのなら、それを皆で分ければよい》》。
「王妃府から、何か言ってきたか」
私が訊ねると、母上は茶碗を置いた。
「王妃府は、療養許可状の通り、新規の執務を受けておらぬ」
「それは知っています。だが、今日は入宮です」
「だからこそだ」
「何が」
「王妃府に聞けば、楽になる者が多すぎる」
母上は静かに言った。
「一度聞けば、次も聞く。次も聞けば、療養ではなくなる」
「フレイアは何も知らずにいるのですか」
「おそらく、公爵家が止めている」
「そこまですることですか」
母上はすぐには答えなかった。茶碗を受け皿に戻す。
「するだろう」
「なぜ」
「ディート公爵だからだ」
それは答えになっているようで、なっていない。
公爵は大げさだ。あの許可状も、いちいち書面にしすぎる。
療養なら療養でよい。だが、王妃府への新規執務禁止だの、側妃入内準備は王宮側だの、《《まるでこちらがフレイアを酷使すると最初から決めつけていた》》。
私は、そこまでさせるつもりはなかった。
《《ただ、フレイアならうまくやると思っただけだ》》。彼女は、いつもそうしてきた。
「マリーシアはどうだ」
母上が話を変えた。
「喜んでおりました。南の離宮も気に入ったようです」
「そうか」
「明るい部屋が好きですから」
「午後の熱は大丈夫か」
「そこは整えたのでしょう?」
「整えた者がいる」
またそれだ。私は少し笑った。
「母上、今日はその言い方が多いです」
「言いたくもなる」
「マリーシアは、まだ慣れていません」
「そうだな」
「少しずつ覚えてもらいます」
「覚えねばならぬ」
母上の声は固かった。
「そう言えば母上、最近、アレクは……」
「陛下」
母上が、私を陛下と呼ぶ時は、母ではなく王太后として話す時だ。
「マリーシアを可愛がるなとは言わぬ。腹の子も大事だ。だが、甘やかすことと守ることを間違えるな」
「間違えてはいない」
「なら、あの方が人前で御名を呼んだ時、すぐに止めよ」
私は茶に手を伸ばした。
「二人の時に許しただけです」
「その区別を、あの方はまだできておらぬ」
「できるようになります」
「誰が教える」
「セレスタ夫人がついています」
「セレスタに何もかも押しつけるな」
母上の声が少し強くなる。私は手を止めた。茶はまだ口にしていない。
「押しつけてはいません」
「なら、陛下も覚えさせよ。王の前で許されることは、王宮で許されることだと若い女は思う。特に、今のあれはそうだ」
若い女。
マリーシアは二十五だ。若いと言えば若いが、フレイアより年上である。
……だが、そういう意味ではないのだろう。
「分かりました」
そう答えると、母上は私をしばらく見ていた。信じていない表情だ。
母上まで、公爵のような顔をする。まったく。
今日は良い日だったというのに。




