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「側妃を迎える。準備は王妃府で」そう告げた王は、二ヶ月後、王座を失いました。  作者: さんけい


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27 王太后付き上級女官セレスタ夫人――髪紐一つで

 遠くで、礼拝堂へ向かう女官の靴音がした。廊下の角で、誰かが布を抱え直す音もする。

 王太后陛下は、その音を聞きながら、軽くため息をつかれる。


「セレスタ」

「はい」

「そなたは、あれの側につけるか」


 予想はしていた。

 それでも、実際に御下命に近い形で出ると、両肩に重みがかかる思いだ。


「コリンナ様よりも、そのご相談を受けました」

「受けたのか」

「はい。レーヴェ本家としても、マリーシア様の御振る舞いを軽く見てはいないとのことです」

「本家は、まともか」

「少なくとも、コリンナ様は」

「兄君は」

「本家当主として、王宮の確認に従う文を出すご用意があるとのこと。持ち込み品、王妃府への問い合わせ、南の離宮の調度について、口を出さない旨を明記させると」

「それはよい」


 王太后陛下は、ようやく背を椅子へ預けられた。ほんの少しである。


「男爵家の方は」

「まだ見えておりません。母君は本日の付き添いにおいでになれず、父方の叔母であるコリンナ様が立たれました」

「具合が悪いのか」

「そのように伺っております」


 王太后陛下は、わたくしの言葉をそのまま受け取られた。受け取った上で、茶碗へ視線を落とされる。


「具合が悪い、か」

「はい」

「王の子を宿した娘の、最初の王宮医診察の日に」

「はい」


 それ以上は言わない。言わなくても、陛下には届いている。

 男爵家は、浮かれているだけではない。恐れている。

 おそらく、王宮に入ることの意味を今になって知ったのだ。

 新年の宴で王に見初められる。御伽噺なら、そこで娘は幸せになる。

 だが王宮では、そこから家格確認が始まる。医師の診断が始まる。本家の責任が始まる。王妃の療養と同じ紙の束の中に、その娘の名が入る。


「セレスタ」

「はい」

「そなたを、しばらくマリーシアの側に置く。王太后付き上級女官として。女官長の下ではない。私の名で動け」

「かしこまりました」

「ただし、マリーシアには、そなたを監視役と思わせるな」


 わたくしは一礼した。


「難しゅうございます」


 王太后陛下の口元が、少しだけ動いた。


「正直でよい」

「監視役ではないと申し上げても、御本人がそう感じられれば泣かれます」

「泣くか」

「おそらく」

「陛下へ訴えるか」

「おそらく」


 陛下は茶碗を置かれた。


「今後が思いやられるな」


 その言葉は、軽い嘆きの形をしていた。中身は軽くない。


「はい」


 わたくしは答えた。

 この返事だけは、少しも飾りようがなかった。


「しかし、子は要る」


 王太后陛下が言った。


「はい」

「診断が出た以上、軽くは扱えぬ」

「はい」

「王妃は療養中であるし、公爵家は、こちらを見ている」

「はい」

「イルマも見ている」

「はい」

「レーヴェ本家も、今さら逃げられぬ」

「はい」


 王太后陛下は、そこでようやく立ち上がられた。夕刻の祈りの時刻が近い。

 侍女が外套を持って近づく。わたくしは一歩下がり、外套の裾が椅子に触れないよう手を添えた。


「……王妃がいれば」


 陛下が、ふとおっしゃった。外套の襟が肩に乗る。


「このあたりのことも、先に紙の上のことになっていたのだろうな」


 侍女の手が、外套の留め具で止まりかけた。

 わたくしは視線だけで促す。侍女はすぐに留め具をかける。


「おそらくは」

「そなたも、楽をしていたのだな」

「はい」


 今度は、王太后陛下がこちらを見た。わたくしは頭を下げる。


「わたくしどもは、王妃陛下のお手配を、当然のように受け取っておりました」


 言ってから、喉の奥が少し乾いた。

 これは報告ではない。自分のことだ。

 王妃陛下が整えた紙を、わたくしは何度も受け取っていた。


 ――礼拝の席順。

 ――高齢の夫人の椅子の高さ。

 ――膝を悪くしている伯爵夫人を、石段の多い側へ回さないこと。

 ――喪中の家へ、明るすぎる花を置かないこと。

 ――王太后陛下のお疲れが出る前に、茶を薄くする時刻。


 どれも、わたくしは受け取った。受け取って、手配した。

 だがその前に誰が気づいたかを、あまり考えなかった。


「そうか」


 王太后陛下は短くおっしゃったが、それ以上はなかった。

 陛下は礼拝堂へ向かわれる。

 わたくしも、その後に従った。


 *


 礼拝の後、わたくしは自室へ戻らず、女官詰所の奥にある小部屋を使った。

 今日からしばらく、そこが作業場所になる。

 机の上に、紙を三種類置く。

 一つは、王太后陛下への日々の報告。一つは、マリーシア様の御身回りの記録。一つは、陛下への御文取り次ぎ控え。

 混ぜてはならない。混ぜれば、後で誰かが都合よく読む。

 まず、今日の記録を書く。


 ――王宮医診察。

 ――御懐妊、ほぼ三月相当との初見。

 ――正式診断書待ち。

 ――香の強いもの、階段、締め付け、過度の甘味を控えるよう指示。


 次の紙。


 ――呼称。

 ――人前にて陛下を御名で呼ぶ。

 ――その場で訂正。

 ――御本人は、陛下より許されたとの認識。


 ペン先を止め、その下に、少し間を空けて書く。


 ――二人きりでの呼称には踏み込まず。

 ――人前では必ず訂正。

 ――侍従、侍女にも統一。


 次。


 ――御菓子について不満。

 ――鳥の餌との発言。

 ――厨房へは、口当たりのみ調整、甘味増量なしと伝達。


 次。


 ――王妃陛下に関し、暗い色との発言。

 ――悪意の有無は不明。

 ――比較発言を避けるよう、明日以降指導。


 悪意の有無は不明。少し考えて、線を引いた。

 不明、ではない。悪意はたぶんない。

 だが、()()()()()()()()()()()。わたくしは新しい行に書き直した。


 ――王妃陛下との比較発言あり。

 ――以後、王妃陛下に関する発言は控えるよう指導。


 これでよい。

 人の内側は、紙に書いてしまうと勝手に形を持つ。形を持つと、誰かがそれを理由にする。


 ――マリーシア様は悪意がない。


 そう書面に残せば、後で誰かが「悪意はなかった」と言う。


 ――マリーシア様は王妃陛下を軽んじた。


 そう紙に残せば、後で誰かがそれを武器にする。

 だから、わたくしが残すべきは、行動と発言と、次に必要な手配だけである。

 王妃陛下は、それをよくご存じだった。王妃府から来る紙には、そういう余計な色がなかった。

 誰が何をした。誰に何を出す。誰を並べない。どの色を避ける。誰に椅子を用意する。

 そこには、夫人達への好き嫌いが入っていなかった。入っていないのに、行き届いていた。

 わたくしはペンを置き、指先を揉んだ。

 まだ一日目である。

 王妃陛下がいなくなった、マリーシア様の診察が終わった、陛下が、御名で呼ばれて笑った、一日目。

 机の端に、黄色い髪紐が置かれていた。先ほど侍女が持ってきたものだ。

 奥の休息室で、マリーシア様が欲しがった明るい黄色の。締め付けず、髪をゆるくまとめるためなら使えるだろう、と侍女が判断を仰ぎに来た。

 わたくしはそれを手に取った。

 色は明るい。質も悪くない。

 ただ、明日の診察後に陛下へ会うかもしれないと聞けば、マリーシア様はこの髪紐に合わせて、もっと華やかなドレスを選びたがるだろう。

 ……黄色い髪紐一本が、衣装、花、部屋の色、陛下の褒め言葉まで引き連れてくる。

 わたくしは髪紐を畳み、紙に包んだ。表に、小さく書く。


 ――明朝、王宮医確認後。


 包みを机の右上へ置く。

 その横に、明日確認することを書き出した紙を置いた。

 呼称。衣装。菓子。香。階段。陛下への文。王妃陛下への言及。レーヴェ本家からの持ち込み品。男爵家母君の来訪可否。

 ――九つ。

 朝までに、まだ増えるだろう。

 廊下の向こうで、女官が誰かを呼ぶ声がした。続いて、足音。

 今度は走っていない。

 わたくしはペンを洗い、布で水気を取った。

 黄色い包みの端が、燭台の光で少しだけ明るく見えた。


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