27 王太后付き上級女官セレスタ夫人――髪紐一つで
遠くで、礼拝堂へ向かう女官の靴音がした。廊下の角で、誰かが布を抱え直す音もする。
王太后陛下は、その音を聞きながら、軽くため息をつかれる。
「セレスタ」
「はい」
「そなたは、あれの側につけるか」
予想はしていた。
それでも、実際に御下命に近い形で出ると、両肩に重みがかかる思いだ。
「コリンナ様よりも、そのご相談を受けました」
「受けたのか」
「はい。レーヴェ本家としても、マリーシア様の御振る舞いを軽く見てはいないとのことです」
「本家は、まともか」
「少なくとも、コリンナ様は」
「兄君は」
「本家当主として、王宮の確認に従う文を出すご用意があるとのこと。持ち込み品、王妃府への問い合わせ、南の離宮の調度について、口を出さない旨を明記させると」
「それはよい」
王太后陛下は、ようやく背を椅子へ預けられた。ほんの少しである。
「男爵家の方は」
「まだ見えておりません。母君は本日の付き添いにおいでになれず、父方の叔母であるコリンナ様が立たれました」
「具合が悪いのか」
「そのように伺っております」
王太后陛下は、わたくしの言葉をそのまま受け取られた。受け取った上で、茶碗へ視線を落とされる。
「具合が悪い、か」
「はい」
「王の子を宿した娘の、最初の王宮医診察の日に」
「はい」
それ以上は言わない。言わなくても、陛下には届いている。
男爵家は、浮かれているだけではない。恐れている。
おそらく、王宮に入ることの意味を今になって知ったのだ。
新年の宴で王に見初められる。御伽噺なら、そこで娘は幸せになる。
だが王宮では、そこから家格確認が始まる。医師の診断が始まる。本家の責任が始まる。王妃の療養と同じ紙の束の中に、その娘の名が入る。
「セレスタ」
「はい」
「そなたを、しばらくマリーシアの側に置く。王太后付き上級女官として。女官長の下ではない。私の名で動け」
「かしこまりました」
「ただし、マリーシアには、そなたを監視役と思わせるな」
わたくしは一礼した。
「難しゅうございます」
王太后陛下の口元が、少しだけ動いた。
「正直でよい」
「監視役ではないと申し上げても、御本人がそう感じられれば泣かれます」
「泣くか」
「おそらく」
「陛下へ訴えるか」
「おそらく」
陛下は茶碗を置かれた。
「今後が思いやられるな」
その言葉は、軽い嘆きの形をしていた。中身は軽くない。
「はい」
わたくしは答えた。
この返事だけは、少しも飾りようがなかった。
「しかし、子は要る」
王太后陛下が言った。
「はい」
「診断が出た以上、軽くは扱えぬ」
「はい」
「王妃は療養中であるし、公爵家は、こちらを見ている」
「はい」
「イルマも見ている」
「はい」
「レーヴェ本家も、今さら逃げられぬ」
「はい」
王太后陛下は、そこでようやく立ち上がられた。夕刻の祈りの時刻が近い。
侍女が外套を持って近づく。わたくしは一歩下がり、外套の裾が椅子に触れないよう手を添えた。
「……王妃がいれば」
陛下が、ふとおっしゃった。外套の襟が肩に乗る。
「このあたりのことも、先に紙の上のことになっていたのだろうな」
侍女の手が、外套の留め具で止まりかけた。
わたくしは視線だけで促す。侍女はすぐに留め具をかける。
「おそらくは」
「そなたも、楽をしていたのだな」
「はい」
今度は、王太后陛下がこちらを見た。わたくしは頭を下げる。
「わたくしどもは、王妃陛下のお手配を、当然のように受け取っておりました」
言ってから、喉の奥が少し乾いた。
これは報告ではない。自分のことだ。
王妃陛下が整えた紙を、わたくしは何度も受け取っていた。
――礼拝の席順。
――高齢の夫人の椅子の高さ。
――膝を悪くしている伯爵夫人を、石段の多い側へ回さないこと。
――喪中の家へ、明るすぎる花を置かないこと。
――王太后陛下のお疲れが出る前に、茶を薄くする時刻。
どれも、わたくしは受け取った。受け取って、手配した。
だがその前に誰が気づいたかを、あまり考えなかった。
「そうか」
王太后陛下は短くおっしゃったが、それ以上はなかった。
陛下は礼拝堂へ向かわれる。
わたくしも、その後に従った。
*
礼拝の後、わたくしは自室へ戻らず、女官詰所の奥にある小部屋を使った。
今日からしばらく、そこが作業場所になる。
机の上に、紙を三種類置く。
一つは、王太后陛下への日々の報告。一つは、マリーシア様の御身回りの記録。一つは、陛下への御文取り次ぎ控え。
混ぜてはならない。混ぜれば、後で誰かが都合よく読む。
まず、今日の記録を書く。
――王宮医診察。
――御懐妊、ほぼ三月相当との初見。
――正式診断書待ち。
――香の強いもの、階段、締め付け、過度の甘味を控えるよう指示。
次の紙。
――呼称。
――人前にて陛下を御名で呼ぶ。
――その場で訂正。
――御本人は、陛下より許されたとの認識。
ペン先を止め、その下に、少し間を空けて書く。
――二人きりでの呼称には踏み込まず。
――人前では必ず訂正。
――侍従、侍女にも統一。
次。
――御菓子について不満。
――鳥の餌との発言。
――厨房へは、口当たりのみ調整、甘味増量なしと伝達。
次。
――王妃陛下に関し、暗い色との発言。
――悪意の有無は不明。
――比較発言を避けるよう、明日以降指導。
悪意の有無は不明。少し考えて、線を引いた。
不明、ではない。悪意はたぶんない。
だが、記録に書くべきではない。わたくしは新しい行に書き直した。
――王妃陛下との比較発言あり。
――以後、王妃陛下に関する発言は控えるよう指導。
これでよい。
人の内側は、紙に書いてしまうと勝手に形を持つ。形を持つと、誰かがそれを理由にする。
――マリーシア様は悪意がない。
そう書面に残せば、後で誰かが「悪意はなかった」と言う。
――マリーシア様は王妃陛下を軽んじた。
そう紙に残せば、後で誰かがそれを武器にする。
だから、わたくしが残すべきは、行動と発言と、次に必要な手配だけである。
王妃陛下は、それをよくご存じだった。王妃府から来る紙には、そういう余計な色がなかった。
誰が何をした。誰に何を出す。誰を並べない。どの色を避ける。誰に椅子を用意する。
そこには、夫人達への好き嫌いが入っていなかった。入っていないのに、行き届いていた。
わたくしはペンを置き、指先を揉んだ。
まだ一日目である。
王妃陛下がいなくなった、マリーシア様の診察が終わった、陛下が、御名で呼ばれて笑った、一日目。
机の端に、黄色い髪紐が置かれていた。先ほど侍女が持ってきたものだ。
奥の休息室で、マリーシア様が欲しがった明るい黄色の。締め付けず、髪をゆるくまとめるためなら使えるだろう、と侍女が判断を仰ぎに来た。
わたくしはそれを手に取った。
色は明るい。質も悪くない。
ただ、明日の診察後に陛下へ会うかもしれないと聞けば、マリーシア様はこの髪紐に合わせて、もっと華やかなドレスを選びたがるだろう。
……黄色い髪紐一本が、衣装、花、部屋の色、陛下の褒め言葉まで引き連れてくる。
わたくしは髪紐を畳み、紙に包んだ。表に、小さく書く。
――明朝、王宮医確認後。
包みを机の右上へ置く。
その横に、明日確認することを書き出した紙を置いた。
呼称。衣装。菓子。香。階段。陛下への文。王妃陛下への言及。レーヴェ本家からの持ち込み品。男爵家母君の来訪可否。
――九つ。
朝までに、まだ増えるだろう。
廊下の向こうで、女官が誰かを呼ぶ声がした。続いて、足音。
今度は走っていない。
わたくしはペンを洗い、布で水気を取った。
黄色い包みの端が、燭台の光で少しだけ明るく見えた。




