26 王太后付き上級女官セレスタ夫人――あちこちにある乱れ
コリンナ様が奥の休息室へ入られた後、わたくしは客間に残った茶器を見た。
小さな銀の匙には、蜂蜜が薄く残っている。
マリーシア様は、出された蜂蜜をすべて茶に入れた。王宮医から控えめに、と指示が出ていたものだが、匙一杯で争う場ではない。
だがそう判断したものが、この半刻だけで幾つもあった。
――陛下を御名で呼んだこと。
――王妃陛下の色を暗いと口にしたこと。
――診察を疑われたようだと受け取ったこと。
――王宮医の問いに頬を染め、腹へ手を置き、陛下だけが優しいと訴えたこと。
――菓子を鳥の餌のようだと言ったこと。
一つ一つをその場で正せば、部屋は進まない。だが、一つも正さなければ、明日にはもっと悪くなる。
わたくしは匙を皿の上へ戻した。小さく、かちりと音が鳴る。
控えていた侍女が、すぐに近づいた。
「下げてよろしゅうございますか」
「ええ。蜂蜜は、次から王宮医の指示量を小皿に分けて。壺のまま出してはいけません」
「かしこまりました」
「菓子は、今日のものより少し柔らかいものに。甘さは足さず、口当たりだけ変えなさい。厨房へは、妊娠初期の方用として伝えること。マリーシア様のお好み、と言ってはなりません」
「はい」
侍女は茶器を盆にまとめる。手つきは悪くない。
ただ、目が扉の方へ行った。奥の休息室だ。
そちらから、マリーシア様の声がまだ聞こえている。
「黄色いのはないの? 陛下は、明るい色がお好きなの」
侍女の指が、茶碗の縁で止まりかけた。
「手を止めない」
小さく言うと、侍女はすぐに皿を重ねた。
「はい」
「聞こえたことを、廊下へ持ち出さないように」
「承知しております」
「承知している者でも、気をつけなければ口から出ます。今日は特に」
侍女は少しだけ頬を赤くした。若い。
この子を長くここに置くのは危ない。気の毒がるか、面白がるか、腹を立てるか。
どれも困る。
「茶器を下げたら、女官長に伝えなさい。この客間付きは、明朝まで年長の者に代えるように」
「わたくしが何か」
「あなたに落ち度はありません。だから、今のうちに代えます」
侍女は一瞬だけ目を伏せた。すぐに盆を持ち上げた。
「かしこまりました」
扉が開き、廊下へ出ていく。茶器の触れ合う小さな音が遠ざかった。
わたくしは、客間の中を見回した。
椅子が三脚。陛下が立たれた辺りの絨毯が、少し乱れている。マリーシア様が立ち上がった時、裾で引いたのだろう。
叔母であるコリンナ様は、そこを見ておられた。お気づきだった。
だが、そこで「裾を」とはおっしゃらなかった。
あの方は、ものが見えている。それだけで、こちらはずいぶん助かる。
助かるが、あの方だけでは足りない。
親族の情がある。家の体面もある。陛下の寵愛を受けて御懐妊した娘を、本家が強く押さえつけすぎれば、陛下はきっと気を悪くなさる。
王宮側が押さえれば、マリーシア様は泣く。コリンナ様が押さえれば、レーヴェ本家が冷たいと泣く。
誰が押さえても泣くなら、泣かれても動かない者を置くしかない。
それが、どうやらわたくしの役になる。
――まったく。
王妃陛下の御療養初日である。
本来なら、王太后陛下の御側で、今夜の礼拝と明日の見舞いの文面をきちんとさせるだけで済むはずだった。
それが、未入宮の女性の蜂蜜と髪紐である。
わたくしは、絨毯の端を足先で直した。完全には直らない。しかし侍女を呼ぶほどでもない。
この程度の小さな乱れが、今日はあちこちにある。
*
王太后陛下のお部屋へ伺った時、陛下は夕刻の祈りの前の装いを終えられたところだった。
濃い藤色のドレスに、白いレースの襟。
王妃陛下がいらした日なら、同じ時刻には既に礼拝堂の燭台の数、花の種類、列席する夫人達の並びまで、控えの紙が届いていた。
今日は女官が二度、確認に走った。走るな、と注意したばかりである。
「セレスタ」
王太后陛下が椅子に腰掛けられた。
「診察は終わったか」
「はい。王宮医より、御懐妊はほぼ三月相当と見てよい、との初見でございます。正式な診断書は、今夜中に整えられます」
「そうか」
陛下は手袋の指先を直された。
「母体は」
「大きな異常はないとのこと。ただし、移動、環境の変化、香の強いもの、階段、締め付けの強い衣装は控えるように、と」
「南の離宮は階段があったな」
「ございます」
「部屋を替えねばならぬか」
「儀典長と女官長へ確認が必要です」
王太后陛下の指が、手袋の上で止まった。
「また確認か」
「はい」
陛下は小さく息を吐かれた。怒りではない。疲れである。
「王妃府へは」
「回せません」
「分かっている」
陛下はそうおっしゃってから、目を伏せられた。
「分かってはいる」
侍女が茶を置いた。王太后陛下は、すぐには手を伸ばされなかった。
「マリーシアは、どうであった」
――来た。
わたくしは、持っていた小さな控えを開いた。
感情を語る必要はない。出来事をそのまま伝えればよい。
「診察そのものには、不慣れでいらっしゃいました。王宮医の問いに戸惑われる場面が幾度か」
「若い娘ならそうだろう」
「御年は二十五と伺いました」
王太后陛下の手が、茶碗の手前で止まった。
「二十五……?」
「はい。王妃陛下より二つ上でいらっしゃいます」
陛下は茶碗を取られた。口元へ運ぶ前に、また受け皿へ戻される。
「……ああ、そうであったな。分かっていた筈なのに失念してしまった」
「はい」
「見た目で、少し若く思い込んで」
「はい」
わたくしもそうであった。
可愛らしい方だとは思う。だが、可愛らしいことと、若いことは同じではない。
まして幼く振る舞うことと、守られるべき年齢であることも同じではない。
「御言葉遣いは」
「陛下を御名でお呼びになりました」
王太后陛下の眉が動いた。
「誰の前で」
「王宮医、コリンナ様、わたくし、侍従の前でございます。診察中に一度。診察後、陛下がお越しになった際に一度。その後も、小声ではございますが」
「陛下は」
「お咎めにはなりませんでした」
王太后陛下は目を閉じられた。
長くではない。すぐに開かれる。
「我が息子は、そういうことを許す」
「はい」
「許した後、それがどこへ転がるかを見ない」
わたくしは答えなかった。答える立場ではない。
だが、陛下はもう分かっておられる。それは少し救いだった。
ただ、分かっておられても、ここまで来た。
「他には」
「王妃陛下に関する御発言がございました」
王太后陛下の視線がこちらへ来た。
「申せ」
「南の離宮を明るくきちんとさせる話の中で、王妃様みたいな暗い色にしなくていいのですね、と」
茶碗の蓋が、かすかに鳴る。王太后陛下の指が触れた音だった。
「陛下は」
「分かっている、と」
「そうか」
陛下は茶碗を取られた。今度は一口飲まれ、受け皿へ置く。
「マリーシアは、王妃を嫌っているのか」
「嫌うほど、御存じないように見えました」
「では何故そのようなことを」
「目に見える色の話を、そのまま口にされたのだと思われます」
悪意がない。この言葉は便利だ。
だが、便利だからこそ、あまり使いたくない。
悪意がなければ許される、と若い方は思いやすい。実際には、悪意のある者の方がまだ止めやすい。自分が何をしているかを知っているからだ。
知らずに踏む者は、踏んだ足の下を見ない。
「御菓子についても、鳥の餌のようだと」
王太后陛下の顔が、少しだけこちらを向いた。
「鳥の餌」
「はい」
「誰に」
「陛下へ甘える中で」
「陛下は」
「お笑いになりました」
「……そうか」
今度の沈黙には、重みがあった。




