25 レーヴェ伯爵筋寡婦コリンナ――飾りは綺麗だけど重石にならない
「あなたが決めたのではありません。けれど、あなたのために人が動いています」
「……はい」
「その人達へ、鳥の餌みたいなお菓子、などと言ってはなりません」
マリーシアは目を伏せた。
少しは効いたか?―― と思ったのは、早かった。
「でも、本当に甘くなかったのですもの」
わたくしは扇を開いた。顔の前に置く。
そうしなければ、口元が動きそうだった。
セレスタ夫人が、静かに茶器の側へ目をやった。侍女が下がる。新しい湯を取りに行くのだろう。
この夫人はよく見ている。王太后陛下付きの上級女官。
立場は高いが、王妃府の人間ではない。今、マリーシアの側に置くには、一番危うくなく、一番逃げにくい方だ。
――わたくしは、この方と話さねばならない。マリーシアを一人にしてはいけない。
わたくし一人では持たない。
兄の家の者だけで固めれば、王宮は不信を持つ。王宮の者だけで固めれば、マリーシアは泣く。陛下へ泣きつく。陛下は余計なことをおっしゃる。
間に、話の通じる女性が必要だ。
「マリーシア」
「はい」
「少し休みなさい」
「でも」
「陛下は、明日また会いに来るとおっしゃったのでしょう」
「約束してくださいました」
「なら、その時に疲れた顔を見せるのですか」
彼女はすぐに姿勢を正した。分かりやすい。
「嫌ですわ」
「では、寝台に入りなさい。侍女に髪をほどかせて。食事は、王宮医の言う通り少しずつ」
「またあの甘くないもの?」
「甘いものを召し上がりたいなら、明日、王宮医に相談なさい」
「叔母様から言ってくださらないの?」
「あなたの身体のことです」
マリーシアは不満そうにしたが、今度は立ち上がった。
セレスタ夫人が侍女へ目配せする。侍女二人が静かに寄ってきた。
「こちらへ」
マリーシアは扉へ向かう途中で、もう一度振り返った。
「叔母様」
「何です」
「明日のドレスは、黄色がいいです」
「まず王宮医に、締め付けのないものを確認してからです」
「でも陛下が明るい色が好きだと」
「締め付けて倒れたら、陛下にお会いできません」
その一言で、彼女は納得した。
「では、苦しくない黄色にします」
侍女が扉を開けた。マリーシアは奥の休息室へ入っていく。
扉が閉まる。完全に閉まってから、わたくしは扇を膝へ戻した。
指が少し疲れていた。握りすぎたのだ。
「セレスタ夫人」
声をかけると、夫人は一礼した。
「はい、コリンナ様」
「少し、お時間をいただけますか」
「もちろんでございます」
客間には、まだ侍女が一人いた。夫人がそちらへ視線を向ける。
「お茶を替えてまいりなさい。蜂蜜は下げて」
「かしこまりました」
侍女が下がる。扉が閉じる。
今度は、本当に二人になった。少なくとも、この部屋の中では。
「お見苦しいところをお見せしました」
わたくしは頭を下げた。
深くではない。だが、親族としての謝意は示さねばならない。
セレスタ夫人は、すぐに首を横に振った。
「御懐妊後の若い方には、揺れもございます」
「それだけならよろしいのですが」
言うと、夫人はすぐには返さなかった。さすがだ。
ここで、そうですね、とも、困りましたね、とも言わない。
「わたくしどもレーヴェ本家は、今回の件を軽く見ておりません」
「はい」
「兄も、わたくしも、マリーシアがこのまま王宮へ入り、好きなように振る舞えば、陛下にも、王太后陛下にも、王妃陛下にも、そして王宮の皆様にも、御迷惑をおかけすると考えております」
「……はい」
夫人の返事が、少しだけ低くなった。
理解している声だ。
「マリーシアは、悪意のある子ではありません」
これは言わねばならない。
言わねばならないが、言い訳にしてはならない。
「ですが、悪意がなければ許される場所ではないことも、承知しております」
夫人の視線が、わたくしの顔に来た。静かな目だった。
「コリンナ様から、そのように伺えたことはありがたく存じます」
「本家として、できる限りのことはいたします。ですが、わたくしどもの家の者だけを側につければ、あの子は甘えます」
「はい」
「王宮の方だけを側につければ、あの子は怖がり、陛下へ訴えます」
「はい」
「ですので、セレスタ夫人」
わたくしは、膝の上で両手を揃えた。
「しばらく、あの子の側に、王太后陛下付きの方としてお立ちいただけないでしょうか」
夫人のまぶたが、一度下りた。
断りたいだろう。当然だ。これは面倒な役である。
若く、妊娠し、王の寵愛を受けている未入宮の女。しかも正妃は療養中。家格は低い。王は甘い。王太后は手順を守らせたい。王宮は既に疲れ始めている。
その側に立つなど、暖炉の前で薄い絹を揺らすようなものだ。いつ焦げてもおかしくない。
「わたくしから王太后陛下へ願い出るのは、筋が違います」
夫人は言った。
「ええ」
「ですが、王太后陛下より御下命があれば、務めます」
「では、わたくしから王太后陛下へ、親族としてお願いを申し上げます。その際、夫人のお名前を出しても?」
「構いません」
早い返事だった。覚悟を決めてくださったのだろう。
わたくしは、もう一度頭を下げた。
「感謝いたします」
「ただし、コリンナ様」
「はい」
「わたくしが側に立つ場合、マリーシア様の御言葉、御振る舞いについて、必要な時にはその場でお止めいたします」
「お願いします」
「陛下への御文も、必要に応じて取り次ぎを遅らせます」
「お願いします」
「御実家、ならびにレーヴェ本家からのお品の持ち込みも、すべて確認いたします」
「お願いします」
夫人の目が、少しだけ細くなった。
「そこも、よろしいのですね」
「よろしいのです」
兄の妻は泣くかもしれない。マリーシアの母は怒るかもしれない。
けれど、ここで菓子だの香だのドレスだのを好きに通せば、その一つずつが火種になる。
「本家からも、改めて文を出します。マリーシアの持ち込み品は、王宮の確認に従う。王妃陛下の御療養中、王妃府へ一切の問い合わせをしない。南の離宮の調度に口を出さない。これを兄に書かせます」
「それは助かります」
――助かる。
夫人はそう言った。それだけで、王宮側がどれだけ面倒を抱えているか分かる。
「それと」
わたくしは少し迷った。
だが、言うしかない。
「マリーシアが、陛下を御名でお呼びする件ですが」
「はい」
「おそらく、陛下が許されたのは事実でしょう」
「でしょうね」
夫人は、初めて少しだけ口元を動かした。
笑いではない。苦みのようなものだ。
「陛下は、《《お優しい》》ですから」
お優しい。
その言葉の置き方で、この方が何を見ているか分かった。
優しい。だが、止めない。
許す。だが、後始末をしない。
「二人の間でどう呼ぶかまで、わたくしからは踏み込めません」
「はい」
「ですが、人前では必ず陛下と呼ばせます」
「お願いいたします。こちらでも、その都度止めます」
「泣くと思います」
「泣かれても止めます」
夫人の返事は静かだった。
ありがたい。心底、ありがたい。
「夫人」
「はい」
「王妃陛下は、どのような御方ですか」
夫人の目が、少し変わった。ほんの少し。
だが、それまでの応対の目ではなくなった。
「……お務めを、よくなさる御方です」
「そうですか」
「はい」
それ以上は言わなかった。だが、それだけで充分だった。
王妃陛下は、お務めをよくなさる御方。その御方が、療養に出た。
その間に、マリーシアが入る。
――兄よ。これは、あなたが思っているよりずっと悪い。
王に見初められた幸運などではない。
王宮の重しが外れた時に、軽い飾りを乗せようとしている。
飾りは綺麗だろう。だが、重しにはならない。
「コリンナ様」
夫人が言った。
「マリーシア様の御年を、確認してもよろしいでしょうか」
「二十五です」
夫人の指が、膝の上で一度動いた。
十八や十九ではない。二十五。王妃陛下より二つ上。
その意味を、この方も今、数えたのだろう。
「承知いたしました」
「年に比して、幼いでしょう」
つい、言ってしまった。夫人は否定しなかった。
「王宮に入られるなら、これから急ぎ覚えていただくことになります」
「急ぎで足りますか」
「足らせるしかございません」
その返事に、わたくしは扇を見下ろした。
――足らせるしかない。
――皆、そうやっている。
王妃陛下も、そうやって五年を過ごされたのだろう。足りないものを足らせるために、自分のどこかを削る。
マリーシアに、それができるのか。できなければ、誰が削られるのか。
考える前に、奥の休息室から声がした。
「叔母様」
甘えた声だった。
「この髪紐、今日は使いたくありません。もっと黄色いものはないの?」
セレスタ夫人の視線が、扉へ向かう。わたくしは立ち上がった。
「今、参ります」
返事をしてから、夫人に向き直る。
「明日、王太后陛下へお願いに上がります」
「わたくしからも、先に御耳へ入れておきます」
「お願いいたします」
もう一度、軽く頭を下げる。
扉の向こうで、マリーシアが侍女に何か言っていた。
黄色がいい。柔らかいものがいい。陛下が明るい色を好きだとおっしゃった。
わたくしは扉の取っ手に手をかけた。
……金具は、思ったより冷たかった。




