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「側妃を迎える。準備は王妃府で」そう告げた王は、二ヶ月後、王座を失いました。  作者: さんけい


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24 レーヴェ伯爵筋寡婦コリンナ――厄介な分家男爵家の娘

 わたくしは、王宮の客間の扉が閉まる音を聞いてから、扇を膝に戻した。


 マリーシアは、まだ扉を見ている。陛下が出て行かれた後の扉を、子供のように見ている。

 その横顔だけなら、確かに可愛らしい。

 白い頬。柔らかな髪。少し潤んだ目。何かを訴えかけるような口元。

 兄が、この子は昔から愛らしいのだ、と言っていたのも分からなくはない。

 だが、愛らしさは礼儀の代わりにはならない。身分の代わりにもならない。

 まして、王宮で生きる覚悟の代わりには、決してならない。


「マリーシア」

「何ですの」


 返事が少し尖っている。

 疲れているのは分かる。王宮医の診察は、娘には屈辱に感じる部分もあっただろう。

 だが、あれは必要なことだった。王宮医は失礼なことなどしていない。セレスタ夫人も、必要以上に厳しいことは言わなかった。むしろ、かなり控えてくださった。

 陛下を御名で呼んだ瞬間、あの方の眉が少し動いた。

 あれだけで済んだのは、セレスタ夫人が王太后陛下付きの方だからだ。普通の女官長なら、その場で部屋の空気を固めていたかもしれない。


「今日はもう、余計なことは口になさらない方がよろしいでしょう」

「余計なことなんて言っておりません」

「陛下を御名でお呼びしました」

「陛下が許してくださいました」

「診察の場で、叔母の前で、王太后陛下付きの夫人の前で、侍従の前で、ですか」


 マリーシアは唇を結んだ。自分でも、そこは少しまずかったと分かっている顔だった。

 ただ、それを認める気はない。


「二人の時には、そうお呼びしているのです」

「二人の時のことを、二人でない場に持ち込んではなりません」

「王宮は面倒ですわ」

「その面倒な場所へ、あなたは入るのです」


 言うと、マリーシアはお腹に手を当てた。最近、都合が悪くなるとその仕草をする。

 まだ腹は目立たない。けれどそこに子がいると診断されたばかりだ。彼女にとっては、今朝よりもさらに強い札を手に入れたような気持ちなのだろう。

 この子は、自分が何を手にしているのか分かっていない。

 いや。何を燃やしかねないものを抱えているのか、分かっていない。


「叔母様は、わたくしが側妃になるのが嫌なのですか」


 その言い方が、また甘い。叱られる前に、自分が傷ついた側へ逃げようとする言い方だ。


「嫌かどうかの話ではありません」

「では、嬉しいのですか」

「嬉しいかどうかの話でもありません」

「皆、そうやってはっきりおっしゃらないのね」


 マリーシアは椅子に座り直した。茶に蜂蜜を入れた匙を、皿の上へ置く。

 小さな音がした。


「陛下だけですわ。わたくしに優しいのは」


 わたくしは、開きかけた扇を閉じた。

 ここで怒鳴っても仕方がない。怒鳴れば、彼女はまた泣く。泣けば、陛下は可哀想だと思う。可哀想だと思えば、周囲の者はまた悪者になる。

 この流れは、もう今の短いやり取りだけで充分に分かった。


「マリーシア」

「何ですの」

「あなたは、陛下に見初められました」


 彼女の頬が少し赤くなった。


「はい」

「新年の無礼講の宴で」

「ええ」


 ……あの日のことは、わたくしも兄から聞いている。

 王宮の新年の宴。

 正規の謁見や晩餐ではない。年の初めの、多少くだけた集まりである。

 王都に出ていた貴族家の若い者、地方から参じた者、王宮勤めの遠縁、そのあたりも招かれる。

 踊りもある。酒も出る。羽目を外しすぎる者が毎年必ず一人二人はいる。

 だからこそ、家の者は娘に言い含める。

 あれは無礼講という名の、最も礼儀を見られる場だ、と。

 マリーシアは、その意味をたぶん半分も理解していなかった。

 淡い黄色のドレスを着て、髪に小さな花を挿し、よく笑っていたらしい。

 陛下はそれを見初めた。

 ……兄の言葉では、そういうことになっている。

 実際には、陛下が酔いの残る宴で可愛らしい娘に目を留め、手をつけ、後日名を問わせた。すると、レーヴェ伯爵家の娘ではなく、()()()()()()()()()()()()()()()()()()だった。

 そこで兄の屋敷へ話が来た。


 ――本家として、身元の保証をせよ。

 ――礼儀作法を整えよ。

 ――王宮へ上がる際には親族として立ち会え。


 そういう話である。兄は一晩眠れなかったと言っていた。

 当然だ。王に見初められた娘を、男爵家だけで抱えきれるわけがない。かといって、本家が知らぬ存ぜぬを通せるわけもない。血筋の遠い近いではない。名が同じなのだ。


 ――レーヴェの娘。


 そう名乗られた時点で、本家は引きずり込まれる。

 しかも、後から御懐妊である。

 兄はその報せを聞いて、昼食の肉を一切れも飲み込めなかったそうだ。

 それでも兄は、王家に逆らえない。

 だから、わたくしが来た。

 兄の妻では、たぶん泣く。兄の娘では、マリーシアを羨むか怯える。

 わたくしは寡婦で、年も取っており、王宮に何度か出たことがある。

 だから来た。

 迷惑かどうかで言えば、迷惑である。

 それでも来た。

 親族とは、そういうものだ。


「あなたが王宮へ入るには、本家の名が要ります」

「分かっていますわ。お父様もそうおっしゃっていました」

「本当に分かっていますか」

「だから叔母様が来てくださったのでしょう?」

「違います」


 マリーシアが顔を上げた。


「わたくしは、あなたが華やかに王宮へ入るために来たのではありません」

「では何のために」

「これ以上、レーヴェの名を傷つけないためです」


 言った瞬間、彼女の目が潤んだ。

 早い。本当に早い。


「……ひどい……」

「ひどくありません」

「……叔母様まで、そうお思いだったのですね。わたくしが、家の恥だと」

「恥にするかどうかは、これからのあなた次第です」

「……もう子まで宿しているのに」

「だからです」


 わたくしは少し身を乗り出した。

 彼女の膝の上の手が、お腹へ戻ろうとした。その前に、こちらから言う。


「その子を、あなたのわがままの盾になさってはなりません」


 マリーシアの指が止まった。


「わがままなんて……」

「甘い菓子が食べたい。明るい部屋がいい。陛下に会いたい。御名で呼びたい。皆に優しくされたい。王妃陛下の色は暗い。王宮は面倒。診察は嫌。手続きは嫌」

「……だって本当に嫌だったのですもの」

「嫌でもなさるのです」


 声は荒げなかった。だが、マリーシアは肩を引いた。


「王宮へ入るとは、そういうことです。側妃になるとは、そういうことです。しかもあなたは、まだ正式に入内していない身で、御懐妊の診断が先に出てしまった。皆が慎重になるのは当然です」

「……陛下は、喜んでくださいました!」

「陛下がお喜びになることと、王宮が動くことは別です」

「どうして皆、陛下のお気持ちを大事にしないの」


 わたくしは一瞬、返す言葉を探した。この娘は、本気でそう思っている。

 陛下が嬉しい。陛下が望んでいる。陛下がわたくしを可愛いと言った。

 ()()()、王宮も、王太后も、王妃も、儀典長も、医師も、すべてその()()()()()()()()()()()()()()()だと思っている。

 男爵家の娘が、いきなり王の寵愛を受けるとこうなるのか。

 ……いや、男爵家だからではない。この子だからだ。


「マリーシア」

「はい」

「陛下は、王なのです」

「存じております」

「恋人ではありません」


 彼女の頬が赤くなった。今度は喜びではない。


「わたくしにとっては」

「あなたにとってどうであろうと、王宮では王です」

「……そんなの、寂しいですわ」

「寂しい場所です」


 思わず、そう言っていた。

 マリーシアは目を瞬く。セレスタ夫人も、少しだけこちらを見た。

 わたくしは扇を膝の上に置き直した。


「王宮は、寂しい場所です。だからこそ、皆が手順を持つのです。呼び名を間違えない。座る場所を間違えない。誰の前で何を言うかを間違えない。そうやって、自分の身も家も守るのです」

「わたくし、そんな難しいことは」

「難しいなら、覚えるのです」

「十日で?」

「本来なら、十日で足りるはずがありません」


 そこで、ようやくマリーシアは黙った。

 茶の湯気が細く上がっている。蜂蜜を全部入れたせいで、部屋の中に少し甘い匂いが残っていた。


「王妃陛下は」


 口に出すと、彼女の目がまた不満そうに動いた。それでも言う。


「十八で王宮へ入られました。五年お勤めになって、今、御療養中です」

「それは、わたくしのせいではないと、陛下が」

「陛下はそうおっしゃるでしょう」

「では」

「けれど、あなたが入るための準備を、王妃陛下が命じられたのは事実です。妊娠したあなたのために、南の離宮を整えさせるよう命じられたのも事実です。十日後と決められたのも事実です」

「わたくしが決めたのではありません」

「ええ」


 それはそうだ。そこは彼女の罪ではない。だから厄介なのだ。

 マリーシアは、自分が決めたことではないものについて、責任を持つ気がない。

 だが、()()()()()()()()()()()、周囲は責任を取らされる。

 兄も。

 わたくしも。

 王妃陛下も。


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― 新着の感想 ―
マリーシアの爵位が最初は男爵令嬢なのに、途中で子爵令嬢になってまた男爵令嬢にもどっているのは気のせい?
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