24 レーヴェ伯爵筋寡婦コリンナ――厄介な分家男爵家の娘
わたくしは、王宮の客間の扉が閉まる音を聞いてから、扇を膝に戻した。
マリーシアは、まだ扉を見ている。陛下が出て行かれた後の扉を、子供のように見ている。
その横顔だけなら、確かに可愛らしい。
白い頬。柔らかな髪。少し潤んだ目。何かを訴えかけるような口元。
兄が、この子は昔から愛らしいのだ、と言っていたのも分からなくはない。
だが、愛らしさは礼儀の代わりにはならない。身分の代わりにもならない。
まして、王宮で生きる覚悟の代わりには、決してならない。
「マリーシア」
「何ですの」
返事が少し尖っている。
疲れているのは分かる。王宮医の診察は、娘には屈辱に感じる部分もあっただろう。
だが、あれは必要なことだった。王宮医は失礼なことなどしていない。セレスタ夫人も、必要以上に厳しいことは言わなかった。むしろ、かなり控えてくださった。
陛下を御名で呼んだ瞬間、あの方の眉が少し動いた。
あれだけで済んだのは、セレスタ夫人が王太后陛下付きの方だからだ。普通の女官長なら、その場で部屋の空気を固めていたかもしれない。
「今日はもう、余計なことは口になさらない方がよろしいでしょう」
「余計なことなんて言っておりません」
「陛下を御名でお呼びしました」
「陛下が許してくださいました」
「診察の場で、叔母の前で、王太后陛下付きの夫人の前で、侍従の前で、ですか」
マリーシアは唇を結んだ。自分でも、そこは少しまずかったと分かっている顔だった。
ただ、それを認める気はない。
「二人の時には、そうお呼びしているのです」
「二人の時のことを、二人でない場に持ち込んではなりません」
「王宮は面倒ですわ」
「その面倒な場所へ、あなたは入るのです」
言うと、マリーシアはお腹に手を当てた。最近、都合が悪くなるとその仕草をする。
まだ腹は目立たない。けれどそこに子がいると診断されたばかりだ。彼女にとっては、今朝よりもさらに強い札を手に入れたような気持ちなのだろう。
この子は、自分が何を手にしているのか分かっていない。
いや。何を燃やしかねないものを抱えているのか、分かっていない。
「叔母様は、わたくしが側妃になるのが嫌なのですか」
その言い方が、また甘い。叱られる前に、自分が傷ついた側へ逃げようとする言い方だ。
「嫌かどうかの話ではありません」
「では、嬉しいのですか」
「嬉しいかどうかの話でもありません」
「皆、そうやってはっきりおっしゃらないのね」
マリーシアは椅子に座り直した。茶に蜂蜜を入れた匙を、皿の上へ置く。
小さな音がした。
「陛下だけですわ。わたくしに優しいのは」
わたくしは、開きかけた扇を閉じた。
ここで怒鳴っても仕方がない。怒鳴れば、彼女はまた泣く。泣けば、陛下は可哀想だと思う。可哀想だと思えば、周囲の者はまた悪者になる。
この流れは、もう今の短いやり取りだけで充分に分かった。
「マリーシア」
「何ですの」
「あなたは、陛下に見初められました」
彼女の頬が少し赤くなった。
「はい」
「新年の無礼講の宴で」
「ええ」
……あの日のことは、わたくしも兄から聞いている。
王宮の新年の宴。
正規の謁見や晩餐ではない。年の初めの、多少くだけた集まりである。
王都に出ていた貴族家の若い者、地方から参じた者、王宮勤めの遠縁、そのあたりも招かれる。
踊りもある。酒も出る。羽目を外しすぎる者が毎年必ず一人二人はいる。
だからこそ、家の者は娘に言い含める。
あれは無礼講という名の、最も礼儀を見られる場だ、と。
マリーシアは、その意味をたぶん半分も理解していなかった。
淡い黄色のドレスを着て、髪に小さな花を挿し、よく笑っていたらしい。
陛下はそれを見初めた。
……兄の言葉では、そういうことになっている。
実際には、陛下が酔いの残る宴で可愛らしい娘に目を留め、手をつけ、後日名を問わせた。すると、レーヴェ伯爵家の娘ではなく、レーヴェ家の分家筋にあたる男爵家の娘だった。
そこで兄の屋敷へ話が来た。
――本家として、身元の保証をせよ。
――礼儀作法を整えよ。
――王宮へ上がる際には親族として立ち会え。
そういう話である。兄は一晩眠れなかったと言っていた。
当然だ。王に見初められた娘を、男爵家だけで抱えきれるわけがない。かといって、本家が知らぬ存ぜぬを通せるわけもない。血筋の遠い近いではない。名が同じなのだ。
――レーヴェの娘。
そう名乗られた時点で、本家は引きずり込まれる。
しかも、後から御懐妊である。
兄はその報せを聞いて、昼食の肉を一切れも飲み込めなかったそうだ。
それでも兄は、王家に逆らえない。
だから、わたくしが来た。
兄の妻では、たぶん泣く。兄の娘では、マリーシアを羨むか怯える。
わたくしは寡婦で、年も取っており、王宮に何度か出たことがある。
だから来た。
迷惑かどうかで言えば、迷惑である。
それでも来た。
親族とは、そういうものだ。
「あなたが王宮へ入るには、本家の名が要ります」
「分かっていますわ。お父様もそうおっしゃっていました」
「本当に分かっていますか」
「だから叔母様が来てくださったのでしょう?」
「違います」
マリーシアが顔を上げた。
「わたくしは、あなたが華やかに王宮へ入るために来たのではありません」
「では何のために」
「これ以上、レーヴェの名を傷つけないためです」
言った瞬間、彼女の目が潤んだ。
早い。本当に早い。
「……ひどい……」
「ひどくありません」
「……叔母様まで、そうお思いだったのですね。わたくしが、家の恥だと」
「恥にするかどうかは、これからのあなた次第です」
「……もう子まで宿しているのに」
「だからです」
わたくしは少し身を乗り出した。
彼女の膝の上の手が、お腹へ戻ろうとした。その前に、こちらから言う。
「その子を、あなたのわがままの盾になさってはなりません」
マリーシアの指が止まった。
「わがままなんて……」
「甘い菓子が食べたい。明るい部屋がいい。陛下に会いたい。御名で呼びたい。皆に優しくされたい。王妃陛下の色は暗い。王宮は面倒。診察は嫌。手続きは嫌」
「……だって本当に嫌だったのですもの」
「嫌でもなさるのです」
声は荒げなかった。だが、マリーシアは肩を引いた。
「王宮へ入るとは、そういうことです。側妃になるとは、そういうことです。しかもあなたは、まだ正式に入内していない身で、御懐妊の診断が先に出てしまった。皆が慎重になるのは当然です」
「……陛下は、喜んでくださいました!」
「陛下がお喜びになることと、王宮が動くことは別です」
「どうして皆、陛下のお気持ちを大事にしないの」
わたくしは一瞬、返す言葉を探した。この娘は、本気でそう思っている。
陛下が嬉しい。陛下が望んでいる。陛下がわたくしを可愛いと言った。
だから、王宮も、王太后も、王妃も、儀典長も、医師も、すべてその気持ちの周りで柔らかく動くべきだと思っている。
男爵家の娘が、いきなり王の寵愛を受けるとこうなるのか。
……いや、男爵家だからではない。この子だからだ。
「マリーシア」
「はい」
「陛下は、王なのです」
「存じております」
「恋人ではありません」
彼女の頬が赤くなった。今度は喜びではない。
「わたくしにとっては」
「あなたにとってどうであろうと、王宮では王です」
「……そんなの、寂しいですわ」
「寂しい場所です」
思わず、そう言っていた。
マリーシアは目を瞬く。セレスタ夫人も、少しだけこちらを見た。
わたくしは扇を膝の上に置き直した。
「王宮は、寂しい場所です。だからこそ、皆が手順を持つのです。呼び名を間違えない。座る場所を間違えない。誰の前で何を言うかを間違えない。そうやって、自分の身も家も守るのです」
「わたくし、そんな難しいことは」
「難しいなら、覚えるのです」
「十日で?」
「本来なら、十日で足りるはずがありません」
そこで、ようやくマリーシアは黙った。
茶の湯気が細く上がっている。蜂蜜を全部入れたせいで、部屋の中に少し甘い匂いが残っていた。
「王妃陛下は」
口に出すと、彼女の目がまた不満そうに動いた。それでも言う。
「十八で王宮へ入られました。五年お勤めになって、今、御療養中です」
「それは、わたくしのせいではないと、陛下が」
「陛下はそうおっしゃるでしょう」
「では」
「けれど、あなたが入るための準備を、王妃陛下が命じられたのは事実です。妊娠したあなたのために、南の離宮を整えさせるよう命じられたのも事実です。十日後と決められたのも事実です」
「わたくしが決めたのではありません」
「ええ」
それはそうだ。そこは彼女の罪ではない。だから厄介なのだ。
マリーシアは、自分が決めたことではないものについて、責任を持つ気がない。
だが、彼女がそこにいるだけで、周囲は責任を取らされる。
兄も。
わたくしも。
王妃陛下も。




