23 側妃(予定)マリーシア――この子はエルヴィスの子
ようやく扉の外で声がしました。
セレスタ夫人が入ってきました。後ろに侍従がいます。
「陛下がお越しでございます」
わたくしは立ち上がりました。
立ち上がった途端、少しだけ目の前が揺れました。
それでも立ちました。だって、陛下です。
叔母様も立ちます。セレスタ夫人は扉の横へ下がりました。
次に扉が開いて、陛下が入っていらっしゃいました。
わたくしは、胸の中がぱっと明るくなりました。
「エルヴィス!」
呼んでから、しまったと思いました。
でももう遅い。叔母様の扇が止まります。
セレスタ夫人の目がこちらへ来ます。侍従が、ほんの少しだけ顎を引きました。
陛下だけが、笑ってくださいました。
「マリーシア」
その声を聞いた途端、もう我慢できませんでした。
わたくしは陛下の方へ歩きました。セレスタ夫人が何か言いかけたようですが、聞きませんでした。
陛下の前まで行って、手を伸ばします。
陛下は受け止めてくださいました。肩に手が回ります。やっぱり温かい。
やっぱりこの方だけが、わたくしの味方です。
「怖かったですわ」
「怖かったのか」
「だって、あんな、《《あんな診察》》をするなんて聞いていませんでしたもの。色々訊かれて、日にちとか、時刻とか、そんなことまで。まるで、わたくしが何か疑われているみたいで」
「手続きだ」
「手続きって、皆そう言いますわ」
わたくしは陛下の上着を握りました。濃紺の上着です。金糸の刺繍が指に当たりました。
「王宮医も、セレスタ夫人も、叔母様も、皆、手続き手続きって。わたくし、エルヴィスの子を宿している《《だけ》》ですのに」
また呼んでしまった。
でも陛下は、何もおっしゃいません。わたくしの背を、軽く撫でてくださいました。
「よく耐えたな」
その一言で、目の奥が熱くなりました。
そうです。わたくしは耐えたのです。
こんな嫌なことをされて、それでも泣かずに耐えたのです。
「わたくし、王宮へ来たら、もっと皆が喜んでくれると思っていました」
「喜んでいる」
「嘘ですわ。皆、怖い顔ばかり。王妃様もいらっしゃらないし」
陛下の手が、少し止まりました。でも、すぐにまた背を撫でてくれます。
「フレイアは療養中だ」
「わたくしのせいですか」
「違う」
「本当に?」
「ああ」
「だって、わたくしが来るからでしょう? 王妃様がお疲れになったのは。皆、そう思っているのではありません? わたくしが、王妃様を追い出したみたいに」
「誰もそのようには」
陛下は言いかけて、少しだけ後ろを見ました。部屋にはまだ、叔母様も、セレスタ夫人も、侍従もいます。
わたくしは顔を上げました。
「皆様、そうお思いですか?」
叔母様は扇で口元を隠しました。セレスタ夫人は、まっすぐ立ったままです。
「マリーシア様」
彼女が言いました。
「王妃陛下は御療養中でございます。今は、どなたのせいと申す時ではございません」
「では、わたくしのせいではないのですね」
「王妃陛下の御病状について、私から申し上げることはございません」
答えてくれない。そういう言い方ばかりです。
わたくしはまた陛下の胸元へ顔を寄せました。
「ほら、こうですわ。皆、はっきり言ってくれませんもの」
「セレスタ夫人」
陛下が少し低い声を出しました。
「マリーシアは診察で疲れている。少し休ませたい」
「かしこまりました」
セレスタ夫人は頭を下げました。ただ、そのまま動きません。
「何だ」
「陛下。王太后陛下より、診察後も、長い御面会は控えるようにとの御沙汰でございます」
「母上が?」
「はい。マリーシア様の御身のために」
「わたくしは大丈夫です」
急いで言いました。
せっかく会えたのです。なのに、またすぐに離されるなんて。
「大丈夫ですわ。エルヴィスと一緒なら、疲れませんもの」
叔母様が目を閉じました。
セレスタ夫人は、ほんの少しだけ息を吸いました。
「マリーシア様」
「また、陛下とお呼びください、でしょう?」
言ってから、唇を噛みました。
少し言い過ぎたかもしれません。でも、嫌だったのです。
だって、わたくしと陛下の間の呼び方まで、この人達が決めるのですもの。
陛下がわたくしに許してくださったことなのに。
「ここは王宮の客間でございます」
セレスタ夫人は言いました。
「わたくし、まだ王宮の者ではないから、いけないのですね」
「そういう意味ではございません」
「では、側妃になればよろしいのですね」
セレスタ夫人は、そこで答えませんでした。陛下の手が、わたくしの肩を少し強く抱きました。
「すぐだ」
陛下は言いました。
「すぐに、そなたは王宮へ入る。南の離宮もきちんとさせる。明るい部屋にしよう」
「本当に?」
「ああ」
「黄色い花を置いても?」
「好きなだけ」
「窓掛けも明るいものに?」
「そう命じてある」
嬉しくて、やっと息が楽になりました。
「では、《《王妃様みたいな暗い色》》にしなくていいのですね」
言ったあと、少しだけ部屋が静かになりました。陛下の手も、今度は止まりました。
わたくしは顔を上げました。
「……あの、違いますの。王妃様が暗いという意味ではなくて、ただ、その、王宮は全体に落ち着いた色が多いでしょう? わたくし、もっと明るい方が、子にもよいと思って」
「分かっている」
陛下はそう言ってくださいました。ほっとしました。
でもセレスタ夫人は、まだこちらを見ています。
叔母様は扇を閉じました。
「マリーシア」
叔母様が言いました。
「今日はもう、お休みなさい」
「叔母様まで」
「陛下も、お忙しい御身です」
「でも」
「御懐妊が確認されたばかりなのです。ここで聞き分けのないことをなさるものではありません」
――御懐妊。
その言葉だけは、少し嬉しかった。
ようやく、認められたのです。王宮医も、診断したのです。
もう、誰もわたくしを疑えません。
「エルヴィス」
小さく呼びました。今度は、セレスタ夫人に聞こえないように。
陛下は、少しだけ顔を近づけてくれました。
「今夜は来てくださらないの?」
「母上が止めている」
「王太后陛下が?」
「ああ」
「どうして」
「診断前後は、憶測を避けるためだそうだ」
「憶測」
嫌な言葉。また、疑っているみたい。
「わたくし、何も悪いことをしておりませんのに」
「分かっている」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ、明日は?」
「明日は、様子を見て」
「様子ばかり」
わたくしは、陛下の袖を握りました。刺繍の糸が少し指に引っかかります。
「わたくし、早く王宮へ入りたいです。ここではないお屋敷で待つのは嫌。皆がわたくしを見て、あの人が、と言っている気がしますもの。王宮なら、陛下のそばにいられるでしょう?」
「すぐだ」
「十日も待つのですか」
「準備がある」
「準備なんて、そんなに要ります?」
陛下は、少し笑いました。
「そなたは本当に、そういうところが」
「何ですの」
「可愛い」
頬が熱くなりました。さっきまで嫌だったことが、少し遠くへ行きます。
やっぱり陛下は分かってくださる。
皆が手続きだの診断書だの席次だのと言っても、陛下だけは、わたくしを見てくださる。
「では、明るいお部屋にしてくださいませ」
「ああ」
「お菓子も、もっと甘いものがいいです。今日のは、鳥の餌みたいでしたわ」
陛下が笑いました。わたくしも笑いました。
セレスタ夫人は笑いませんでした。
「マリーシア様」
彼女が一歩前に出ました。
「そろそろ、お休みの支度を」
もう少しだけ、と言いたかった。でも叔母様が立ち上がってしまいました。
陛下も、わたくしの肩から手を離します。離れたところが、急に寒くなった気がしました。
「では、また明日」
「必ず?」
「できるだけ」
「できるだけは嫌です」
陛下は困ったように笑いました。
「では、会いに行く」
「約束ですわ」
「ああ」
わたくしは、陛下の手を取りました。
本当は口づけてほしかったけれど、セレスタ夫人がいるので、できませんでした。
代わりに、指先を少しだけ握りました。陛下も握り返してくれました。
それだけで、今日はもう少し我慢してあげてもいい、と思いました。
陛下が部屋を出ていく。扉が閉まる。足音が遠ざかる。
わたくしはその扉を見ていました。
セレスタ夫人が、侍女に目配せをしました。叔母様が、ゆっくりと息を吐きました。
「マリーシア」
「何ですの」
「王宮で、陛下を御名でお呼びしてはいけません」
「二人の時なら、陛下がいいと」
「二人ではありませんでした」
「では二人なら?」
叔母様は扇を握りました。骨が、かすかに鳴りました。
「今は、そういう話をしているのではありません」
「でも大事ですわ」
わたくしは椅子に座りました。
膝の上に手を置く。お腹は、まだ平らです。
その上に、そっと手を当てました。
「この子は、エルヴィスの子ですもの」
叔母様の返事は、少し遅れました。
「……陛下の御子です」
「同じことですわ」
そう言うと、叔母様はもう何も言いませんでした。
侍女が新しいお茶を運んできました。今度は蜂蜜が少しだけ添えられていました。
小さな銀の匙に、ほんの一杯。
わたくしはそれを全部、茶に入れました。




