22 側妃(予定)マリーシア――何でも確認!
診察なんて、あんなものだとは思いませんでした。
もっと、優しいものだと思っていたのです。
だって、わたくしのお腹には陛下の御子がいるのですもの。
王宮医だって、まずはおめでとうございます、と言ってくれるものだと思っていました。
王太后陛下付きの上級女官の方も、にこにこして、どうぞこちらへ、疲れませんように、と手を取ってくださるものだと思っていました。
なのに。
「最後の月のものは、いつでございましたか」
王宮医は最初にそう訊いたのです。白い髪の、細い、眼鏡を掛けた方でした。
医師だから仕方ないのかもしれませんけれど、声に少しも甘さがありません。机の前に座り、こちらを見て、紙に何かを書き込んでいく。
「ええと……」
わたくしは膝の上で指を組みました。
隣には、叔母様が座っています。母ではありません。
母は、朝から気分が悪いと言って寝込んでしまいました。王宮からの使いが来た時には大騒ぎだったのに、いざ王宮へ入るとなったら、顔色を悪くして寝台から起き上がれなくなったのです。
だから、父の妹のコリンナ叔母様が付き添いになりました。
叔母様は、いつもはわたくしに優しいのに、今日は朝から少し怖い顔をしています。
「マリーシア、きちんとお答えなさい」
「分かっていますわ」
小さく答えると、王宮医のペンが止まりました。
「お分かりでしたら、日にちを」
――日にち。
そんなものを、いちいち覚えている女ばかりではないと思います。
もちろん、大体は覚えています。だって、陛下と初めてあのように過ごした頃と近いのですもの。忘れるわけがありません。
でも、あの夜のことを、こんな白い部屋で、知らない医師と、知らない女官と、叔母様の前で、日にちのように言わなければならないなんて。
わたくしは下を向きました。
床に敷かれた小さな絨毯は、青と灰色でした。もっと明るい色にすればいいのに。王宮なのですから。
「たぶん、三月の終わりですわ」
「たぶん、では診断書に書けません」
「では、三月二十六日頃」
「頃」
王宮医はそう繰り返しました。
何ですか、その言い方は。
わたくしは少し顔を上げました。
「女の身体のことですもの。少しのずれくらい、ありますでしょう?」
「ございます。ですから確認しております」
王宮医は、わたくしの言葉に怒りもしません。それがまた嫌でした。
怒ってくれた方がまだいいのです。そうしたらこちらも、わたくしは陛下の御子を宿しているのです、と言えますのに。
……淡々とされると、まるでわたくしだけが騒いでいるように見えます。
「陛下とお会いになった日は」
王宮医が、次の紙を取った。
わたくしは一度、叔母様を見ました。叔母様は扇を閉じたまま、膝の上に置いています。
助けてはくれません。
「それも、必要ですの?」
「必要でございます」
「陛下の御子ですわ」
「診断書には、御懐妊の有無と、月数の見立てを記します」
「それなら」
「父親については、医師が決めることではございません」
その言葉で、頬が熱くなりました。
――父親について。
何て嫌な言い方。
まるで、わたくしが誰の子か分からないものを抱えているようではありませんか。
「失礼ですわ」
思わず言うと、王宮医はペンを置きました。眼鏡の奥の目がこちらを見ます。
「失礼をお許しください。ただし、診断に必要なことはお尋ねいたします」
許すも何も、もう言っています。
王太后陛下付きの上級女官が、そこでやっと口を開きました。
「マリーシア様」
その方は、セレスタ夫人というらしいです。
王宮でわざわざ《《夫人》》と呼ばれているからには、それなりのお家の方なのでしょう。
髪をきっちり結い上げて、首元まで詰まった濃い紫のドレスを着ていました。
年は、王太后陛下よりは下でしょうけれど、わたくしの母よりは上に見えます。
「王宮医の問いにお答えくださいませ。診断書が整いませんと、入宮の手続きが進みません」
「わたくしが嘘をついているとでも?」
「そのようなことは申しておりません」
「でも、そういうことでしょう?」
「違います」
違う、と言うのなら、もっと優しく言ってくれればいいのです。
わたくしはお腹に手を当てました。
まだ膨らみはほとんどありません。でも、いるのです。
陛下は何度も、ここに手を置いてくださいました。
あの方の手は大きくて、温かくて、少し重い。わたくしが「今、動いたかもしれません」と言うと、陛下は嬉しそうに笑いました。
その笑い方を、この人達は知らないのでしょう。
「五月の初めですわ」
わたくしは、できるだけ小さな声で言いました。
「……五月三日。あと、六日。それから、十日」
王宮医のペンが動いた。
「五月三日、六日、十日。以後は」
「……それ以後は、陛下がお忙しくて」
本当は、五月の十五日にも会っています。でも、その日は、少しだけでした。
陛下が夜遅くに来てくださって、わたくしは眠い目をこすりながら起きました。
髪も下ろしていましたし、部屋着でしたし、そんな姿を陛下に見せたのが恥ずかしくて、あまり覚えていないのです。
王宮医は顔を上げた。
「それ以後は、ございませんか」
「……五月十五日にも」
叔母様の扇が、膝の上で少し動きました。
開きはしません。ただ、骨の端が、布に当たりました。
「時刻は」
「夜ですわ」
「どの程度」
「そんなことまで」
「必要でございます」
「エルヴィスは、わたくしに会いたくて来てくださったのです」
言った瞬間、部屋の中の何かが止まった気がしました。
セレスタ夫人の視線が、わたくしの顔に来ます。叔母様が、今度こそ扇を握りました。
王宮医のペンは紙の上で止まっています。
「……陛下、でございます」
セレスタ夫人が言いました。
何がですの、と言いかけて、分かりました。
――エルヴィス。
そう呼んだからです。
でも、陛下が、二人でいる時はそう呼んでよいとおっしゃったのです。
――君の声で名を呼ばれると、王ではなく男に戻る気がする。
そう、おっしゃったのです。わたくしのせいではありません。
「今は、診察の場でございます」
セレスタ夫人は、声を荒げませんでした。
「陛下とお呼びくださいませ」
「……はい」
返事はしました。でも、胸のあたりがぎゅっとしました。
王宮は、何でもかんでも堅苦しい。名前一つ呼ぶこともできない。
陛下は、わたくしのそういうところが可愛いとおっしゃったのに。
王宮へ入ったら、きっと明るくなるとおっしゃったのに。
診察はそのあとも続きました。
食べられるもの。吐き気のある時刻。眠れるか。
腹の痛みはあるか。出血はあるか。
階段は使っているか。馬車で長く揺られたことはあるか。冷えはあるか。
そんなことを、ひとつひとつ。
途中で、奥の衝立の向こうへ行かされました。
叔母様とセレスタ夫人がついてきます。王宮医は侍女に湯を用意させ、手を洗い、布を受け取りました。
……わたくしは、そのあたりから、もうあまり喋りたくなくなりました。
王宮へ上がれば、綺麗な部屋と、花と、陛下と、柔らかな寝台が待っていると思っていたのです。
なのに、最初にされたのが《《これ》》。
わたくしは、白い布を握りました。爪の先が、布に引っかかりました。
王宮医は最後に言いました。
「御懐妊は、ほぼ三月相当と見てよいでしょう」
ほら。やっぱり。
わたくしは胸を張りたかったのに、起き上がる時、少しふらつきました。
セレスタ夫人が手を出します。その手を取るしかありませんでした。
「ただし、移動と環境の変化が続いております。しばらくは無理をなさらぬよう。香の強いものは避け、階段も控え、食事は少量ずつ」
「南の離宮は、階段が多いのですか」
わたくしは訊きました。だって、南の離宮に入るのはわたくしですもの。
王宮医は少しだけ黙りました。
「部屋の使い方は、儀典長と女官長がきちんとさせるでしょう」
「わたくし、日当たりの良い部屋がいいのです。陛下もそうおっしゃって」
「日当たりが良すぎる部屋は、午後に熱が籠もります」
「でも明るい方が」
「妊娠中は、疲れやすくなります」
またです。
明るい部屋が好きだと言っているのに、すぐに、疲れるだの、香がどうだの、階段がどうだの。
――王妃様は、そういうことを気にする方だったのでしょうか。だから王宮が暗かったのではないかしら。
そう思いました。
口には出しませんでした。さすがに、それを今言うと、セレスタ夫人がまた陛下とお呼びくださいませの時の顔をすると思ったからです。
*
診察が終わったあと、わたくしは王宮の客間で待たされました。
陛下はすぐには来てくださいません。
待つ間、何度もお茶が出されました。薄いお茶です。お菓子も、砕いた木の実を少し固めたようなもので、甘さが足りません。
「蜂蜜を」
と言うと、控えていた侍女が一礼しました。
「王宮医より、甘味は控えめにとのことでございます」
「少しだけでいいのです」
「確認してまいります」
確認。何でも確認。
わたくしは皿の上の菓子を一つ取りました。指先で割ると、ぽろぽろと崩れました。
こんなもの、お菓子ではありません!
レーヴェの屋敷で出る焼き菓子の方がずっとおいしい。あれは表面に砂糖が薄くかかっていて、中に杏の蜜煮が入っています。
陛下も好きだとおっしゃいました。今度王宮へ持っておいで、と。
でも、王宮へ入る時には持ち込みの菓子にも確認がいるそうです。毒見がどうの、材料がどうの。
まるで、わたくしの家が何か悪いものでも持ってくるようではありませんか!
叔母様は、わたくしの向かいの椅子に座ったままです。
「叔母様」
「何です」
「陛下はいついらっしゃるのかしら」
「お呼びするものではありません」
「でも、診察が終わったら会えると」
「陛下の御都合があります」
「わたくし、今日はとても嫌な思いをしました」
叔母様は扇を開きました。ぱちりと小さな音がしました。
「だからこそ、今日はお静かになさい」
「どうしてですの」
「マリーシア」
叔母様の声が少し低くなりました。
「ここは王宮です」
「分かっています」
「まだ、あなたの部屋ではありません」
「でも、もうすぐわたくしの」
「まだです」
強い言い方です。わたくしは口を閉じました。
叔母様は今日、ずっとこうです。
王宮へ入るのだから嬉しいでしょう、くらい言ってくれてもいいのに。
父も母も、王宮からの正式な使いが来た時には、顔を見合わせていました。喜んではいました。けれど、何かを恐れているようでもありました。
父は何度も「本家へはまだ知らせるな」と言いました。母は「王妃様のご体調は」と小さな声で訊きました。
わたくしは、そんなことより、衣装の方が気になっていました。
だって、王宮へ入るのですもの。陛下の側妃になるのですもの。
きれいにしなくて、どうしますの。




