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「側妃を迎える。準備は王妃府で」そう告げた王は、二ヶ月後、王座を失いました。  作者: さんけい


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21 侍従長カレル侯爵――記録は言葉だけでは動かない

 陛下の執務室を出てから、私は扉の前で一度立ち止まった。


 廊下の燭台には、まだ火が入っていない。

 夕刻には少し早い。窓から入る光だけで、床の模様は読める。

 手元には、陛下からマリーシア様へ宛てた封書が一通。それと、陛下の口頭での御裁可が三つ。


 ――レーヴェ伯爵家本家への確認使者を、王命で出すこと。

 ――南の離宮の窓掛けは、イルマ殿下御成婚時の品を避け、明るい色から選ぶこと。

 ――マリーシア様には明朝、王宮医の診察を受けていただくこと。


 《《口頭》》。私はその言葉を、舌の上ではなく頭の中で転がした。

 よろしくない。

 陛下は決して、悪い御方ではない。だが、悪い御方でないことと、王として不足がないこととは別である。


「カレル侯爵」


 横で控えていた若い侍従が、私を見上げるようにして声をかけた。

 彼はまだ二十二だったか。男爵家の次男で、字が綺麗だ。足も速い。ただし、顔に出る。

 先ほども、陛下がマリーシア様をレーヴェ伯爵家令嬢と思い込んでおられた時、指先が封筒を折りかけていた。


「何か」

「こちらの封書は、すぐにマリーシア様へお届けいたしますか」

「その前に、副状をつける」

「副状、でございますか」

「陛下の御意向として、明朝、王宮医の診察を受けていただく旨を、正式に添える。口頭では足りない」


 若い侍従は一瞬だけ目を丸くし、すぐに伏せる。

 反応が遅い。だが、まだ直る。


「はい」

「文面は私が見る。君は書記官を二名呼びなさい。それから、封蝋は侍従長印を使う。王印ではない」

「王印では、ないのですか」

「陛下の封書は陛下の封書である。診察の手続きは王宮の手続きだ。混ぜるな」

「かしこまりました」


 彼は足早に廊下を去った。

 靴音が軽い。王妃陛下の御療養初日に、その足音は軽すぎる。次に教えねばならない。

 私は歩き出した。

 執務室から侍従長室までは、廊下を二つ曲がる。途中、王妃府へ続く渡り廊下が見える場所がある。

 今日、その廊下の向こうは静かだった。

 扉の前には王妃府の下女が二人立っている。荷物を持ち出そうとした女官を止めるためだろう。扉には、公爵家の封が貼られていた。

 ……よく動いたものだ。

 リーナ殿は、王妃陛下の侍女である。侍女が勝手に王妃府を封じることはできない。

 彼女は勝手にはしていない。国王陛下御署名、王太后陛下御確認済みの療養許可状を使った。

 正しい。実に正しい。……だから厄介である。

 あの紙の前では、儀典長も、宰相府も、王宮女官長も、何も言えない。《《陛下だけ》》が、あの紙を軽く見ておられる。

 そこが一番厄介なのだが、口に出す者は今のところいない。口に出さずとも、皆それぞれの場所で少しずつ机の上の紙を増やしているはずだ。私も同じである。


 侍従長室に入ると、机の上には既に書類が五つ置かれていた。

 どれも急ぎの印がある。


 ――一つ目。王太后陛下より、今夜の御夕餐取りやめ。

 ――二つ目。儀典長より、南の離宮の調度品確認。

 ――三つ目。宰相府より、レーヴェ伯爵家本家への確認文の名義照会。

 ――四つ目。王宮医より、マリーシア様診察の時刻確認と、同席者の確認。

 ――五つ目。女官長より、王妃陛下付き侍女のうち、王宮に残る者の指揮系統について。


 私は手袋を外した。机の右に、陛下の封書を置く。

 左に、王太后陛下の書付。中央に、白紙。

 ペンを取ったところで、書記官二名と、先ほどの若い侍従が入ってきた。


「座りなさい」


 二名はすぐに着席した。若い侍従だけが立っている。


「君も座れ」

「私もでございますか」

「口頭の御裁可を聞いた者は、記録の場に同席するのだ」


 彼は慌てて椅子を引いた。椅子の脚が床を擦る。

 私はそちらを見る。彼は唇を結び、音を止めた。

 よろしい。


「これより、陛下の御裁可を記録する」


 書記官二名がペンを構えた。


「第一。レーヴェ伯爵家本家への確認使者は、王命により出す。文面は宰相府および儀典長できちんとさせる。王妃府へは回さない」


 書記官のペンが走る。紙の上に、かり、かり、と音が続いた。


「第二。南の離宮の窓掛けは、イルマ殿下御成婚時の品を用いない。王宮倉庫のうち、王太后陛下御席の色と重ならず、側妃入内の礼に差し障りのない、《《明るい色》》を儀典長が選定する」


 ここで一度止めた。書記官の一人が顔を上げる。


「『明るい色』はそのままでよろしいでしょうか」

「そのままではいけない」


 白紙の端に、私は細く線を引いた。


「『陛下の御希望に従い、南の離宮には明るい色を用いる。ただし儀礼上の差し障りを避けるため、儀典長の選定とする』としなさい」

「かしこまりました」


 ――陛下の御希望。


 この言葉は入れておく。

 誰が南の離宮を望んだのか。誰が明るい色と言ったのか。

 後で消えないように。


「第三。マリーシア様には明朝、王宮医の診察を受けていただく。これは側妃入宮および御懐妊の公的手続きに関わるためである」


 若い侍従が、わずかにこちらを見た。何か言いたそうである。


「何か」

「あの、マリーシア様は、まだ正式には側妃殿下では」

「そうだ」

「では、文面は」

「マリーシア様でよい。側妃殿下とは書かない。御懐妊についても、診断前に『御子』とは書かない」


 若い侍従の喉が動いた。書記官のペンは止まっている。


「書きなさい」

「はい」


 かり、とペンが戻る。

 ここを曖昧にしてはならない。マリーシア様は、まだ側妃殿下では《《ない》》。

 腹の子も、まだ王宮医の診断を受けていない。

 陛下は、私の子だ、とおっしゃった。それは陛下の御言葉である。

 だが、記録は御言葉だけでは動かない。動かしてはならない。

 《《王宮は、陛下の気分を形にする場所ではない》》。少なくとも、そうであってはならない。


「第四。今夜、陛下はマリーシア様の滞在先へ御成りにならない。王太后陛下の御沙汰により、診断前の憶測を避けるためである」


 若い侍従のペンではない。だが彼の膝の上の手が、少し握られた。

 これは陛下の御裁可ではない。《《王太后陛下の御沙汰》》である。

 同じ紙には載せない。別紙にする。


「第四は別紙。宛先は近衛隊長、馬車方、外門警備、マリーシア様滞在先の王宮連絡役」

「かしこまりました」

「文末に、侍従長確認、と入れる」

「はい」


 これで、夜半に陛下が急に馬車を出せとおっしゃった場合、馬車方は私へ確認を上げる。

 近衛も動かない。門も開かない。

 もちろん、陛下が重ねて御命令なされば、最終的には開く。

 だが、その時は紙が残る。誰が何を止め、誰が何を破ったかが残る。

 規則とは、そのためにある。

 人を縛るためではない。後から、《《なかったことにさせないため》》である。


「次に、王宮医へ」


 王宮医からの照会を開いた。

 文字がきちんとしている。少し右上がりだ。急いで書いたのだろう。


 ――マリーシア様診察につき、同席者を確認されたし。

 ――未入宮の女性につき、御実家側の立会人を要するか。

 ――王宮側立会人は女官長か、王太后陛下付き女官か。

 ――診断書の宛先は、王太后陛下、陛下、宰相府、儀典長、王宮記録庫のいずれとするか。


 当然の照会である。私は別の紙を取った。


「王宮医への返答。診察は明朝第二刻。王宮側立会人は王太后陛下付き上級女官を一名。女官長には同席させない」


 書記官が一瞬だけペンを止めた。


「女官長では、ないのですね」

「王妃府と女官長の指揮系統が、今は乱れている。王太后陛下付きから出す」


 女官長は有能である。

 だが、彼女はここ数年、王妃陛下の指示に慣れすぎた。本人も気づいていないだろう。

 王妃府から来た小さな紙一枚で、女官長の仕事は半分済んでいた。どの夫人にどの女官を付けるか、どの部屋に誰を待機させるか、誰を顔合わせさせてはならないか。

 その紙が来ない。

 今朝から、女官長は三度、王妃府へ使いを出そうとして止められている。

 女官長を診察の場へ出せば、余計なことを訊く。マリーシア様の侍女の人数。寝室の香。入内衣装。産着の仮縫い。側妃付き女官の選定。

 そこに王妃陛下はいない。

 女官長は、それを忘れる可能性がある。


「マリーシア様御実家側の立会人は、レーヴェ子爵家より女性一名。ただし、王宮が認めた者に限る」

「本家伯爵家では」

「診察は母体の確認である。御実家側は現在の保護者筋でよい。本家伯爵家は家格確認の相手だ。混ぜるな」

「はい」

「診断書の宛先は、第一を王太后陛下、第二を陛下、写しを王宮記録庫。宰相府および儀典長には、診断結果の公的通知のみ」


 ここも分ける。子の有無と、母の身体のことを、必要以上に宰相府へ回すべきではない。

 マリーシア様を守るためではない。王宮の品位のためだ。

 そして、王妃陛下が戻られた時に、無用な紙が王妃府へ積まれないようにするためでもある。


 ――戻られた時。


 私はそこまで考えて、ペンを持つ指をわずかに止めた。


 ――王妃陛下は戻られるのか。


 陛下は、戻るものとお考えである。

 公爵は、戻す気があるのか。イルマ殿下は、戻す気があるのか。王妃陛下御自身は。

 今朝、最後に王妃陛下を拝見した時、御顔に強い色はなかった。

 怒りでも、嘆きでもない。ただ、普段手順を一つずつ置いていく御方が、ふっとそれらを手から離したような表情だった。

 私はその場で、何も申し上げなかった。申し上げる立場ではない。

 だが、あの御方が馬車に乗るまでに、何度礼を取ろうとなさったかは見ていた。

 母君が腕を取られた。侍女が外套を直した。公爵が、一歩前を歩いた。

 王妃陛下は、王宮の床を見ておられた。あの床の敷物の端も、おそらく御自身で替え時を決めておられたのだろう。


「侯爵?」


 書記官の声で、私はペン先を上げた。


「失礼」


 インクは落ちていない。


「続ける」


 王妃陛下が戻るかどうかは、私の考えることではない。今、考えるべきは、明日の第二刻までに、診察の場をきちんとさせることだ。


「マリーシア様への副状」


 私は陛下の封書を手元へ戻した。

 封は開けない。

 内容は、陛下が書かれた時に目に入っている。だが、封じられたものをもう一度見る必要はない。


「文面。マリーシア様。陛下よりの御文をお届けいたします。あわせて、明朝第二刻、王宮医が御身を拝診いたします。これは側妃入内の正式手続きに必要なものであり、王太后陛下御確認のもと行われます。御実家側より女性の立会人を一名、今夜中にお知らせください」


 書記官が書く。私は少し待った。


「最後に。御不安の点は、王太后陛下付き上級女官へお伝えください。陛下への直接の御文は、診断後にお取り次ぎいたします」


 若い侍従が顔を上げた。まただ。


「何か」

「陛下への御文を、止めるのでございますか」

「止めない。取り次ぎの順を定める」

「同じでは」

「違う」


 声は上げない。だが、書記官二名のペンが止まった。


「未入宮の女性が、診断前の懐妊を理由に、夜ごと陛下へ御文を送る。陛下がそれに都度お返事をなさる。そこに王宮医の診断がまだない。家格確認もない。王妃陛下は御療養初日。これをそのまま通すのは、誰のためにもならない」


 若い侍従の頬が赤くなった。


「申し訳ございません」

「覚えておきなさい。恋文は軽い紙に見える。だが、王宮では時に命令書より重くなる」

「はい」

「特に、腹に子があると書かれていれば」


 そこまで言って、私はペンを置いた。言い過ぎたか。

 書記官二名は顔を上げていない。若い侍従も、膝の上に手を置いている。

 よろしい。この部屋の中だけで済む。


「今の一文は記録しない」

「はい」


 書記官の返事が重なった。

 私は副状の文面を確認し、侍従長印を押した。

 赤ではない。侍従長室の封蝋は濃い青である。

 陛下の赤い封蝋と、私の青い封蝋。二つが並ぶと、緑の封筒にはやや色が多い。

 だが仕方ない。


「届けなさい。返答を必ず受けること。立会人の名、明朝の支度、今夜の御文取り次ぎについて、相手が理解したかを確認して戻りなさい」

「かしこまりました」


 若い侍従は封書を両手で受け取った。


「走るな」


 彼が扉へ向かう前に言う。足が止まった。


「はい」

「馬車を使いなさい。王宮からの正式な使いである」

「はい」


 彼は今度こそ、静かに部屋を出た。

 扉が閉まる。

 私は残りの紙を見た。

 南の離宮。レーヴェ伯爵家。王宮医。女官長。王太后陛下の御夕餐取りやめ。

 どれも、王妃陛下がいらした時には、この時間に私の机へは来なかった類のものだ。

 いや、来る前に整えられていた。誰かが困る前に、誰かが先に手を打っていた。

 その誰かを、陛下は「少し疲れただけ」とおっしゃった。

 私は王太后陛下宛の返書を取り、ペンを入れた。


 ――御沙汰、承知いたしました。

 ――今夜、陛下御成りの馬車は出しません。

 ――近衛、馬車方、外門へ確認済み。

 ――マリーシア様診察は、明朝第二刻に整えます。

 ――王太后陛下付き上級女官一名の御差配を願います。


 そこまで書いて、吸い取り紙で余分なインクを取る。

 書記官の一人が、次の紙を差し出す。私は受け取った。宛先は儀典長。


 ――南の離宮の窓掛けについて。


 窓掛け。

 王妃陛下がいらしたなら、きっと今朝のうちに終わっていた。どの倉庫の、どの棚の、どの箱に入っているかまで、たぶん御存じだった。

 私はペンを置き、ベルを鳴らした。控えの侍従が入ってくる。


「王宮倉庫の管理官を呼びなさい。南の離宮用の調度目録を持って」

「かしこまりました」

「それと、王妃府へは行くな。倉庫から直接、ここへ」


 侍従は頭を下げた。

 扉が閉まる。私は儀典長宛の紙に、最初の一行を書いた。


 ――陛下の御希望により、南の離宮は()()()まとめる。


 明るく。

 その言葉だけが、紙の上で少し浮いて見えた。



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