表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「側妃を迎える。準備は王妃府で」そう告げた王は、二ヶ月後、王座を失いました。  作者: さんけい


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
20/67

20 国王エルヴィス――また紙だ!書類だ!

 フレイアは、日が傾く前に王宮を出た。


 その報告は、外務卿との短い打ち合わせの後、侍従長から受けた。


「公爵家の馬車は、先ほど王宮の西門を出ました」

「そうか」


 私は署名の終わった書類を横へ置いた。インクがまだ乾いていない。侍従が吸い取り紙で押さえる。


「医師は同行したのか」

「公爵家医師が馬車に同乗しております。王宮医も、門まではお見送りを」

「大げさなことだ」


 口にすると、侍従長の肩がほんの少し動いた。

 咳をしたのかと思ったが、そうではなかったらしい。


「王妃陛下の御療養でございますので」

「ああ、分かっている」


 ――療養許可状。


 ディート公爵が、やけに細かく文言を確かめていた紙である。私も署名した。母上も確認した。イルマ叔母上も、あの場で見ていた。

 フレイアは疲れていた。それは認める。

 このところ、少し顔色が悪かった。食事も進んでいなかったらしい。だが、王妃というものは皆そういう時期があるものではないのか。

 母上も若い頃は、よく頭痛で休んだという。ただ朝になれば起き、装い、礼拝に出た。宮廷の女達はそうするものだと、私は子供の頃から見てきた。

 フレイアも、少し休めばよい。公爵家で母親に甘やかされ、柔らかな寝台で眠り、滋養のあるものでも食べれば、十日とは言わず、半月ほどで顔色も戻るだろう。

 戻った時には、マリーシアも王宮に慣れている。

 そうなれば、かえってちょうどよい。


「陛下」

「何だ」

「王太后陛下より、今夜の御夕餐についてお尋ねがございます」

「夕餐?」

「王妃陛下が御不在のため、上座をどのようにきちんとさせるか、と」


 またそれか。

 私は椅子の背に体を預けた。革張りの背が、ぎし、と鳴る。


「母上が上座でよいだろう」

「王太后陛下からは、正式には陛下の御判断を、と」

「なら、そう伝えろ。母上が上座。フレイアは療養中。以上だ」


 侍従長は頭を下げた。それで済む話だ。

 誰がどこに座るかなど、典礼官と母上が決めればよい。フレイアはよくそのようなものを覚えていたが、何もフレイア一人しか分からないことではあるまい。

 王宮には、昔から儀典長も典礼官もいる。彼らはそのために俸給を受けている。


「それと、南の離宮について」


 侍従長が続けた。私は眉を寄せた。


「南の離宮がどうした」

「本日午後より、王妃府からの人手が止まっております」

「ああ」


 それはそうだろう。フレイアの療養許可状には、療養中の王妃府への新規執務命令を禁ずる、と書かれていた。あの文言だ。

 ディート公爵が、そこだけ妙に念入りに読み上げた。まるで私が後から余計なことを言うと思っているようで、あまり良い気はしなかった。


「だが、準備は進んでいるのだろう?」

「《《午前までに王妃陛下が指示なさっていた分は》》、進んでおります。寝具の入れ替え、主寝室の清掃、窓掛けの確認、妊婦用の踏み台、廊下の敷物の固定」

「なら問題ない」

「ただ、香、侍女の控え室、産着用の仮保管場所、側妃殿下の家付き使用人の人数、護衛動線、礼拝堂への通路、入内当日の席順について、追加の確認が」

「それをなぜ私に言う」


 侍従長の目が、一瞬だけ私の机の上へ落ちた。そこには、書類がいくつも重なっている。

 外務卿のもの。財務卿のもの。近衛隊のもの。母上からの短い覚え書き。どれも赤や青や白の紐で結ばれていた。

 フレイアなら、紐の色と置き場所で、何がどの順番かすぐに分けていた。

 いや、王妃府なら分かるだろう。分かる者がいるはずだ。


「儀典長に言え」

「儀典長より、王妃府の指示控えを確認したいとの申し出が」

「見せればいい」

「王妃府は、王妃陛下の御療養中、新規の執務確認を止めております。リーナ殿より、許可状の写しが示されました」


 リーナ。あの侍女か。

 フレイアのそばに、いつもまっすぐ立っている女だった。薄い灰色の瞳で、こちらの言葉を一つずつ畳んでいくような見方をする。

 彼女も公爵家の者だったか。そう思うと、あの許可状の使われ方も分かる気がした。

 紙というものは、便利だが厄介である。


「なら母上に」

「王太后陛下は、陛下の御希望で南の離宮をお選びになったのだから、陛下の御側でお決めになるように、と」


 今度は私の指が机の端を叩いた。一度。二度。

 侍従長は顔を上げない。


「南の離宮は、マリーシアが明るい部屋を好むと言ったからだ」

「はい」

「王宮で一番日当たりがよい」

「はい」

「なら、そのように整えればいい」

「窓掛けの色は」

「明るいものだ」

「何色に」

「黄色でも、白でも、好きにすればよい」

「側妃殿下の御衣装と、入内日の花色と、王太后陛下の御席に置かれる布色と重なる場合がございます」

「そんなものは、後から変えればよいだろう」


 言ってから、少しだけ思い出す。フレイアは、前に似たようなことを言っていた。


 ――花の色は、ただ好きに選ぶものではない。

 ――誰がどの色を身に着けるか、どの家がどの紋章色を持っているか、喪中の家が交じるか、隣国の使節がいるか。季節の祭礼で避ける色もある。


 その時、私はあまり聞いていなかった。

 フレイアは手元の帳面に何かを書き込みながら説明していた。

 細い銀ペンの先が、紙の上でとても小さな音を立てていた。


「陛下」


 侍従長の声で、私は顔を上げた。


「何だ」

「南の離宮の窓掛けは、ひとまず王宮倉庫の白地に金糸のものを出すよう、儀典長が申しております。ただし、あれは先王陛下の御代、王弟殿下御成婚の際に使われたものです」

「イルマ叔母上の時のものか」

「はい」


 それはまずい。

 イルマ叔母上は今日、実に機嫌が悪かった。あの方の婚礼の品を、妊娠済みの側妃の部屋へ流用したと知れば、また公爵家へ馬を飛ばしかねない。


「別のものにしろ」

「どれに」

「それを決めるのが儀典長だろう」

「儀典長は、王妃陛下の御判断を仰ぎたいと」


 私は息を吐いた。

 フレイアは居ない。ほんの数刻前に出ていったばかりなのに、もうその名前がここに戻ってくる。


「フレイアに使いを」


 言いかけると、侍従長の手が動いた。

 胸元から、折り畳まれた紙が出る。療養許可状の写しだった。

 私の署名がある。母上の確認の印もある。公爵家の封蝋も、端に押されている。

 侍従長はそれを机の上に置いた。紙の角が、ぴたりと私の方を向く。


「療養中の王妃陛下への新規執務確認は、禁じられております」


 自分の署名とは、こういう時にだけよく目に入る。

 黒い線が、ひどく濃く見えた。


「分かった」


 私は紙を押し返した。


「王太后に回せ」

「かしこまりました」


 侍従長は、ようやく一歩下がった。

 そこへ、別の侍従が入ってきた。若い方の侍従で、少し息が上がっている。手には淡い緑の封筒を持っていた。


「陛下、マリーシア様より」


 封筒には、小さな花が描かれていた。

 マリーシアの手紙はいつも香りがする。甘い香だ。フレイアの書類のように、紙とインクと蝋の匂いだけではない。

 封を切ると、中には丸い文字が並んでいた。


 ――陛下。

 ――今日はお会いできなくて寂しゅうございます。

 ――王妃様がご療養に向かわれたと聞きました。

 ――私、何か悪いことをしてしまったのでしょうか。

 ――陛下は、王妃様はお優しい方だとおっしゃいました。

 ――ですから、私もきっと仲良くできると思っておりました。

 ――お腹の子も、今日はよく動いた気がいたします。

 ――陛下に早く触れていただきとうございます。


 最後の一文で、私は口元をゆるめた。さっきまで机の上にあった面倒な紙が、少し遠くなる。

 そうだ。大事なのはそこだ。世継ぎである。

 国には子が要る。王家には次代が要る。フレイアに子ができなかった以上、側妃を迎えるのは当然だ。

 母上も、そこは分かっている。

 イルマ叔母上も、公爵も、手順だの家格だの離宮だのを言うが、子が生まれれば話は変わる。

 マリーシアが王子を産めば、王宮は明るくなる。フレイアも、戻ってくればその子を抱くだろう。

 彼女は《《仕事のできる女》》だ。子供の洗礼、名付け、乳母の選定、祝いの返礼。そのあたりも、いずれ落ち着けばきちんとやるに違いない。

 《《そのためにも》》、少し休ませるのは悪くない。

 ああそうだ、弟のアレクは今どのあたりにいただろうか。吉事なのだから呼び戻そう。


「陛下」


 若い侍従が、まだ立っていた。


「何だ」

「お返事は」

「ああ」


 私は紙を引き寄せた。返事を書くのは嫌いではない。短ければ。

 ペンを取る。だが、その前に侍従長が小さく咳をした。


「陛下。王宮医の診断の件でございますが」

「またか」


 ペン先のインクが、紙に落ちた。丸い黒点ができる。


「マリーシア様には、明朝、王宮医の診察をお受けいただく必要がございます」

「必要か?」

「必要でございます」


 侍従長の声は、いつもより少し固かった。


「御子であると公に扱うためには、王宮医の診断書が要ります」

「私の子だ」

「はい」

「マリーシアがそう言った」

「はい」

「なら、それでよいだろう」


 侍従長は、今度はすぐに返事をしなかった。若い侍従の手の中で、緑の封筒が小さく曲がっている。


「何だ」

「診断書がなければ、王太后陛下も、儀典長も、洗礼名の仮記録も、動かせません」

「まだ洗礼の話ではない」

「それでも、記録は始まります」


 ――記録。


 また紙だ! 子が生まれる前から、紙がいる。

 誰が父で、誰が母で、母の家格が何で、どの部屋に入り、どの女官が付き、どの医師が見て、どの神官が祈るか。

 王家の子なのだから、そういうものだとは分かっている。

 だが、あまりにも早い。

 マリーシアはまだ三月だと言っていた。腹も目立たない。手を当てれば、彼女は笑って「今、動きました」と言うが、私には分からない。ただ彼女の手が温かく、彼女が嬉しそうにするから、それでよいと思っていた。


「明朝でよいのだな」

「はい」

「なら、マリーシアには私から言う」

「王宮医は、レーヴェ子爵家の記録も必要と申しております」

「伯爵家ではないのか」


 言った瞬間、侍従長のまぶたが一度下がった。

 それは私も知っている。マリーシアはレーヴェ伯爵家の分家の娘だ。正確には子爵家の娘である。

 だが、レーヴェ伯爵家の血筋であることに違いはない。

 彼女はいつも、自分のことを《《レーヴェの娘》》と言う。間違いではない。


「本家伯爵家へも、確認の使者が必要でございます」

「好きに出せ」

「誰の名で」

「王宮の名でよい」

「王妃府の名は使えません」

「なら宰相府だ」

「宰相府からは、側妃入内に関わる家格確認は、儀典長と王妃府の共同確認が通例であると」


 机の端を叩いた指が、少し強くなった。音が広い執務室に響く。

 若い侍従が肩を縮めた。


「通例、通例と、皆そればかりだな」


 侍従長は答えない。


「通例にないことが起きれば、誰かが決めるしかないだろう」

「陛下の御裁可を」


 私は椅子から立った。

 窓の外は、夕方の色になっていた。西の空が赤い。庭の向こう、王妃府へ続く廊下の窓に、同じ色が映っている。

 あそこにいつも灯っていた明かりが、今日は少ない。

 フレイアが居ないからか。それとも、公爵家へ付き従った者がいるからか。

 どちらでもいい。


「本家伯爵家への使者は、王命で出せ。文面は宰相府と儀典長で整えろ。王妃府には回すな」

「かしこまりました」

「南の離宮の窓掛けは、イルマ叔母上の婚礼の品以外から選べ。色は明るいもの。花はマリーシアに合うもの。ただし母上の席と重ねるな」

「かしこまりました」

「王宮医は明朝。マリーシアへは私から伝える」

「かしこまりました」


 言ってみれば、簡単なことだ。なぜ皆、これをいちいち紙にしてからでなければ動けないのか。


 侍従長は一礼し、若い侍従を連れて下がった。執務室に、一人になる。

 いや、部屋の隅には書記官がいる。扉の外には近衛がいる。完全に一人ではない。

 だが、机の上の紙を見ても、次に何をすべきか、すぐには手が伸びなかった。

 緑の封筒が残っている。マリーシアへの返事を書かねば。

 私は新しい紙を取った。


 ――案ずることはない。

 ――王妃は少し疲れただけだ。

 ――そなたは明るくしていればよい。

 ――明朝、王宮医がそなたを診る。

 ――私も後で会いに行く。


 そこまで書いて、ペンを止めた。


 ――明朝、王宮医がそなたを診る。


 その一文だけ、何か固い。マリーシアは怖がるかもしれない。

 私は線を引いて、その行を消す。紙が少し汚れた。

 別の紙を出すのも面倒で、そのまま続ける。


 ――王宮の手続きがある。

 ――そなたと子のためだ。


 これでいい。

 署名を入れ、封をする。赤い蝋を垂らすと、小さな丸が紙の上に広がった。

 印章を押す。蝋が固まるまで、少し待つ。

 その間に、扉の外で足音が止まった。


「陛下」


 また侍従長の声だった。私は封書を持ったまま、扉を見た。


「今度は何だ」

「王太后陛下より、今夜の御夕餐は取りやめるとの御沙汰です」

「なぜ」

「王妃陛下の御療養初日ゆえ、宮廷の女官達にも早く下がるように、と」

「母上らしいな」


 私は封書を侍従に渡した。


「これをマリーシアへ」

「かしこまりました」


 侍従長は封書を受け取りながら、もう一枚の紙を差し出してきた。


「こちらは、王太后陛下から陛下へ」


 受け取ると、母上の字があった。短い。


 ――今夜はマリーシア殿のもとへ行かぬように。

 ――診断前に余計な憶測を増やすのでない。

 ――明朝、医師の診断を先に受けさせよ。


 私は紙を折った。

 ……まったく。皆、子ができたことを喜べばよいものを。

 マリーシアはきっと、今夜も私を待っている。

 あの明るい部屋ではない。まだ王宮の外、レーヴェ子爵家が借りた屋敷の一室だ。

 彼女はそこに花を飾り、私が行くたびに椅子を寄せ、自分の腹へ手を当てさせる。


 ――行かぬように。


 母上の字は、いつもより線が太かった。

 私はその紙を、机の右端へ置いた。そこには、まだ署名していない書類が三つある。

 フレイアなら、どれから見るべきか知っていたのだろう。

 私は赤い紐のものを取った。

 紐は、思ったより固く結ばれていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ