20 国王エルヴィス――また紙だ!書類だ!
フレイアは、日が傾く前に王宮を出た。
その報告は、外務卿との短い打ち合わせの後、侍従長から受けた。
「公爵家の馬車は、先ほど王宮の西門を出ました」
「そうか」
私は署名の終わった書類を横へ置いた。インクがまだ乾いていない。侍従が吸い取り紙で押さえる。
「医師は同行したのか」
「公爵家医師が馬車に同乗しております。王宮医も、門まではお見送りを」
「大げさなことだ」
口にすると、侍従長の肩がほんの少し動いた。
咳をしたのかと思ったが、そうではなかったらしい。
「王妃陛下の御療養でございますので」
「ああ、分かっている」
――療養許可状。
ディート公爵が、やけに細かく文言を確かめていた紙である。私も署名した。母上も確認した。イルマ叔母上も、あの場で見ていた。
フレイアは疲れていた。それは認める。
このところ、少し顔色が悪かった。食事も進んでいなかったらしい。だが、王妃というものは皆そういう時期があるものではないのか。
母上も若い頃は、よく頭痛で休んだという。ただ朝になれば起き、装い、礼拝に出た。宮廷の女達はそうするものだと、私は子供の頃から見てきた。
フレイアも、少し休めばよい。公爵家で母親に甘やかされ、柔らかな寝台で眠り、滋養のあるものでも食べれば、十日とは言わず、半月ほどで顔色も戻るだろう。
戻った時には、マリーシアも王宮に慣れている。
そうなれば、かえってちょうどよい。
「陛下」
「何だ」
「王太后陛下より、今夜の御夕餐についてお尋ねがございます」
「夕餐?」
「王妃陛下が御不在のため、上座をどのようにきちんとさせるか、と」
またそれか。
私は椅子の背に体を預けた。革張りの背が、ぎし、と鳴る。
「母上が上座でよいだろう」
「王太后陛下からは、正式には陛下の御判断を、と」
「なら、そう伝えろ。母上が上座。フレイアは療養中。以上だ」
侍従長は頭を下げた。それで済む話だ。
誰がどこに座るかなど、典礼官と母上が決めればよい。フレイアはよくそのようなものを覚えていたが、何もフレイア一人しか分からないことではあるまい。
王宮には、昔から儀典長も典礼官もいる。彼らはそのために俸給を受けている。
「それと、南の離宮について」
侍従長が続けた。私は眉を寄せた。
「南の離宮がどうした」
「本日午後より、王妃府からの人手が止まっております」
「ああ」
それはそうだろう。フレイアの療養許可状には、療養中の王妃府への新規執務命令を禁ずる、と書かれていた。あの文言だ。
ディート公爵が、そこだけ妙に念入りに読み上げた。まるで私が後から余計なことを言うと思っているようで、あまり良い気はしなかった。
「だが、準備は進んでいるのだろう?」
「《《午前までに王妃陛下が指示なさっていた分は》》、進んでおります。寝具の入れ替え、主寝室の清掃、窓掛けの確認、妊婦用の踏み台、廊下の敷物の固定」
「なら問題ない」
「ただ、香、侍女の控え室、産着用の仮保管場所、側妃殿下の家付き使用人の人数、護衛動線、礼拝堂への通路、入内当日の席順について、追加の確認が」
「それをなぜ私に言う」
侍従長の目が、一瞬だけ私の机の上へ落ちた。そこには、書類がいくつも重なっている。
外務卿のもの。財務卿のもの。近衛隊のもの。母上からの短い覚え書き。どれも赤や青や白の紐で結ばれていた。
フレイアなら、紐の色と置き場所で、何がどの順番かすぐに分けていた。
いや、王妃府なら分かるだろう。分かる者がいるはずだ。
「儀典長に言え」
「儀典長より、王妃府の指示控えを確認したいとの申し出が」
「見せればいい」
「王妃府は、王妃陛下の御療養中、新規の執務確認を止めております。リーナ殿より、許可状の写しが示されました」
リーナ。あの侍女か。
フレイアのそばに、いつもまっすぐ立っている女だった。薄い灰色の瞳で、こちらの言葉を一つずつ畳んでいくような見方をする。
彼女も公爵家の者だったか。そう思うと、あの許可状の使われ方も分かる気がした。
紙というものは、便利だが厄介である。
「なら母上に」
「王太后陛下は、陛下の御希望で南の離宮をお選びになったのだから、陛下の御側でお決めになるように、と」
今度は私の指が机の端を叩いた。一度。二度。
侍従長は顔を上げない。
「南の離宮は、マリーシアが明るい部屋を好むと言ったからだ」
「はい」
「王宮で一番日当たりがよい」
「はい」
「なら、そのように整えればいい」
「窓掛けの色は」
「明るいものだ」
「何色に」
「黄色でも、白でも、好きにすればよい」
「側妃殿下の御衣装と、入内日の花色と、王太后陛下の御席に置かれる布色と重なる場合がございます」
「そんなものは、後から変えればよいだろう」
言ってから、少しだけ思い出す。フレイアは、前に似たようなことを言っていた。
――花の色は、ただ好きに選ぶものではない。
――誰がどの色を身に着けるか、どの家がどの紋章色を持っているか、喪中の家が交じるか、隣国の使節がいるか。季節の祭礼で避ける色もある。
その時、私はあまり聞いていなかった。
フレイアは手元の帳面に何かを書き込みながら説明していた。
細い銀ペンの先が、紙の上でとても小さな音を立てていた。
「陛下」
侍従長の声で、私は顔を上げた。
「何だ」
「南の離宮の窓掛けは、ひとまず王宮倉庫の白地に金糸のものを出すよう、儀典長が申しております。ただし、あれは先王陛下の御代、王弟殿下御成婚の際に使われたものです」
「イルマ叔母上の時のものか」
「はい」
それはまずい。
イルマ叔母上は今日、実に機嫌が悪かった。あの方の婚礼の品を、妊娠済みの側妃の部屋へ流用したと知れば、また公爵家へ馬を飛ばしかねない。
「別のものにしろ」
「どれに」
「それを決めるのが儀典長だろう」
「儀典長は、王妃陛下の御判断を仰ぎたいと」
私は息を吐いた。
フレイアは居ない。ほんの数刻前に出ていったばかりなのに、もうその名前がここに戻ってくる。
「フレイアに使いを」
言いかけると、侍従長の手が動いた。
胸元から、折り畳まれた紙が出る。療養許可状の写しだった。
私の署名がある。母上の確認の印もある。公爵家の封蝋も、端に押されている。
侍従長はそれを机の上に置いた。紙の角が、ぴたりと私の方を向く。
「療養中の王妃陛下への新規執務確認は、禁じられております」
自分の署名とは、こういう時にだけよく目に入る。
黒い線が、ひどく濃く見えた。
「分かった」
私は紙を押し返した。
「王太后に回せ」
「かしこまりました」
侍従長は、ようやく一歩下がった。
そこへ、別の侍従が入ってきた。若い方の侍従で、少し息が上がっている。手には淡い緑の封筒を持っていた。
「陛下、マリーシア様より」
封筒には、小さな花が描かれていた。
マリーシアの手紙はいつも香りがする。甘い香だ。フレイアの書類のように、紙とインクと蝋の匂いだけではない。
封を切ると、中には丸い文字が並んでいた。
――陛下。
――今日はお会いできなくて寂しゅうございます。
――王妃様がご療養に向かわれたと聞きました。
――私、何か悪いことをしてしまったのでしょうか。
――陛下は、王妃様はお優しい方だとおっしゃいました。
――ですから、私もきっと仲良くできると思っておりました。
――お腹の子も、今日はよく動いた気がいたします。
――陛下に早く触れていただきとうございます。
最後の一文で、私は口元をゆるめた。さっきまで机の上にあった面倒な紙が、少し遠くなる。
そうだ。大事なのはそこだ。世継ぎである。
国には子が要る。王家には次代が要る。フレイアに子ができなかった以上、側妃を迎えるのは当然だ。
母上も、そこは分かっている。
イルマ叔母上も、公爵も、手順だの家格だの離宮だのを言うが、子が生まれれば話は変わる。
マリーシアが王子を産めば、王宮は明るくなる。フレイアも、戻ってくればその子を抱くだろう。
彼女は《《仕事のできる女》》だ。子供の洗礼、名付け、乳母の選定、祝いの返礼。そのあたりも、いずれ落ち着けばきちんとやるに違いない。
《《そのためにも》》、少し休ませるのは悪くない。
ああそうだ、弟のアレクは今どのあたりにいただろうか。吉事なのだから呼び戻そう。
「陛下」
若い侍従が、まだ立っていた。
「何だ」
「お返事は」
「ああ」
私は紙を引き寄せた。返事を書くのは嫌いではない。短ければ。
ペンを取る。だが、その前に侍従長が小さく咳をした。
「陛下。王宮医の診断の件でございますが」
「またか」
ペン先のインクが、紙に落ちた。丸い黒点ができる。
「マリーシア様には、明朝、王宮医の診察をお受けいただく必要がございます」
「必要か?」
「必要でございます」
侍従長の声は、いつもより少し固かった。
「御子であると公に扱うためには、王宮医の診断書が要ります」
「私の子だ」
「はい」
「マリーシアがそう言った」
「はい」
「なら、それでよいだろう」
侍従長は、今度はすぐに返事をしなかった。若い侍従の手の中で、緑の封筒が小さく曲がっている。
「何だ」
「診断書がなければ、王太后陛下も、儀典長も、洗礼名の仮記録も、動かせません」
「まだ洗礼の話ではない」
「それでも、記録は始まります」
――記録。
また紙だ! 子が生まれる前から、紙がいる。
誰が父で、誰が母で、母の家格が何で、どの部屋に入り、どの女官が付き、どの医師が見て、どの神官が祈るか。
王家の子なのだから、そういうものだとは分かっている。
だが、あまりにも早い。
マリーシアはまだ三月だと言っていた。腹も目立たない。手を当てれば、彼女は笑って「今、動きました」と言うが、私には分からない。ただ彼女の手が温かく、彼女が嬉しそうにするから、それでよいと思っていた。
「明朝でよいのだな」
「はい」
「なら、マリーシアには私から言う」
「王宮医は、レーヴェ子爵家の記録も必要と申しております」
「伯爵家ではないのか」
言った瞬間、侍従長のまぶたが一度下がった。
それは私も知っている。マリーシアはレーヴェ伯爵家の分家の娘だ。正確には子爵家の娘である。
だが、レーヴェ伯爵家の血筋であることに違いはない。
彼女はいつも、自分のことを《《レーヴェの娘》》と言う。間違いではない。
「本家伯爵家へも、確認の使者が必要でございます」
「好きに出せ」
「誰の名で」
「王宮の名でよい」
「王妃府の名は使えません」
「なら宰相府だ」
「宰相府からは、側妃入内に関わる家格確認は、儀典長と王妃府の共同確認が通例であると」
机の端を叩いた指が、少し強くなった。音が広い執務室に響く。
若い侍従が肩を縮めた。
「通例、通例と、皆そればかりだな」
侍従長は答えない。
「通例にないことが起きれば、誰かが決めるしかないだろう」
「陛下の御裁可を」
私は椅子から立った。
窓の外は、夕方の色になっていた。西の空が赤い。庭の向こう、王妃府へ続く廊下の窓に、同じ色が映っている。
あそこにいつも灯っていた明かりが、今日は少ない。
フレイアが居ないからか。それとも、公爵家へ付き従った者がいるからか。
どちらでもいい。
「本家伯爵家への使者は、王命で出せ。文面は宰相府と儀典長で整えろ。王妃府には回すな」
「かしこまりました」
「南の離宮の窓掛けは、イルマ叔母上の婚礼の品以外から選べ。色は明るいもの。花はマリーシアに合うもの。ただし母上の席と重ねるな」
「かしこまりました」
「王宮医は明朝。マリーシアへは私から伝える」
「かしこまりました」
言ってみれば、簡単なことだ。なぜ皆、これをいちいち紙にしてからでなければ動けないのか。
侍従長は一礼し、若い侍従を連れて下がった。執務室に、一人になる。
いや、部屋の隅には書記官がいる。扉の外には近衛がいる。完全に一人ではない。
だが、机の上の紙を見ても、次に何をすべきか、すぐには手が伸びなかった。
緑の封筒が残っている。マリーシアへの返事を書かねば。
私は新しい紙を取った。
――案ずることはない。
――王妃は少し疲れただけだ。
――そなたは明るくしていればよい。
――明朝、王宮医がそなたを診る。
――私も後で会いに行く。
そこまで書いて、ペンを止めた。
――明朝、王宮医がそなたを診る。
その一文だけ、何か固い。マリーシアは怖がるかもしれない。
私は線を引いて、その行を消す。紙が少し汚れた。
別の紙を出すのも面倒で、そのまま続ける。
――王宮の手続きがある。
――そなたと子のためだ。
これでいい。
署名を入れ、封をする。赤い蝋を垂らすと、小さな丸が紙の上に広がった。
印章を押す。蝋が固まるまで、少し待つ。
その間に、扉の外で足音が止まった。
「陛下」
また侍従長の声だった。私は封書を持ったまま、扉を見た。
「今度は何だ」
「王太后陛下より、今夜の御夕餐は取りやめるとの御沙汰です」
「なぜ」
「王妃陛下の御療養初日ゆえ、宮廷の女官達にも早く下がるように、と」
「母上らしいな」
私は封書を侍従に渡した。
「これをマリーシアへ」
「かしこまりました」
侍従長は封書を受け取りながら、もう一枚の紙を差し出してきた。
「こちらは、王太后陛下から陛下へ」
受け取ると、母上の字があった。短い。
――今夜はマリーシア殿のもとへ行かぬように。
――診断前に余計な憶測を増やすのでない。
――明朝、医師の診断を先に受けさせよ。
私は紙を折った。
……まったく。皆、子ができたことを喜べばよいものを。
マリーシアはきっと、今夜も私を待っている。
あの明るい部屋ではない。まだ王宮の外、レーヴェ子爵家が借りた屋敷の一室だ。
彼女はそこに花を飾り、私が行くたびに椅子を寄せ、自分の腹へ手を当てさせる。
――行かぬように。
母上の字は、いつもより線が太かった。
私はその紙を、机の右端へ置いた。そこには、まだ署名していない書類が三つある。
フレイアなら、どれから見るべきか知っていたのだろう。
私は赤い紐のものを取った。
紐は、思ったより固く結ばれていた。




