19 王妃フレイア――もう帰りたくない
廊下へ出る前に、リーナが私の肩掛けを直した。
灰青の外出着に、白い肩掛け。
王妃として王宮の廊下を歩いてもおかしくなく、けれど馬車で横になっても邪魔にならないもの。
袖口の飾りは外されている。いつもなら銀の小さな留め具が手首で光るはずの場所に、今日は布だけがある。
手首が軽い。それだけで、少し頼りない。
「陛下、足元を」
「ええ」
リーナの手が、私の肘の下に添えられた。
反対側にはお母様がいる。少し後ろにイルマ叔母様。ユストが許可状と診断書を持ち、公爵家の医師セヴランが、私の歩く速さを見ている。
王妃の部屋の扉が開く。廊下に、王宮の者たちが控えていた。
女官。侍従。下働き。文官。見慣れた顔がいくつもある。
毎朝の茶を運ぶ女官。礼拝堂へ花を届ける下働き。昨日、北方伯爵家への返礼品の箱を持ってきた少年。儀典長補佐の若い文官は、南の離宮の見取り図を胸に抱えたまま立っている。
皆が礼を取った。王妃陛下へ。
私は軽く頷いた。いつも通りの角度で。
そうしようとした。けど、首が、少しだけ重かった。
「無理に返さなくていいのよ」
お母様の声が横から来る。
「いいえ」
返事をしてから、少し息を入れる。
ここは王宮だ。私はまだ、王妃だ。――たぶん。
少なくとも、この廊下を出るまでは。
歩き出す。廊下の窓から、庭が見えた。
冬咲きの白い花が、低い籠にまとめられている。今朝、庭師が切っていた花だ。王太后陛下の礼拝堂へ運ばれるはずだった。茎の長さが揃っている。葉も落としてある。あれなら、銀の花瓶にきれいに入る。
……礼拝堂の席順は、今朝出した控えの通りで足りるだろうか。
……王太后陛下の左に誰を置くか。先代王の古い側近だった侯爵夫人は、右側の二列目では機嫌を損ねる。けれど今の王に近い伯爵夫人を下げすぎると、その夫が宰相府で余計なことを言う。
私は足を止めかけた。リーナの手に、少し力が入る。
「陛下」
短い声だった。そこに全部入っていた。
――戻らないでください。
――見ないでください。
――今それを持たないでください。
私は窓から視線を外し、歩く。
次の角を曲がると、王妃府の小さな控え室がある。扉は閉まっていた。
いつもなら、午前の終わりには必ず開いている。女官が出入りし、文箱が運ばれ、誰かが小声で「陛下の確認を」と言う。今日は閉まっている。扉の前に、女官長の配下が一人立っていた。私を見ると、深く礼を取った。
王妃府の仕事は、あの扉の向こうに残っている。
机も。文箱も。手控えも。赤い印のついた施療院の帳面も。
東部の施療院への返事は、午後に回したままだ。薬草代を増やす。布も足す。洗い替えが足りない。
そこまで考えたところで、お母様が私の手を取った。
「フレイア」
声は小さい。
「今は、歩きなさい」
――歩く。
そうだ。今することは、歩くこと。それだけにする。
廊下の床は、よく磨かれている。
五年前、初めてこの廊下を歩いた時、私は裾を踏まないように必死だった。王妃の衣装は重く、靴も硬かった。リーナが後ろで裾を直し、女官長が前を歩き、王太后陛下の部屋までの曲がり角を数えた。
角を三つ。大きな窓を二つ。先代王の肖像の前で、一度礼。
その次の廊下は、少し寒い。
覚えた。全部、覚えた。覚えなければ、誰かが困ると思っていた。
――誰か。
誰だったのだろう?
王太后陛下。陛下。王妃府。儀典長。貴族夫人たち。修道院。施療院。国境伯。大使夫人。
私の名前が出る前に、たくさんの名前が並ぶ。それを全部、抱えていた。
抱えたつもりはなかった。
ただ、目の前に来たものを順番に片づけた。今日の文。明日の礼拝。来週の返礼。月末の寄付。次の茶会。陛下の失言。王太后陛下のご希望。夫人同士の席。
片づけると、また来る。来るから、また片づける。
五年。
片手では足りない夜の数。両手には届かない夜の数。
……それでも子がないと言われた。
……薄い、と言われた。丈夫だから忘れがちだろう、とも。
足が少し遅れた。
今度は、イルマ叔母様が私の前へ少し出た。廊下の先に、王太后陛下の女官が立っていたからだ。
女官は礼を取る。
「王妃陛下。王太后陛下より、どうぞお大事にとのことでございます」
「王太后陛下に、恐れ入りますと」
言葉はすぐ出た。長年、そう返してきたからだ。
女官はもう一度頭を下げた。その手には、礼拝の席順の控えがあった。私の赤い印が見える。今朝の私の字だ。王太后陛下は、今日はそれに従うのだろう。
――よかった。
そう思ってから、足元を見る。よかった、と思うのは、まだ少し早い気がした。よかったと言った分だけ、ここへ紐が残る。
廊下を抜け、西の車寄せへ向かう。正面玄関ではない。裏口でもない。
王妃が療養のために出るには、ちょうどよい場所だった。ユストの選び方だろう。お父様も認めたはずだ。
途中で、南の離宮へ向かう通路が見えた。
明るい通路。庭へ続く大きな窓。
……石段には苔がつきやすい。雨のあとに滑る。身重の女性を入れるなら、先に削った方がいい。香は弱いものに。寝具は柔らかすぎないもの。階段の手すりに布を巻くかどうか。王族用の紋章は外せるものと外せないものがある。
また、手順が並ぶ。頭の中で、勝手に。
私は立ち止まった。
リーナも、お母様も、今度はすぐには動かない。南の離宮へ続く通路を見ていた。
そこへ、マリーシア様が入る。
二十五歳。レーヴェ伯爵家分家の子爵家の娘。
明るく、よく笑う人。陛下の子を宿している人。
私はその人のために、部屋をきちんとさせるはずだった。
……南の離宮に似合う布を選び、伯爵家本家と分家子爵家の間を調整し、王太后陛下に報告し、王宮医を呼び、儀典長と席を決め、陛下に細かいと言われるところまで、たぶん全部するはずだった。
そうすれば、十日後、王宮は何とか形になった。
陛下は、言っただろう。助かった、と。
王太后陛下は、言ったかもしれない。フレイアは細かいところに気がつきますね、と。
私は、また礼を取っただろう。
――そうして、その夜。南の離宮には明かりが入り、私は王妃の部屋へ戻る。
施療院の返事を書き、礼拝の控えを直し、翌日の茶の用意を指示する。
その次の日も。また次の日も。
子が生まれたら、その子の洗礼の席順も考える。
名付けの贈り物も。誰を乳母にするかも。どの家に先に知らせるかも。
私がする。
……私が、することになっていた。
喉の奥に、何かが引っかかった。咳ではない。言葉でもない。
私は南の離宮へ続く通路から視線を外した。
「行きましょう」
自分の声だった。お母様の手が、私の手の甲を一度だけ押した。
「ええ」
車寄せに出る。外の光が、少しまぶしい。
王宮の中は、昼でも光は調節されている。窓を通り、薄い布を通り、鏡に当たって、柔らかくされてから部屋へ入る。
外の光は違う。石畳にも、馬車の金具にも、馬の背にも、そのまま当たる。
公爵家の馬車が待っていた。
紋は隠していない。扉の横に、うちの紋がある。見慣れた紋。嫁ぐ前は、毎日見ていた紋。
今は、どこか遠いもののように見える。
お父様が、馬車の横に立っていた。王宮の廊下で会うと思っていたのに、ここで待っていた。杖を持ち、外套を羽織っている。顔は、いつもの父の顔ではない。公爵の顔だ。
けれど、私を見ると、ほんの少しだけ目元が変わった。
「フレイア」
「お父様」
礼を取ろうとした。父の杖が石畳を打った。
「礼はいい」
「でも」
「食べたな」
私は瞬きをした。
「はい」
「ならよい」
父はそれだけ言った。それだけで、足が少し軽くなる。
馬車へ乗る前に、振り返った。王宮が見える。白い壁。高い窓。
正面ではないから、王宮は少し横顔になっている。五年前、ここへ入った時は正面からだった。大階段。白い花。女官たち。楽の音。重い衣装。陛下の手。
その時の私は、王宮を美しいと思った。怖いとも思った。けれど、美しいと思った。
今日見える王宮は、やはり美しい。美しいものは、時々、とても冷たい。
窓のどこかに、私の部屋がある。机がある。帳面がある。赤いインクの線が残っている。
香棚は閉じた。文箱は封じた。
手控えの鍵は、リーナが持っている。
私の椅子は、たぶんそのままだ。明日、誰かがその椅子を見る。座る人がいないまま。
私はその椅子を思い浮かべ、少しだけ、胸のあたりが詰まった。
五年座った椅子だ。楽だった日は、一日もなかったと思う。
それでも、私の椅子だった。
椅子の肘掛けの右側には、小さな傷がある。最初の年、急いで文箱を置いた時についた傷だ。机の引き出しの奥には、古い席順の控えが一枚残っているかもしれない。窓際の鉢は、水をやりすぎるとすぐ弱る。リーナは知っている。けれど私がいなければ、誰が見るだろう。
――誰かが見る。誰かが見ればいい。私は、もう見ない。
――王宮へは、もう帰りたくない。帰らない。
言葉にしたわけではない。ただ、馬車の扉の前で、そう心は決まった。
父が手を差し出し、その手を取る。
馬車の段を上がる時、膝に力が入らず、リーナとお母様の手が同時に添えられた。恥ずかしいと思う前に、体が座席へ沈んだ。
座席は柔らかすぎない。公爵家の馬車だ。
長い移動で疲れないよう、背を支える形になっている。昔、母と一緒に領地へ向かった時も、この馬車だったかもしれない。違う馬車かもしれない。けれど、背の当たり方は覚えていた。
お母様が隣に座る。向かいにイルマ叔母様。
リーナは扉のそばの補助席に腰を下ろした。手には鍵束と、許可状の写し。籠は足元。焼き菓子と薄いクラッカーの匂いが、少しだけした。
父は馬車の外でユストに何か言っている。言葉は聞こえない。
聞こえないけれど、ユストがすぐに頭を下げた。
父が決め、ユストが動く。公爵家のいつもの動きだ。
扉が閉まる。馬車の中が、少し暗くなった。
外で蹄の音がする。車輪が動き出す前に、お母様が私の肩掛けを直しました。
「寒くない?」
「大丈夫です」
「そう」
お母様は、それ以上言わなかった。イルマ叔母様が、窓の外を見ています。
「王宮の門を出るまで、少し揺れるわ」
「はい」
「気分が悪くなったら、すぐ言いなさい」
「はい」
リーナが小さな水筒を差し出しました。
「一口だけでも」
受け取ると水は少しぬるい。
冷たすぎないようにしてくれたのだろう。喉を通る。今朝の銀の杯の水より、飲みやすかった。
馬車が動いた。車輪が石畳を越える。
ごとん、と小さな揺れ。王宮の壁が窓の向こうを流れていく。
この道を、私は何度も通った。
王妃として、礼拝へ。式典へ。夫人たちの茶会へ。王太后陛下の馬車を見送りに。
今日は、療養のため。国王陛下の署名入りで。王太后陛下の確認を持って。公爵家の馬車で。
王宮の門が近づく。門番が礼を取る。馬車は止まらない。
通る。
門の影に入った時、車内が一瞬暗くなる。影を抜けると、外の光がまた戻り―― 王宮の外だった。
私は窓から王宮を見ようとした。馬車が曲がり、白い壁が後ろへ流れた。
見えるのは、門の上の紋だけ。それも、角を曲がると見えなくなる。
肩の力が、そこで抜けた。
抜けるというより、どこかから糸を一本ずつ外されたようだった。
背中が座席に沈む。膝の上に置いた手が、少し横へずれた。
「フレイア」
お母様の声。
「少し眠りなさい」
「まだ」
「まだ、はもういいの」
その声が、幼い頃と同じだった。
風邪を引いた時。夜更かしして本を読んでいた時。刺繍を仕上げたいと言って、灯りを消さなかった時。
まだ、と言う私に、母はいつも同じように言った。
――まだ、はもういいの。
私は返事をしようとしたけど、言葉は出なかった。
馬車の揺れが、背中から伝わる。外の音が遠くなる。
蹄の音。車輪の音。リーナが布を畳む音。
イルマ叔母様が小さく何かを言い、お母様が短く答える声。
膝の上に、父の手紙がある。
――食べなさい。
文字が、瞼の裏に残っていた。
――王宮へは、帰らない。もう帰らない。
そう思ったところで、馬車がもう一度だけ揺れた。
今度は、体が逆らわなかった。




