18 ディート公爵夫人――よく見るがよろしい
「衣装は、馬車に乗りやすいものを。重い裾は避けて」
「はい。灰青の外出着を」
「よいでしょう。髪はほどかず、飾りだけ外して。王妃陛下として王宮を出るのです。病人のように見せる必要はありません」
「承知いたしました」
「ただし、歩かせません」
ここで私は王宮医を見ました。
「担架は大げさです。けれど、長く歩かせるのもいけません。王妃陛下用の軽い椅子を用意してください」
王宮医が女官へ目で合図をしました。
「すぐに」
若い女官が動きます。
扉の外で、また何かの声がしました。リーナが顔を上げます。私は手を上げました。
「私が聞きます」
扉を開けると、王妃府の下働きが立っていました。手に、小さな箱を持っています。
「南の離宮へ運ぶ予定だった香炉を、どこへ戻せばよいかと」
リーナの目が、すっと細くなりました。私は箱を見ます。小さな香炉。フレイアの嫁入りの品です。
私の実家から受け継いだ、銀細工のもの。
その箱が、なぜすでに扉の外にあるのですか。
「誰が運ぶように言いました」
下働きの子は、箱を抱えたまま固まりました。
まだ若い子です。十五か十六でしょう。責める相手ではありません。責める相手ではありませんが、聞かなくてはなりません。
「南の離宮の支度係の方が、見本に、と」
「名前は」
「……エルダ様です。女官長補佐の」
「分かりました。箱をこちらへ」
その子はすぐに差し出しました。手が少し震えています。
私は箱を受け取り、蓋を開けました。香炉は無事です。布も乱れていません。まだ使ってはいない。
よろしい。間に合いました。
「あなたは悪くありません」
下働きの子の肩が少し下がりました。
「ただ、これから王妃陛下の私物に触れる時は、必ずリーナを通しなさい」
「はい」
「エルダ女官補佐には、私が話します」
その子は顔色を変えました。
かわいそうに。王宮では、上の者の失敗も下の者の胃に来るのです。
「あなたの名前は」
「ミアでございます」
「ミア。今日はよく戻しました」
ミアの目が丸くなりました。
「箱を持って行ってしまう前に、ここへ来たのでしょう」
「はい。リーナさんに、王妃陛下のものは一度見せるようにと、前から」
「よろしい。戻って、同じことを続けなさい」
「はい」
ミアは礼をして下がりました。扉を閉じます。
香炉の箱を持ったまま、私はしばらく立っていました。
まだ始まったばかりで、もうこれです。
香袋。香炉。
次は寝具でしょうか。燭台でしょうか。壁掛けでしょうか。
馬鹿なのですか。いえ、馬鹿でしたね。
王も、王宮も。
「お母様」
フレイアの声がしました。私は箱をリーナへ渡しました。
「鍵のかかる箱へ」
「はい」
フレイアがこちらを見ています。顔に、疲れと、申し訳なさが混じっている。
申し訳なさ。ここでそれを出すのですか。さすがに、私は少し崩れそうです。
「やめなさい」
声が、母の声になりました。
「あなたがそんな顔をするところではありません」
フレイアの目が揺れます。
「でも、皆が……」
「皆が何ですか」
言葉がきつくなってしまいます。分かっております。けれど、止めません。
「皆が困る? 皆が忙しい? 皆があなたの代わりに動かなくてはならない? 当たり前です。今まであなたが一人で持っていたものを、今、皆に返しているだけです」
フレイアは椅子の肘掛けに手を置きました。
その手が細い。腹が立つ。
「あなたがいなくても回るのか、王宮は試せばよろしいのです」
「お母様」
「試せばよろしい」
もう一度言いました。イルマ殿下が、横で小さくうなずきます。
「王妃陛下が倒れずに済むようにきちんとさせるのが王宮です。王妃陛下を倒れるまで使うのは、王宮ではございません」
「イルマ叔母様」
「前例にもありません」
イルマ殿下は静かに言いました。この方の《《前例は》》、本当によく効きます。
フレイアは、そこで少しだけ目を伏せました。
泣くためではありません。考えるためです。だから待ちます。今度は、誰も急かしません。
セヴラン医師は診断書を書き終え、王宮医も署名を入れました。
リーナが支度を始めます。若い侍女たちが入ってきて、衣装箱を開けます。灰青の外出着が出されました。布地は軽く、裾さばきがよいものです。
針子のオルガが呼ばれ、袖口の飾りを外します。
「馬車で引っかかります」
「外して」
「はい」
オルガの指は速く、糸を切る刃も小さい。飾りは布に包んで、別の小箱へ。
髪飾りも外されます。王妃としての飾りは最小限に。けれど、崩さない。
王宮を出るのです。逃げるのではありません。療養に向かうのです。
国王陛下の許可を得て。王太后陛下の確認を得て。医師の診断を持って。公爵家が迎えに来て!
この形は大事です。
形に泣かされてきたのなら、形で守ります。
「奥様」
リーナが小声で言いました。
「王妃陛下の文箱は」
「持って帰ります」
「王妃府の控えも混じっております」
「公文は置いていきなさい。私信、家の文、私的な手控えは持って帰ります」
「手控えは、王妃府の仕事に関わるものもございます」
私は少し考えました。
フレイアの手控え。それを持ち帰れば、王宮は困るでしょう。
置いていけば、王宮は使うでしょう。フレイアを戻すために。
または、フレイアの名で仕事を進めるために。
「写しを作らせる時間はありませんね」
「ございません」
「では、封をして置いていきます」
リーナがこちらを見ました。
「王妃陛下の許可なく開けてはならない、と」
「ええ。鍵は持ち帰ります。箱は王妃府に置く。開けるには王妃陛下の許可が要る。そうすれば、王宮は箱を見ながら困ります」
イルマ殿下が、そこで少しだけ笑いました。
「義姉上、それは素晴らしいです!」
「そうでしょう!」
フレイアが、ほんの少しこちらを見ました。
「困らせるため?」
「守るためです」
私は即答しました。
「同じことに見える時もございます」
フレイアの唇が、また少しだけ動きました。今度は、少し笑ったのかもしれません。
よろしい。それで。
「奥様、馬車の用意が整いました」
ユストが戻ってきました。
「揺れの少ない馬車を正面ではなく、西の車寄せへ。人目は少なく、けれど裏口ではございません」
「よろしい」
「公爵閣下は、王宮の写しを受け取っておられます」
「国王陛下は」
「ご自室へ。王太后陛下がお話し中です」
それは見ものですね。――とは言いません。
言いませんが、顔には少し出たかもしれません。
「では、支度を終えましょう」
フレイアの外出着が整いました。
リーナとオルガが両側から支えます。フレイアは立とうとして、まず椅子の肘掛けに手を置きました。
手が細い。
私はその手の反対側に立ちました。
「ゆっくり」
「大丈夫です」
「ええ。大丈夫にします」
フレイアが私を見ました。私は娘の腰の後ろへ手を添えます。
立ち上がる。少しだけ、体が揺れました。
リーナの手がすぐ支えます。オルガも反対側を持つ。セヴラン医師が近づき、歩く前に一度座るよう言おうとしました。
フレイアは立っていました。
……細い。
けれど、立っています。王妃として立っている。
母としては、すぐ座らせたい。
けれどここは王宮です。この子が王宮を出る姿を、王宮に見せなくてはなりません。
「行きましょう」
私は言いました。フレイアが、小さくうなずきました。
リーナが許可状を持ちます。ユストが診断書を持ちます。イルマ殿下が先に扉へ向かいます。
私はフレイアの隣に立ちました。
扉が開きます。
廊下の向こうに、王宮の者たちが控えておりました。
女官、侍従、下働き、文官。
誰も大きな声は出しません。けれど、皆が見ています。
よく見るがよろしい! これが、あなたたちが「大丈夫」と思っていた王妃です。
そして今から、公爵家が連れて帰ります。




