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「側妃を迎える。準備は王妃府で」そう告げた王は、二ヶ月後、王座を失いました。  作者: さんけい


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17 ディート公爵夫人――大げさではありません

 フレイアの部屋へ入った時、まず碗が目に入りました。

 空でした。

 白磁の碗です。王妃の昼食に使うには、軽すぎるほどのもの。

 けれど今は、それでよろしいのです。銀器は美しい。美しいけれど、疲れた手には重い。

 リーナがこちらを見ました。手には鍵。机には許可状。棚は閉じられております。

 あの子は、よく守っておりました。

 私はうなずいてから、椅子に座る娘を見ました。見てしまいました。

 化粧で隠したはずの目の下が、もう薄く沈んでおります。頬の線が、嫁いだ日の記憶よりずいぶん細い。

 髪はきちんと結われております。衣装も乱れてはおりません。胸元のレースも、袖口の飾りも、王妃として人前に出られるようきちんとしています。

 きちんとしているから、余計に腹が立ちました。

 この子は、ここまで削れても、まずきちんとしてしまうのです。

 誰のために? 何のために?


「お母様」


 フレイアが私を呼びました。声は、まだ王妃の声でした。

 母を見ているのに、部屋に医師がいるからでしょう。イルマ殿下がいらっしゃるからでしょう。王宮の壁があるからでしょう。

 ああ、本当に! 腹が立つ!


「フレイア」


 私は籠をリーナに渡し、娘のそばへ行きました。王妃陛下への礼を先に取ります。

 それから、母として膝を折りました。

 順番は守ります。守りますとも。守るべきものを守るために、礼儀はあるのですから。


「よく、食べましたね」


 フレイアは、ほんの少しだけ目を伏せました。


「お父様が、食べなさいと」

「ええ。あの人は、こういう時にそれしか書けないのです」

「短かったわ」

「短いでしょう。あれでも、たぶん三行は削っています」


 フレイアの口元が、少しだけ動きました。

 笑うというほどではありません。けれど、唇の端がゆるむ。幼い頃、父親に叱られたあとで、犬が足元に寄ってきた時と同じ動きでした。

 私はその顔で、また腹が立ちました。

 この子がこういう顔をするまで、王宮は何をしていたのか。

 セヴラン医師が手を洗い終え、白い布で指を拭いております。王宮医も隣に立っていました。

 二人並ぶと、違いがよく分かります。王宮医は衣装がよい。セヴランは鞄が使い込まれている。薬瓶の角が布に擦れて、革に薄い跡がついていました。

 私はセヴランを見ました。


「診てください」

「はい、奥様」


 フレイアが身を起こしかけます。私はその肩へ手を添えました。


「そのままで」

「お母様」

「診察です。立つ必要はありません」


 言ってから、王宮医を見ました。


「王宮医殿も、それでよろしいですね」

「はい。王妃陛下は、そのままで」


 いいですね、言わせました。

 フレイアは椅子の背に、もう一度体を預けました。預けた、というより、肩が少し後ろへ落ちました。椅子の布が、かすかに沈みます。

 セヴランは手首に触れました。脈を見る指は、昔から同じです。

 彼は数字より先に、手の冷たさを見る。次に爪。次に目。喉。呼吸。言葉の間。余計な慰めは言いません。

 フレイアの手首は細くなっていました。

 嫁ぐ前から細い子でした。けれど、これは違います。骨の上に皮膚が張り、そこへ王妃の袖が乗っている。

 私は扇を持ってくればよかったと、また思いました。

 ……何かを折りたかった。扇でも、紙でも、王の首でも。


「奥様」


 イルマ殿下の声が横から来ました。見透かされたのでしょう。


「顔に出ています」

「失礼いたしました」

「いいえ。出してよろしいお顔です」


 王宮医が一瞬こちらを見ました。

 よろしいのです。あなたも見なさい。王妃が、どんな顔色でここに座っているか。

 セヴランがフレイアの手を布の上へ戻しました。


「睡眠は」


 フレイアが答える前に、リーナが少し前へ出ました。


「昨夜は、二刻ほどでございます。北方伯爵家への返礼品の確認がございました。今朝は夜明け前に、王太后陛下の礼拝の席順を確認なさいました」


 セヴランがうなずきます。


「食事は」

「朝は粥を半分ほど。昼は、ただいまの卵と鶏のスープを」

「吐き気は」

「朝、香で少し……」


 フレイアが小さく言いました。


「香?」


 私は思わず聞き返しました。リーナが答えます。


「陛下が今朝お越しになった際、甘い香油を」


 私は目を閉じました。閉じなければ、口から出てはいけない言葉が出てしまいそうでした。

 そして開けると、イルマ殿下が静かにこちらを見ておりました。


「お母様?」


 フレイアが呼びます。


「大丈夫です」


 嘘です。けれど今は、この子を不安にさせる言葉は使いません。

 セヴランは王宮医へ目を向けました。


「王妃陛下は、過労と強い心労の状態と見ます。数日は完全に執務を離し、睡眠と食事を戻す必要があります。移動は、本日中でも可能。ただし馬車は揺れの少ないものを。途中で休憩を入れます」


 王宮医が少し考えました。


「私も同じ見立てです。それなら王妃陛下は王宮内で静養されても――」

「王宮内では静養になりません」


 私が言いました。王宮医の口が止まります。


「失礼。続けてください」


 王宮医は、少しだけ頭を下げました。


「……王妃陛下のご負担となるものを遠ざける必要があります。公爵家での療養は、妥当かと」


 よろしい。妥当。その言葉、いただきました。


「では、診断書を」


 セヴランが鞄から紙を出しました。準備してあります。さすがです。

 王宮医も、女官へ紙を求めました。王宮の紙で、王宮医の診断書が書かれます。

 リーナが許可状の横に場所を空けました。

 机の上で、診断書が二通並びます。フレイアはそれを見ていました。


「……そんなに、大げさな」

「大げさではありません」


 今度は私が即座に言いました。おっと、強くなりました。でも構いません。


「大げさではありません。あなたは休むのです。医師がそう書きます。国王陛下も、王太后陛下も、許可しました。公爵家も迎えます」

「でも」

「でも、ではありません」


 フレイアの目が揺れました。母に叱られた子供の顔が、ほんの少し戻ります。

 ああ。この顔を私は知っています。

 十歳の時、庭で犬と走って転んだ時の顔。十六の時、白い手袋を片方失くした時の顔。十八で嫁ぐ前夜、荷物の目録を最後まで確認しようとして、眠いのに意地を張っていた時の顔。

 王妃陛下ではなく、私の娘の顔です。


「フレイア」


 私は膝をついたまま、娘の手に触れました。

 王妃の手です。けれど、母の前では娘の手です。


「あなたは、今日、帰るのですよ」


 指の下で、フレイアの手が少し動きました。


「帰る」

「ええ。公爵家へ」

「療養で」

「療養で」


 そこは合わせます。今は、その名が必要です。


「お父様は」

「待っています。怒っています。あなたのことではありません。念のため言っておきますが、本当に、あなたのことではありません」


 フレイアは、また少しだけ唇を動かしました。


「分かっているわ」

「いいえ。分かっていても、もう一度言います。あなたのせいではありません」


 部屋の中で、リーナが顔を伏せました。イルマ殿下も何も言いません。

 フレイアの指が、私の手の下でゆっくり曲がりました。

 握り返すには弱い。けれど、触りました。それで足ります。

 今は。


「リーナ」

「はい」

「支度を」

「すでに始めております」


 リーナの返事は速うございました。頼もしいことです。


「薬箱、私用の文箱、公爵家の紙、香棚の鍵、嫁入り時の宝石箱、普段使いの衣装を二着。王妃府の公文は置いていきます。今日以降の新規執務は受けません」

「よろしい」


 私は立ち上がりました。膝が少し痛みました。年ですね。腹立たしい。

 ……怒っている時くらい、体も若く戻ればよろしいのに。



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