16 王妃付き侍女リーナ――「困ればよろしいのです」
フレイア様は、匙を碗へ戻しました。
今度は食べ終えたからです。
よかった。まず食べ終えた。
「……そうね」
「はい」
扉の外で、今度は別の声がしました。宰相府の書記です。
私は本当に、今日ほど扉に鍵をかけたいと思ったことはございません。ですが、鍵をかければ、それはそれで騒ぎになる。ですから、扉は私が開けます。
「王妃陛下へ、宰相府より。マリーシア様の家格について、王妃陛下のご確認を」
「王妃陛下は療養に入られます」
「一筆だけで結構でございます。伯爵家令嬢として扱うか、子爵家令嬢として扱うか。王妃陛下のご判断があれば、こちらで」
「ございません」
書記は目を瞬かせました。
「は」
「《《王妃陛下のご判断は、ございません》》」
「しかし」
「側妃入内の準備は、王宮側で行うことになりました。国王陛下のご署名、王太后陛下のご確認がございます。家格については、宰相府、儀典長、王太后陛下でご判断くださいませ」
書記は、手元の紙を見ました。おそらく、空欄があります。
王妃陛下確認。そこに署名をもらえば、後で何かあった時に王妃陛下の判断にできます。
そうはいきません。
「ですが、王妃陛下が確認なさらないと、後で」
「後で」
私は繰り返しました。書記が口を閉じます。
「後で困る方がいらっしゃるのでしたら、その方が今お決めくださいませ」
書記の喉が動きました。
「王妃陛下は、今日から療養されます」
写しをもう一度見せます。今度は、側妃入内の準備は王宮側にて行う、の行を指で押さえました。
「この行を、宰相閣下へお見せください」
「承知、いたしました」
書記は下がりました。
廊下の向こうで、誰かが小声で何かを言いました。聞き取れません。聞き取る必要もありません。こちらには紙があります。紙がある時の王宮は、急に物分かりがよくなります。
部屋へ戻ると、フレイア様が椅子に深く座っておられました。椅子の背に、少しだけ体重を預けておられます。
普段なら、背は離したままです。いつでも立てるように。いつでも文を受け取れるように。いつでも礼を取れるように。
今は背がついている。いいのです。もっとつけてください。
椅子の方も、しっかり王妃陛下のお身体を支えなさい。
「リーナ」
「はい」
「皆、困るでしょうね」
「困ります」
私はすぐ答えました。
「《《困ればよろしいのです》》」
フレイア様が私を見ました。少しだけ、目が丸くなりました。
私は礼をしました。
「失礼いたしました」
「いいえ」
フレイア様は、父君の文をもう一度見ました。
――食べなさい。
その短い行を、指で押さえています。
「困らせるつもりは」
「陛下」
私は膝を折りました。今度は、きちんと目の高さを下げて申し上げます。
「困ることを、これまで陛下が先に困ってくださっていただけでございます」
フレイア様の指が、紙の端で止まりました。
「席順で困るはずだった方。返礼で困るはずだった方。贈答の格で困るはずだった方。王太后陛下の礼拝で困るはずだった方。国王陛下の言い間違いで困るはずだった方。皆、陛下の机へ持ってきました」
そこで一度、言葉を切りました。羅列になってはいけません。
これは、フレイア様が五年してきたことです。並べて殴るのではなく、一つずつ、あったこととして置かなくてはなりません。
「今朝も、そうでございました。十日後に側妃様を迎える。そのために、南の離宮をきちんとさせ、身重の方に合う香を選び、家格の違いを埋め、王宮医を呼ぶ。困る前に、すべて陛下へ来ました」
フレイア様は、黙って聞いておられました。これは返事を待つ場面です。
私は待ちました。
窓の外で、庭師の鋏の音がしました。白い花を切っているのでしょう。
「……でも」
フレイア様の声が出ました。
「誰かがしなければ」
「はい」
私はうなずきました。
「《《誰かがいたします》》」
フレイア様の視線が動きます。
「陛下ではない、誰かが」
言葉を置くと、部屋の中の物が急に見えました。
机。帳面。封蝋。鍵をかけた香棚。食べ終わった碗。父君の短い手紙。国王陛下の署名入りの許可状。
ここにあるもの全部が、今日はそのためにあります。フレイア様を仕事から離すために。
扉の外で、また人の気配がしました。若い侍女が顔を出します。
「リーナさん。王太后陛下のお側より、王妃陛下の診察のため、王宮医が」
「公爵家の医師は」
「ご一緒です」
私はフレイア様を見ました。フレイア様は椅子の背から身を起こそうとなさいました。
「陛下」
私は椅子の横へ行きました。
「そのままで」
「医師が」
「診察ですので、そのままでよろしいのです」
医師の前でまで、王妃陛下の形をきちんとさせる必要はありません。
ユストが扉を開けました。王宮医と、公爵家の医師セヴランが入ってまいります。王宮医は少し急いだ顔。セヴランはいつもの顔です。まず手を洗う水を求めました。
そうです、その調子。医師はそうでなくては。
診察の支度をしていると、廊下の向こうが少し騒がしくなりました。
足音が二つ。ひとつは公爵夫人。もうひとつは、イルマ殿下。
私は扉へ向かいました。開ける前に、手袋の中で鍵を確かめます。香棚の鍵。小さく、固い。
扉を開けました。
公爵夫人が立っておられました。後ろにイルマ殿下。お二人とも、王宮へ来る装いをきちんとさせておられます。けれど顔は、母と叔母のものでございました。
公爵夫人の手には、小さな籠があります。焼き菓子と薄いクラッカーの匂いがしました。
「リーナ」
「奥様」
公爵夫人は、私の手元を見ました。
許可状。香棚の鍵。食べ終わった碗。
それだけで、だいたいお分かりになったのでしょう。
「よく守りました」
その一言で、喉の奥が詰まりました。けれど、ここで泣く場面ではありません。
泣けば、フレイア様がこちらを気にされます。私は頭を下げました。
「まだでございます」
公爵夫人は、少しだけ頷きました。
「ええ。まだです」
イルマ殿下が、私の横から部屋の中をご覧になりました。
フレイア様は椅子に座っておられます。王宮医とセヴラン医師が、その前に控えている。
机には許可状。棚には鍵。碗は空。
イルマ殿下は、まずその碗を見て、それからフレイア様を見ました。
「食べたのね」
声が、少しだけ柔らかくなりました。フレイア様が、小さく頷かれます。
「お父様が、食べなさいと」
「ええ。あの人らしいわ」
公爵夫人が、籠をリーナに渡しました。
「あとで少しずつ。急がせないで」
「承知いたしました」
イルマ殿下は部屋へ入り、フレイア様の前で立ち止まりました。
王妃陛下への礼。それから、叔母として膝を折る。順番を間違えない。
それを見て、私の中の熱が少しだけ下がりました。
礼儀とは、本来こういうものです。人を縛るためではなく、守るためにあるものです。
フレイア様の手が、椅子の肘掛けに置かれていました。
イルマ殿下が、その手の近くへご自分の手を置きます。触れるか触れないかの距離です。王妃陛下としての距離と、叔母としての距離の、ちょうど間。
「フレイア」
イルマ殿下が呼びました。
「前例は確認しました」
フレイア様の目が、ゆっくり上がります。
「これは、前例ではありません」
その言葉が、部屋の床へ置かれました。私は籠を持ったまま、扉の前に立っておりました。
廊下の向こうから、また誰かが来る気配がします。
来るなら来ればよろしい。こちらには許可状があります。鍵があります。医師がいます。公爵夫人がいます。イルマ殿下がいます。
そしてフレイア様は、碗を空にされました。




