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「側妃を迎える。準備は王妃府で」そう告げた王は、二ヶ月後、王座を失いました。  作者: さんけい


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16 王妃付き侍女リーナ――「困ればよろしいのです」

 フレイア様は、匙を碗へ戻しました。

 今度は食べ終えたからです。

 よかった。まず食べ終えた。


「……そうね」

「はい」


 扉の外で、今度は別の声がしました。宰相府の書記です。

 私は本当に、今日ほど扉に鍵をかけたいと思ったことはございません。ですが、鍵をかければ、それはそれで騒ぎになる。ですから、扉は私が開けます。


「王妃陛下へ、宰相府より。マリーシア様の家格について、王妃陛下のご確認を」

「王妃陛下は療養に入られます」

「一筆だけで結構でございます。伯爵家令嬢として扱うか、子爵家令嬢として扱うか。王妃陛下のご判断があれば、こちらで」

「ございません」


 書記は目を瞬かせました。


「は」

「《《王妃陛下のご判断は、ございません》》」

「しかし」

「側妃入内の準備は、王宮側で行うことになりました。国王陛下のご署名、王太后陛下のご確認がございます。家格については、宰相府、儀典長、王太后陛下でご判断くださいませ」


 書記は、手元の紙を見ました。おそらく、空欄があります。

 王妃陛下確認。そこに署名をもらえば、後で何かあった時に王妃陛下の判断にできます。

 そうはいきません。


「ですが、王妃陛下が確認なさらないと、後で」

「後で」


 私は繰り返しました。書記が口を閉じます。


「後で困る方がいらっしゃるのでしたら、その方が今お決めくださいませ」


 書記の喉が動きました。


「王妃陛下は、今日から療養されます」


 写しをもう一度見せます。今度は、側妃入内の準備は王宮側にて行う、の行を指で押さえました。


「この行を、宰相閣下へお見せください」

「承知、いたしました」


 書記は下がりました。

 廊下の向こうで、誰かが小声で何かを言いました。聞き取れません。聞き取る必要もありません。こちらには紙があります。紙がある時の王宮は、急に物分かりがよくなります。

 部屋へ戻ると、フレイア様が椅子に深く座っておられました。椅子の背に、少しだけ体重を預けておられます。

 普段なら、背は離したままです。いつでも立てるように。いつでも文を受け取れるように。いつでも礼を取れるように。

 今は背がついている。いいのです。もっとつけてください。

 椅子の方も、しっかり王妃陛下のお身体を支えなさい。


「リーナ」

「はい」

「皆、困るでしょうね」

「困ります」


 私はすぐ答えました。


「《《困ればよろしいのです》》」


 フレイア様が私を見ました。少しだけ、目が丸くなりました。

 私は礼をしました。


「失礼いたしました」

「いいえ」


 フレイア様は、父君の文をもう一度見ました。


 ――食べなさい。


 その短い行を、指で押さえています。


「困らせるつもりは」

「陛下」


 私は膝を折りました。今度は、きちんと目の高さを下げて申し上げます。


「困ることを、これまで陛下が先に困ってくださっていただけでございます」


 フレイア様の指が、紙の端で止まりました。


「席順で困るはずだった方。返礼で困るはずだった方。贈答の格で困るはずだった方。王太后陛下の礼拝で困るはずだった方。国王陛下の言い間違いで困るはずだった方。皆、陛下の机へ持ってきました」


 そこで一度、言葉を切りました。羅列になってはいけません。

 これは、フレイア様が五年してきたことです。並べて殴るのではなく、一つずつ、あったこととして置かなくてはなりません。


「今朝も、そうでございました。十日後に側妃様を迎える。そのために、南の離宮をきちんとさせ、身重の方に合う香を選び、家格の違いを埋め、王宮医を呼ぶ。困る前に、すべて陛下へ来ました」


 フレイア様は、黙って聞いておられました。これは返事を待つ場面です。

 私は待ちました。

 窓の外で、庭師の鋏の音がしました。白い花を切っているのでしょう。


「……でも」


 フレイア様の声が出ました。


「誰かがしなければ」

「はい」


 私はうなずきました。


「《《誰かがいたします》》」


 フレイア様の視線が動きます。


「陛下ではない、誰かが」


 言葉を置くと、部屋の中の物が急に見えました。

 机。帳面。封蝋。鍵をかけた香棚。食べ終わった碗。父君の短い手紙。国王陛下の署名入りの許可状。

 ここにあるもの全部が、今日はそのためにあります。フレイア様を仕事から離すために。

 扉の外で、また人の気配がしました。若い侍女が顔を出します。


「リーナさん。王太后陛下のお側より、王妃陛下の診察のため、王宮医が」

「公爵家の医師は」

「ご一緒です」


 私はフレイア様を見ました。フレイア様は椅子の背から身を起こそうとなさいました。


「陛下」


 私は椅子の横へ行きました。


「そのままで」

「医師が」

「診察ですので、そのままでよろしいのです」


 医師の前でまで、王妃陛下の形をきちんとさせる必要はありません。

 ユストが扉を開けました。王宮医と、公爵家の医師セヴランが入ってまいります。王宮医は少し急いだ顔。セヴランはいつもの顔です。まず手を洗う水を求めました。

 そうです、その調子。医師はそうでなくては。

 診察の支度をしていると、廊下の向こうが少し騒がしくなりました。

 足音が二つ。ひとつは公爵夫人。もうひとつは、イルマ殿下。

 私は扉へ向かいました。開ける前に、手袋の中で鍵を確かめます。香棚の鍵。小さく、固い。

 扉を開けました。

 公爵夫人が立っておられました。後ろにイルマ殿下。お二人とも、王宮へ来る装いをきちんとさせておられます。けれど顔は、母と叔母のものでございました。

 公爵夫人の手には、小さな籠があります。焼き菓子と薄いクラッカーの匂いがしました。


「リーナ」

「奥様」


 公爵夫人は、私の手元を見ました。

 許可状。香棚の鍵。食べ終わった碗。

 それだけで、だいたいお分かりになったのでしょう。


「よく守りました」


 その一言で、喉の奥が詰まりました。けれど、ここで泣く場面ではありません。

 泣けば、フレイア様がこちらを気にされます。私は頭を下げました。


「まだでございます」


 公爵夫人は、少しだけ頷きました。


「ええ。まだです」


 イルマ殿下が、私の横から部屋の中をご覧になりました。

 フレイア様は椅子に座っておられます。王宮医とセヴラン医師が、その前に控えている。

 机には許可状。棚には鍵。碗は空。

 イルマ殿下は、まずその碗を見て、それからフレイア様を見ました。


「食べたのね」


 声が、少しだけ柔らかくなりました。フレイア様が、小さく頷かれます。


「お父様が、食べなさいと」

「ええ。あの人らしいわ」


 公爵夫人が、籠をリーナに渡しました。


「あとで少しずつ。急がせないで」

「承知いたしました」


 イルマ殿下は部屋へ入り、フレイア様の前で立ち止まりました。

 王妃陛下への礼。それから、叔母として膝を折る。順番を間違えない。

 それを見て、私の中の熱が少しだけ下がりました。

 礼儀とは、本来こういうものです。人を縛るためではなく、守るためにあるものです。

 フレイア様の手が、椅子の肘掛けに置かれていました。

 イルマ殿下が、その手の近くへご自分の手を置きます。触れるか触れないかの距離です。王妃陛下としての距離と、叔母としての距離の、ちょうど間。


「フレイア」


 イルマ殿下が呼びました。


「前例は確認しました」


 フレイア様の目が、ゆっくり上がります。


「これは、前例ではありません」


 その言葉が、部屋の床へ置かれました。私は籠を持ったまま、扉の前に立っておりました。

 廊下の向こうから、また誰かが来る気配がします。

 来るなら来ればよろしい。こちらには許可状があります。鍵があります。医師がいます。公爵夫人がいます。イルマ殿下がいます。

 そしてフレイア様は、碗を空にされました。



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