15 王妃付き侍女リーナ――王家には渡さない
王妃陛下のお昼は、卵と鶏のスープになりました。
厨房が急いで作ったものです。肉を裂き、卵を細く流し、塩を少し強めにしてあります。
いつもの王妃陛下用の銀器ではなく、軽い白磁の椀にしてもらいました。銀器は美しいのですが、手が重い時には向きません。
フレイア様は匙を持ちました。
――一口。
それだけで、私は少しほっとしました。
匙を置く位置が、椀から遠くありません。まだ戻せます。まだ、こちらへ手を伸ばしてくださいます。
「リーナ」
「はい」
「お父様からは」
「まだでございます」
そう申し上げた時、廊下の向こうで足音が変わりました。
王妃府の者ではありません。王太后陛下のお側の者でも、宰相府の者でもない。もう少し靴音が低い。床を踏む前に、歩く場所を決めている。公爵家の者です。
扉の外に控えていた若い侍女が、こちらを見ました。
「通して」
「はい」
扉が開きます。入ってきたのは、ユストでした。
公爵家の家令です。王宮の廊下に立っていても、まるで公爵家の玄関広間にいるような顔をしています。いいえ、あの顔でなくては困ります。王宮に呑まれる者を、今日は一人も増やしたくありません。
ユストは扉の内側で深く礼を取りました。
「王妃陛下」
「ユスト」
フレイア様の声が、少しだけ動きました。それだけで、来た意味があります。
ユストは銀盆を持っておりました。盆の上には、封をされた文が二通。ひとつは小さく、ひとつは王宮の正式な紙です。
「ディート公爵閣下より、こちらを」
まず小さい方が差し出されました。フレイア様の手が伸びます。
封は簡素です。公爵家の紋が小さく押してあるだけ。私は横から見ておりました。父親から娘へ出すには、これで充分な文です。
フレイア様は封を開けました。中は短い。
――受け取った。
――読んだ。
――イルマ殿下へ伺う。
――食べなさい。
フレイア様は、最後の行を見たまま、匙を取りました。スープをもう一口、口に運ばれます。
私はその椀を見ておりました。
湯気がまだ上がっている。よかった。温かいうちに二口目が入った。
ユストは次に、王宮の紙を差し出しました。
「こちらは、国王陛下のご署名、王太后陛下のご確認をいただいております。王妃陛下のご療養に関する許可状でございます」
フレイア様の手が、そこで止まりました。
匙は椀の中に戻りました。音はほとんどありません。白磁に金属が触れただけの、小さな音でした。
「許可状」
「はい」
ユストは紙を開きました。私は一歩近づきます。
国王陛下の署名がありました。その下に、王太后陛下の確認の文と印。
紙の端はまだ新しい。インクの乾き方も新しい。ほんの少しだけ砂が残っております。先ほど書かれたものです。
読めば、内容ははっきりしていました。
――王妃陛下フレイアは、体調不良につきディート公爵家にて静養を許される。
――期間は医師の診断に従う。
――療養中、王妃府の新規執務を命じない。
――側妃入内の準備は、王宮側にて行う。
私は、そこで手袋の中の指を曲げました。布が爪に当たります。
よかった。本当に、よかった。
国王陛下のお言葉は、紙の上のものになりました。王太后陛下も確認なさいました。
これで、廊下の向こうから来る「確認だけでございます」を、紙で受けられます。
「陛下」
私は膝を折りました。
「公爵閣下、公爵夫人、イルマ殿下が、王妃陛下のご療養のために動いておられます」
フレイア様は許可状を見ておられました。目は文字を追っています。
けれど、どこかまだ王宮の手順を探しているようでもありました。
「側妃入内は」
「王宮側が行います」
「南の離宮は」
「王宮側が行います」
「レーヴェ伯爵家への」
「王宮側が行います!」
少し強く申し上げました。フレイア様が私を見ました。
私は頭を下げます。
「陛下のお仕事ではございません」
言えました。ようやく、言えました。
フレイア様の指が、父君からの短い文の端を押さえました。
――食べなさい。
そこへ視線が落ちます。匙が、もう一度持ち上がりました。
その時、扉の外から声がしました。
「王妃陛下へ、儀典長補佐よりお伺いが」
早い。本当に早い。
この王宮の者たちは、必要な知らせは遅いのに、仕事を押しつける時だけ足が速い。
私は立ち上がりました。
「お待ちくださいませ」
フレイア様が匙を止めます。
「リーナ」
「陛下はお食事を」
そう申し上げ、扉へ向かいました。半分だけ開けます。全開にはいたしません。部屋の中を見せる必要はありません。
廊下には、若い文官が立っていました。儀典長補佐の一人です。額に汗が出ています。手には薄い板に挟んだ紙。南の離宮の見取り図が少し覗いておりました。
「王妃陛下に、南の離宮の寝具と席次について、ご確認だけ」
「王妃陛下は療養に入られます」
「ですが、確認だけで結構でございます。側妃様は身重でいらっしゃいますので、寝具の格と、侍女の控え室の位置を」
私は許可状の写しを受け取りました。ユストが、すでに盆に用意してくれておりました。よい家令です。実に、よい家令です。
紙を開きます。文官の目が、署名のところで止まりました。
「国王陛下のご署名と、王太后陛下のご確認がございます。王妃陛下への新規執務は禁じられております。南の離宮については、女官長、儀典長、王太后陛下へお願いいたします」
「しかし、王妃陛下でなければ分からない点が」
「分からないのでしたら、儀典長がお調べくださいませ」
文官の口が開きました。私は続けます。
「王妃陛下は、分からないことを調べるために五年この王宮を支えてこられました。今日は、別の方が調べる日でございます」
文官は紙を胸へ抱え直しました。
「儀典長へ、戻ります」
「お願いいたします」
扉を閉めます。閉めたところで、向こうからまた足音が近づいてきました。
今度は女官です。側妃様の、とはまだ呼べない方のために走っている女官。顔に、急いでいます、困っています、だから通してください、と書いてあります。
通しません。
「王妃陛下へ、女官長より」
「内容をこちらで伺います」
「南の離宮の香についてでございます。身重の方には強い香が障ることがあると。王妃陛下のご判断を」
「女官長へお戻しください」
「ですが」
女官の手には、小さな香袋がありました。
白い絹。銀の紐。見覚えがありました。
王妃陛下の香棚にあったものです。公爵家から持参した白花の香。強すぎず、頭痛を起こしにくいので、フレイア様がよく使っておられます。
私は手を出しました。
「その香袋を」
「え」
「こちらへ」
女官が香袋を胸元で持ち直しました。
「女官長より、南の離宮に合うかどうか、見本として」
「公爵家所有の品です」
言葉を少しだけ低くしました。
「王妃陛下の私物であり、公爵家からの嫁入り支度でございます。南の離宮へ運ぶことはできません」
「見本だけで」
「見本にするために持ち出すこともできません」
女官の頬が赤くなりました。怒りではなく、困惑です。
おそらく彼女は命じられただけなのでしょう。女官長が命じたのか、南の離宮の支度係が命じたのか、誰かが「王妃陛下の香ならよい」と言ったのか。
誰が言ったにせよ、返しません。
「公爵家より、王妃陛下の私物の無断移動を禁じる文が届いております。女官長へお伝えくださいませ。必要であれば、写しをお渡しいたします」
女官は香袋を見ました。自分が持っているものが、急に重くなった顔です。
「……失礼いたしました」
「今ここでお戻しください」
彼女は香袋を私の手へ置きました。
白い絹は、まだ温まっていません。長く持ってはいなかったのでしょう。よろしい。まだ部屋の外へ出たところです。
「女官長へは、王妃陛下の香棚に触れる場合、リーナまたは公爵家付きの者を通すように、とお伝えください」
「承知いたしました」
女官が下がります。私は香袋を持って部屋へ戻りました。
フレイア様は椀を半分ほど空けておられました。ユストが静かに立っています。彼の視線が、私の手の香袋へ落ちました。
分かったようです。何も言いません。
言わずに、持ってきた控えの中から一枚抜き出して盆に置きました。嫁入り支度の控えです。
ありがたい。
私は香袋を棚に戻しました。戻すだけでは足りません。棚の鍵を閉め、鍵束からその小さな鍵を外しました。
「リーナ」
フレイア様が呼びました。
「はい」
「そこまでは」
「必要でございます」
鍵を手の中に握ります。
「今、香袋が南の離宮の見本として持ち出されかけました」
フレイア様の目が、棚へ行きました。それから、自分の手元へ。
椀の縁に、匙がかかっています。
「香くらいなら」
「香くらい、ではございません」
言葉が少し強くなりました。けれど、ここは譲れません。
「香くらい、寝具くらい、銀器くらい、壁掛けくらい。そうしてひとつずつ動きます。戻す時には、誰も最初に動かした者を覚えておりません」




