14 ディート公爵――療養という名の脱出
「陛下は今朝、王妃陛下のご様子について、しばらく実家で休ませてもよい、という趣旨のお言葉を漏らされたと聞いております」
王太后陛下の目が動く。女官長が、ほんのわずかに顔を上げた。
リーナからの報告にあった。
陛下は、フレイアが使いものにならないなら、しばらく実家で休ませればよい、と考えていたらしい。言葉そのものは侍従が拾った。王の部屋へ戻る途中、側近に言ったのだ。
本人は軽く言ったのだろう。
《《ならば、重くする》》。
「その言葉は、誰が聞いたのです」
「侍従が聞き、王妃府の下働きが聞いております」
「公的な許可ではありません」
「公的な許可にしていただきます」
私は紙をもう一枚出した。今度は許可文の案である。
――王妃陛下フレイア、体調不良につき、ディート公爵家にて静養を許す。
――期間は医師の診断に従う。
――療養中の王妃陛下へ、王妃府の新規執務を命じない。
――必要な報告は王太后陛下、女官長、儀典長にて処理する。
――側妃入内の準備は、王宮側にて行う。
王太后陛下の指が、紙の端を押さえた。
「陛下が、これに署名すると?」
「王妃陛下を大切に思っておられるなら」
部屋の中の誰かが、息を止めた。王太后陛下の返事を、皆が待っている。
「署名なさるでしょう」
私は続けた。
「署名なさらないなら、陛下は、王妃陛下の体調より、身重の側妃入宮を優先したと見られます」
「脅しですか」
「手順です」
イルマが、そこで小さく笑った。王太后陛下の目がイルマへ向く。
「失礼いたしました」
イルマは少しも失礼と思っていない顔で頭を下げた。
「ただ、兄があまりに正しく公爵らしい言い方をしましたので」
「イルマ」
「王太后陛下。これは脅しではございません。王宮が自分で作った形です。王妃陛下に過重を積み、側妃入内を十日後にし、王宮医の診断もまだ。そこへ公爵家が療養を求める。拒む方が難しゅうございます」
妻が続けた。
「フレイアは、まだ何も訴えておりません。手紙にも、責める言葉はございません。ですから今なら、療養で済ませられます」
王太后陛下が妻を見る。
「今なら、ですか」
「はい」
妻の声は、丁寧だった。怒りが、ぴんと張った布を突き破る寸前の声である。
「今なら、です。これ以上あの子に側妃入内の仕事を積むなら、公爵家は療養ではなく抗議として動くことになります」
王太后陛下の扇が、膝の上へ下りる。私は、その動きを見ていた。
扇を下ろした。これは、考える姿勢だ。
王太后陛下は愚かではない。ただ、甘い王宮の古い言い訳を身につけすぎている。
だが、ここで公爵家を真正面から敵にする危険は分かる。
しばらくして、扉の外で足音がした。
「陛下」
侍従の声。王が来た。王太后陛下が、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
息子が来る。この場で、王としての言葉を取られる。
「入りなさい」
扉が開いて、王が入ってきた。
朝にフレイアの部屋へ行った時と同じ上着だろう。袖口に金の刺繍。顔には、不快と困惑が混じっている。何を大げさな、という顔である。
「母上。ディート公爵まで来ていると聞いたが」
王の視線が、私、妻、イルマ、卓の紙へ順に移った。
「これは何事だ」
私は礼を取った。
「陛下。王妃陛下の療養について、王太后陛下へお願い申し上げておりました」
「療養?」
王は、本当に分かっていない顔で言った。
「フレイアがか」
「はい」
「《《少し休めばよいだろう》》」
――よし。
王太后陛下の扇が、指の中でわずかに動いた。イルマは表情を変えない。
妻の膝の上の手が、一度だけ重なり直した。私は、用意していた許可文を王の前へ滑らせた。
「陛下のお言葉を、文にいたしました」
「何?」
「王妃陛下フレイアは、体調不良につき、ディート公爵家にて静養を許す。期間は医師の診断に従う。療養中の王妃陛下へ、王妃府の新規執務を命じない。必要な報告は王太后陛下、女官長、儀典長にて処理する。側妃入内の準備は、王宮側にて行う」
王は紙を見た。眉が寄る。
「いや、そこまでは」
「そこまででなければ、療養になりません」
「フレイアは王妃だ。王妃府のことは」
「王妃陛下は、お疲れです」
妻が言った。王が妻を見る。
妻は立ち上がりました。
「陛下。娘は今朝、手紙の一行目を書くのに時間がかかりました。食事も、噛まずに済むものを侍女が用意しております。五年、王妃として仕えてきた娘です。少し休めばよい、と陛下がお考えなら、その少しを、きちんとお与えくださいませ」
王は、妻の言葉を最後まで聞いた。聞くしかなかったのだろう。
母親の言葉は、王の言葉では切りにくい。
「しかし、十日後には」
「側妃様の入宮でございますね」
妻の声が少し低くなる。
「ええ。ですから、王宮側でおきちんとさせくださいませ。娘は王妃であって、陛下の御子を宿した方の入宮係ではございません」
王の顔に、はっきり不快が出た。
「言い方があるだろう」
「ございます」
妻は即座に言った。
「五年通わなかった妻へ、外で宿した子の母を十日後に迎えるから準備せよ、と告げる時にも、言い方はございましたでしょう」
王太后陛下が扇を強く握った。イルマが少し前へ出る。
「陛下。公爵夫人のお言葉は母としてのものです。私からは、王家の女であった者として申し上げます」
「イルマ叔母上まで」
「まで、ではありません。私だから申し上げます」
イルマの声は丁寧だった。
「側妃を迎えること、懐妊した女性を後から側妃としてきちんとさせること、その前例はございます。ですが、王宮医の診断もなく、家格の確認もなく、南の離宮を望み、準備を王妃陛下へ一任する前例はございません」
王は、初めて少し黙った。
――前例。
その言葉は、王には効く。自分のわがままではなく王家の手順に触れるからだ。
「私は、フレイアを追い出すつもりではない」
「存じております」
私は言った。
「ですので、療養です」
「落ち着けば戻るのだな」
王が言った。
――戻る。
その言葉が、部屋の中に置かれた。妻の目が強くなる。
イルマが王太后陛下を見る。王太后陛下は扇を膝に置いたまま、王を見ていた。
私は紙を王の前に置いた。
「医師の診断に従います」
「期間は」
「診断に従います」
「側妃入宮までには」
「診断に従います」
三度言うと、王の口が閉じた。
療養とは、そういう言葉だ。王の都合では切れない。
「陛下」
王太后陛下が、そこで言った。
「署名なさい」
「母上」
「王妃は疲れている。あなたも休ませるつもりだったのでしょう。ならば文にするだけです」
「しかし」
「側妃の入宮準備は、王宮でいたします。女官長、儀典長、宰相府を使えばよい。王妃府に積む必要はありません」
王は母を見た。自分の側にいてくれると思っていた母が、紙の方を指している。そういう顔だった。
王太后陛下は続けた。
「王宮医には、マリーシアの診断もさせます。王の子として扱うなら、記録が要ります」
「マリーシアを疑うのですか」
「疑うのではありません。記録を作るのです」
王太后陛下の声に、少し先代王の妃だった頃の響きが戻っていた。
王は唇を結んだ。不満はある。だが、ここで拒めば、王妃を休ませることすら拒む王になる。
身重の側妃は、王宮医の診断前。王妃の実家は公爵家。叔母は先代王弟妃。母である王太后も署名を促している。
逃げ場は細くなった。
私はペンを差し出した。王はそれを見た。ペンを取るまでに、少し時間がかかった。
その間に、女官長がインク壺を寄せた。王宮の者は、こういう時よく動く。動ける者はいるのだ。上が動かさなかっただけで。
王は署名した。名前の最後が少し跳ねた。不満が字に出る男である。
私は文を受け取り、砂を振って乾かした。ユストが銀盆を差し出す。そこへ載せる。
「王太后陛下のご確認を」
王太后陛下は、少しだけ私を見た。ここまでやるのか、という目だった。
やる。私は公爵である。
王太后陛下は、署名の下に確認の文を添えた。
――王太后、これを確認す。
印も押された。
よい。これで王の軽い言葉は、紙の上で形になった。
「では、王妃陛下のもとへ」
妻が言った。王が顔を上げる。
「今からか」
「今からです」
妻が答えた。
「医師の診断を受け、支度をして、本日中に公爵家へお連れします」
「本日中?」
「十日後に側妃様がお入りになるのでしょう。こちらも急ぎます」
妻の言葉は丁寧だった。丁寧だったが、明確に殴っていた。
王はそれに気づいたようだが、少し遅い。
「フレイアに、私から」
「陛下」
私は口を挟んだ。
「診断の後にお願いいたします。今は、王妃陛下の静養が先です」
「私は夫だ」
「はい」
私は頭を下げた。
「《《ですので》》、休ませて差し上げてください」
王は言葉を探した。だが王太后陛下が先に言った。
「陛下。今は行かぬ方がよい」
「母上」
「行けば、王妃は立とうとする。礼を取ろうとする。あなたの言葉に返事をしようとする。それが休みになると思いますか」
王は黙った。これは、言葉としては柔らかい。
だが、ようやく王太后陛下が見た。フレイアが何をする女か。王の前でどう振る舞う女か。
それを。
「……わかった」
王はペンを置いた。
「フレイアには、休むように伝えよ」
私は礼をした。
「承りました」
その言葉は、王からの伝言として受け取った。好きに使わせてもらう。
――休むように。
それだけだ。戻れとは言っていない。仕事をせよとも言っていない。
私は許可文をユストへ渡した。
「写しを二通。王宮用、公爵家用。原本は公爵家で保管する」
ユストが頭を下げる。
「承知いたしました」
王太后陛下が何か言いかけた。私は先に言った。
「もちろん、王宮へは正式な写しを残します。封印付きで」
「……よいでしょう」
よい。通った。
療養という名で、フレイアを王宮から出す。
王の署名。王太后の確認。
医師の診断はこれから付く。側妃入宮の準備は王宮側。王妃府への新規執務は止める。
宙に浮いた言葉ではない。言葉を記した紙があるのだ。
「では」
私は杖を取った。
「王妃陛下のもとへ参ります」
妻が先に歩き出した。イルマが続く。私はその後に出る。
扉の前で、一度だけ振り返った。
王はまだ署名した紙があった場所を見ていた。王太后陛下は扇を膝に置いたまま、目を伏せている。
これで終わりではない。むしろ、ここから始まる。
けれど今日、フレイアはこの王宮を出る。
それだけは、決まった。




