13 ディート公爵――それならつなげて差し上げよう
私が王宮へ入った時、先触れの者がまだ廊下の端に立っていた。
返事を待て、と言われたのだろう。額にうっすら汗が浮いている。
公爵家の馬車が王宮の正門を通った時点で、彼の仕事はもう終わっている。けれど王宮では、終わった仕事でも立っていなければならないことがある。
――気の毒に。
私は馬車を降り、杖を取った。
王宮の石段は広い。雨の後でも滑らぬよう、端に細い溝が刻んである。先代王の時代に直したものだ。
あの工事の時、王宮は金がかかると文句を言っていたが、王太后陛下が礼拝へ向かう途中で足を滑らせてから、二日で話が通った。
人が怪我をしてから、ようやく石を見る。王宮らしい。
「ディート公爵閣下」
侍従が深く頭を下げた。
「王太后陛下がお待ちでございます」
「先代王弟妃イルマ殿下と、公爵夫人は」
「すでに王太后陛下のお部屋に」
「王妃陛下は」
侍従の喉が動いた。
「ただいま、お部屋にて」
「医師は」
「王宮医が控えております」
「公爵家の医師も連れてきた。通す」
私は後ろへ視線をやった。公爵家の医師、セヴランが帽子を取って控えている。
年は五十を少し過ぎたところだ。痩せて、背が高い。余計なことを言わない男で、子供の熱にも老人の咳にも、まず手を洗う。よい医師だ。
侍従は一瞬、王宮医の方へ目をやった。
「確認を」
「今する」
私は杖の先を石に置いた。音は小さかった。だが侍従はすぐに頭を下げた。
「ご案内いたします」
王宮の廊下へ入ると、空気の匂いが変わる。
磨かれた床。古い香。花瓶の水。金属の燭台。人の衣擦れ。大勢がここにいるのに、誰も自分の音を立てないようにしている匂いだ。
フレイアは、この中で五年暮らした。十八から。
私は廊下の壁に飾られた王家の肖像を見た。
今の王の肖像もある。若い頃のものだ。王冠を被り、まっすぐ前を見ている。画家は上手く描いた。実物より、物を見ている顔になっている。
前を行く侍従の足が、王太后陛下の部屋の前で止まった。
「ディート公爵閣下、ご到着にございます」
「お通しなさい」
王太后陛下の声がした。扉が開く。
礼拝前の支度部屋だった。王太后陛下は白い手袋をはめ、扇を持っている。衣装は薄い喪色。支度の途中だったのだろう。鏡の前には手袋の箱が残っており、女官長が少し下がったところに立っていた。
イルマは窓際にいた。義妹だが、今は先代王弟妃殿下である。
顔を見ただけで、怒りの温度が分かった。高い。だがよく制御されている。まだ言葉で切っている段階だ。
妻は卓のそばにいた。膝の上に手を置き、姿勢よく座っている。こういう時の妻は、椅子を玉座のように使う。
私は入室し、王太后陛下へ礼を取った。
「王太后陛下。急な参上をお許しください」
「ディート公爵。あなたまで来るとは思いませんでした」
「娘の一大事でございます」
王太后陛下の扇が、少しだけ開いた。
「王妃のご体調については、こちらでも医師を用意しています」
「ありがたく存じます。公爵家の医師も連れてまいりました。王宮医とともに診ていただきたい」
「二人も要りますか」
「要ります」
私は即座に答えた。王太后陛下の眉が少し動く。
「王妃は、倒れたわけではありません」
「倒れてからでは遅い」
部屋の中の空気が、一段変わった。
いや、空気というより、人の手が止まった。女官長が持っていた手袋の箱を、棚に戻す前で止めた。妻の指が膝の上で重なる。イルマは私を見ている。
王太后陛下は扇を閉じた。音のしない扇だった。
「公爵。言葉を選びなさい」
「選んでおります」
私は杖を立てたまま、頭を下げた。
「王妃陛下は、今朝、陛下より側妃入内の件を知らされました。入内は十日後。相手はレーヴェ伯爵家分家の子爵家令嬢マリーシア様。すでに陛下の御子を宿しているとのこと。王宮医の診断はまだ。南の離宮を希望。準備は王妃府へ一任」
ひとつずつ確実に。早口にしてはならない。怒鳴ってもならない。
王宮は、怒鳴り声を感情として処理する。事実として置くなら、声は低い方がいい。
「この内容を、王妃陛下は執務中に受けた。公爵家への私信には、助けを求める文言はありません。前例の確認を求める文言があるだけです」
妻の唇が少し結ばれた。イルマは視線を王太后陛下へ戻した。
「それで、どうして療養という話になるのです」
王太后陛下はそう言った。
責めるというより、まだ筋を探している声だった。自分の中で、側妃と療養がつながっていないのだろう。
つなげて差し上げよう。
「王妃陛下の私信を受け取った直後、侍女リーナより別便で状況が届きました」
「別便」
王太后陛下の目が細くなる。
「王妃府を通さずに?」
「娘の体調に関する、公爵家付き侍女からの報告です」
「王妃府を通すべきでは」
「王妃府が、まさに過重を負わされている部署です」
王太后陛下の扇が、手の中で止まった。
私は続けた。
「リーナの報告では、王妃陛下は今朝、ペンを取り落とし、手紙の一行目を書いたところでしばらくペンを置かれた。水を受け取っても飲み下すまでに時間がかかった。昼食には、噛まずに済むものを用意する必要がある。これらは、普段の王妃陛下のご様子と違う」
妻が小さくうなずく。王太后陛下は、まだ扇を動かさない。
「お疲れが出たのでしょう」
「はい。《《お疲れが出たのでしょう》》」
私はその言葉を受け取った。王宮の言葉だ。使える。
「《《ですので》》、療養が必要です」
王太后陛下の指が扇の骨を押した。
「王宮内で休ませます。王妃の部屋を静かにさせれば」
「王宮内では休めません」
「なぜです」
「十日後に側妃入内があるからです」
ここで、イルマが少しだけ顔を上げた。妻もこちらを見た。
王太后陛下は口を開きかけた。
私は先に続けた。
「南の離宮の支度。マリーシア様の身分確認。王宮医の診断。レーヴェ伯爵家本家への使者。子爵家への使者。儀典長との席順確認。王妃府の女官配置。側妃に付ける侍女の選定。王太后陛下への正式なご報告文。各家夫人への知らせ。身重の女性を入れるなら、香、寝具、階段、庭、食事、薬草の確認」
王太后陛下の顔から、少しずつ色が引いていく。
ひとつひとつは細かい。だが積めば山になる。
その山を、王はフレイアの机へ丸ごと置いた。
「このすべてが、王妃陛下の部屋へ流れます。王宮内にいる限り、誰かが『確認だけ』と言って来る。『王妃陛下のご承認だけ』と言って来る。『陛下がそう仰せなので』と言って来る。これでは療養になりません」
女官長が目を伏せた。よく分かっている顔だ。
そうだ。王宮では、確認だけ、が一番重い。
「公爵」
王太后陛下が言った。
「あなたの怒りは分かります」
「まだ、分かっておられないと思います」
妻の手が、膝の上で動いた。イルマが、ほんの少し口元を押さえた。
王太后陛下の目がこちらへ向く。
「何ですって」
「王太后陛下がお分かりなのは、《《父親が娘を案じている》》、という部分かと存じます」
私は礼を崩さずに言った。
「私が今申し上げているのは、公爵家として、《《王妃陛下の職務環境を問題にしている》》ということです」
「職務環境」
「はい」
言葉はわざと硬くした。親子の情に流せない形にする。
「王妃陛下は五年間、王宮の儀礼、寄付、夫人方の調整、王太后陛下の礼拝、陛下の謁見後の補正、王妃府の運営を担ってこられた。その王妃陛下へ、妊娠済みの側妃入内を十日後と告げ、準備を一任する。これは妻としての負担だけではありません。王妃としての職務を、限界を超えて積まれたということです」
王太后陛下は、そこで扇を開いた。音はしない。
「側妃を迎えることは、王家には」
「あります」
私は遮らない程度に重ねた。
「先代王弟妃イルマ殿下からも、先ほど確認しております。側妃を迎える前例はある。懐妊した女性を後から側妃としてきちんとさせる前例も、汚いながら存在する。問題はそこではない」
イルマがうなずいた。
「問題は、順番と負担です」
王太后陛下の視線がイルマへ移る。
「イルマ」
「はい、王太后陛下」
「あなたもそう見るのですね」
「そう見ます」
イルマの声は丁寧だった。丁寧で、刃が入っている。
「王妃陛下に子がないことを理由にするなら、まず陛下が夫としての務めを果たされたかを問われます。果たしていないのであれば、その理由で王妃陛下へ負担を積むことはできません」
王太后陛下の扇が止まる。
私はその間に、持ってきた紙をユストから受け取った。
ユストは部屋の外に控えていたが、いつの間にか女官長の後ろまで来ていた。王宮の者に見られてもよいよう、銀盆に載せている。よい判断だ。
「これは」
「療養願いです」
私は紙を卓へ置いた。王太后陛下の目が、そこへ落ちる。
「願い、と言いながら、もう文面がきちんとしているのですね」
「急ぎますので」
「公爵家は手が早い」
「王宮の知らせが遅すぎたのです」
妻が少しだけ顔を横へ向けた。たぶん、笑いではない。
王太后陛下は、紙を手に取った。文面は短い。
――王妃陛下フレイアは、過労および心労により、医師の診察を要する状態にある。
――本日より、ディート公爵家にて療養する。
――療養期間中、王妃府の新規執務は女官長および儀典長が整理し、王太后陛下へ報告する。
――王妃陛下への直接の伺いは、医師および公爵家の許可を要する。
――側妃入内に関する準備は、王妃陛下の療養対象外とする。
最後の一行で目を止める。
「療養対象外」
「はい」
「ずいぶんと、はっきり書きましたね」
「曖昧にすれば、王妃陛下の机へ戻ります」
私は別の紙を出した。
「こちらは、王宮医および公爵家医師による診察依頼書です。診断の後、必要に応じて文面はきちんとさせます。ただし、王妃陛下を公爵家へお連れする方針は変えません」
「診断前に」
「診断は、連れ帰る正当性を補強するものです。連れ帰る理由そのものは、すでにあります」
王太后陛下が私を見た。私もまっすぐ見返した。
「陛下が許すかどうか」
来た。そこだ。




