12 王太后――仕方がない
礼拝用の手袋を選んでいるところへ、女官長が入ってきた。
白い手袋が三組、薄い紙の上に並んでいる。今日は銀糸の入ったものにするつもりだった。先代王の月命日に近い日には、白だけでは軽い。けれど喪の黒を混ぜるほどでもない。
そういう加減は、誰かが見ている。
見ている者がいるから、王太后の装いはただの衣装ではなくなる。
女官長は扉のそばで一礼した。
「陛下。公爵家より先触れが」
「ディート公爵からか」
「はい。先代王弟妃イルマ殿下が、王妃陛下のご体調を案じ、公爵夫人とともにお見舞いに上がられるとのことです」
私は銀糸の手袋に伸ばしていた指を止めた。
――イルマ。
その名が入るなら、ただの見舞いではない。
「いつだ」
「すでにお発ちになっております。返事は待たない、と」
返事は待たない。
女官長の声はいつも通りだった。だが、言葉の置き方が少し慎重である。公爵家の文がどういう調子で届いたのか、想像はつく。
丁寧である。
丁寧で、逃げ道の少ない文だったはずだ。
「青筋を立てて来る、ということか」
「恐れながら」
「よい。言葉にせずとも分かる」
私は手袋を取った。
銀糸のものではなく、何も刺繍のない白い手袋にした。今日はそれでよい。イルマが来るなら、装いで余計な意味を作るべきではない。
昔から、あの子は意味を拾う。まだ王弟妃だった頃も、そうだった。
茶会の席順、花瓶の位置、香の強さ、出された菓子の種類。誰かがうっかり置いたものから、こちらの意図を読む。
読むだけならまだよい。必要なら、その場で返してくる。厄介な女だ。
そして、今回に限っては、厄介な女が公爵家にいる。
「フレイアのところへ知らせは」
「まだでございます」
「まだなら、こちらからは出すな。公爵家の者がすでに伝えているだろう」
女官長がわずかに頭を下げる。
フレイア付きの侍女は、公爵家から来た娘だった。名はリーナ。立ち居振る舞いに余計な華はないが、目が利く。あの娘がいれば、王妃の実家へ文を出すくらいはする。出すだろう。
むしろ、出したからこうなった。
昨夜、陛下から話を聞いた時、私は仕方がないと思った。
――王に子が要る。
――国に世継ぎが要る。
――フレイアが王宮に入って五年。子はない。これは軽い話ではない。王家は、家ではない。王家の婚姻は、夫婦だけのものではない。
――だから側妃。
――昔からある。
よいことではない。女にとって楽なことでもない。
けれど、王家とはそういう場所だ。私も先代王の妃として、それを見てきた。
笑って受け入れた女も、受け入れたふりをした女も、部屋へ戻って寝台の柱に爪を立てた女も知っている。
それでも、朝になれば装う。席に座る。礼拝に出る。
王家の女とは、そういうものだ。私は、そうしてきた。
フレイアにもできると思った。
できる、ではない。してもらわねばならない。
そう考えた。
「陛下は」
「朝の執務に向かわれました」
「王妃へ話したか」
「はい。先ほど、王妃陛下のお部屋へお立ち寄りに」
私は手袋の指先を引いた。
右手の中指のあたりに、布が少し余る。別の手袋に替えるほどではない。指を曲げれば収まる。
「戻ってから、何か仰せだったか」
「陛下は、王妃陛下が承知した、と」
承知した。
私は、その言葉の軽さに少しだけ眉を寄せた。
フレイアは、承知したと言うだろう。あの子はそういう子だ。
騒がない。問い詰めない。陛下の前で声を荒げることもない。必要事項を聞き、手順を並べ、使者を出す。そういう王妃である。
だからよいと思っていた。王宮には、そういう女が一人要る。いなければ回らない。
そこまで考えて、私は手袋の指をもう一度引いた。
――いなければ回らない。
今、その女の母と叔母が、返事を待たずに王宮へ向かっている。
「側妃の入内は十日後だったな」
「はい」
「南の離宮の支度は」
「王妃府へ確認を」
女官長は、そこまで言って口を結んだ。私は顔を上げる。
「王妃府へ確認を、どうした」
「王妃陛下のご体調を、まず確認すべきかと」
女官長がそう言った。
この女官長は、長く王宮にいる。気が弱いわけではない。ただ、余計な火の粉を嫌う。普段なら、南の離宮の支度を先に言う。今日は言わない。
それだけ、公爵家の先触れが効いている。
「フレイアは倒れたのか」
「倒れたとの知らせはございません」
「では、何を確認する」
「お疲れが出ているかもしれません」
――お疲れ。
便利な言葉だ。
王宮では、女が壊れかける時、まずお疲れという言葉が出る。次に静養。次にご体調。最後に医師。その頃には、たいてい遅い。
私は先代王の後宮で、それを見てきた。見てきたはずなのに、昨夜はそれを横へ置いた。
世継ぎのため。仕方がない。そう置いた。
「陛下は、王妃にどこまで話した」
「詳しくは存じません」
「マリーシアが身重であることは」
「お伝えになったと」
「王宮医の診断はまだだったな」
「はい」
私は、そこで扇を取った。開く。
白い骨に薄い絹が張られている。先代王の喪が明けた年に作らせたものだ。音を立てずに開く扇である。王太后には、音を立てたい時と立ててはいけない時がある。
今は、立ててはいけない。
「王宮医を呼べ」
「マリーシア様へ」
「まずはそちらだ。王の子だとするなら記録が要る。身重の女を入れるなら、母体を見る。王宮医が診ていないまま王宮に入れれば、後で誰の責任かを問われる」
女官長が一礼する。
「ただちに」
「それから、王妃のところへも医師を回せ。ただし、こちらから押しつける形にはするな。公爵夫人が来る。イルマも来る。あちらが医師を求めた時に、すぐ出せるようにしておけ」
「承知いたしました」
これでよい。まだ、よい。
手順を戻せばよい。
王が少し急いた。女を孕ませた。若い。いや、王はもう若いだけでは済まない年だが、男とはそういうものだと、王宮は昔から言い訳してきた。
言い訳してきたから、今こうなっている。
「レーヴェ伯爵家へは正式な使者を出したか」
「まだ、とのことです」
「まだ」
扇の骨を親指で押した。
南の離宮。十日後。王宮医の診断なし。伯爵家本家への使者なし。分家男爵家への扱いも未確認。
それをフレイアに任せた。
陛下は、任せればよいと思ったのだろう。
あの子なら、やる。やれてしまう。だから、任せた。
私も昨夜、止めなかった。
「儀典長を呼べ」
「はい」
「伯爵家本家と分家男爵家の扱いを確認する。マリーシアを伯爵家令嬢として扱うなら、本家の同意が必要だ。男爵家令嬢として扱うなら、陛下へ説明が要る」
女官長が、そこでわずかに目を伏せた。
「陛下は、細かいと仰るかと」
「仰るだろうな」
王は細かいと言う。父に似なかったところである。
先代王は女の扱いこそ褒められたものではなかったが、席順と家格の怖さは知っていた。知らないふりはした。けれど、知らないわけではなかった。
今の王は、知らない。知らないまま、細かいと言う。
細かいものが国を支えているのだと、言っても聞かない。
聞かないから、フレイアに回る。
「陛下には、私から話す」
「はい」
「その前に、公爵家を通せ」
「お通ししてよろしいので」
「止めれば、それこそ殴り込まれる」
言ってから、扇を少し閉じた。
「いや。もう殴り込んできているのだったな」
女官長の口元が、ごくわずかに動いた。
笑ったわけではない。困ったのだ。
困るがよい。私も困っている。王太后になってから、困ることは減ったはずだった。
先代王の妃であった頃、私は日々困っていた。側室、愛妾、王弟家、先代派、新王派、礼拝、寄付、葬儀、婚礼。どこに座るか、誰の名を先に呼ぶか、誰を見なかったことにするか。
フレイアが来てから、その困りごとの多くは私の机に上がる前に処理された。
あの子は細かい。私はそう言った。褒めたつもりだった。細かいところに気づく、と。
気づく者がいるなら、任せてよいと思った。
任せた。任せ続けた。
王も同じことをした。王宮も同じことをした。
そして今、ディート公爵家が馬車を走らせている。
「陛下」
女官長が、もう一枚の文を差し出した。
「公爵家から、追加でございます。王妃陛下の嫁入り支度のうち、公爵家所有の品について、無断移動を禁じる旨が」
早い。公爵夫人だろう。
あの女は気が強い。昔から、礼儀の衣を着せたまま針を刺す。フレイアの母である。フレイアの静かさは父に似たと思っていたが、芯の折れなさは母にも似ている。
「もうそこまで見ているか」
「南の離宮の支度に、王妃陛下の御品が使われることを警戒されているようです」
「使うつもりだった者は」
「まだ、確認できておりません」
「確認しろ。使おうとしていた者がいれば止めろ。『一時的に』という言葉も禁じる」
女官長が深く頭を下げる。
よい。今ならまだ、止められる。
仕方がないことはある。王に子が要るのは仕方がない。身重の女を放り出せないのも仕方がない。
側妃として迎えるのも、場合によっては仕方がない。
だが、仕方がないことの上に、無作法を積んでよいわけではない。
まして、王妃の持ち物まで使って飾るなど。そこまで行けば、仕方がないでは済まない。
「イルマは怒っているだろうな」
「はい」
「公爵夫人も」
「はい」
「ディート公爵は」
「おそらく」
「おそらくではなく、確実だ」
私は扇を閉じた。ぱちり、とは鳴らない。音を立てない扇だからだ。だが、手の中で骨がみし、とそろう感触はある。
「客間はどこへ」
「白の間をご用意しております」
「駄目だ。青の間に近い小応接へ通せ。大広間には出すな。大勢に見せる前に話を受ける」
「王妃陛下のお部屋へは」
「イルマは行きたがる。公爵夫人も行く」
「お止めに」
「止めれば、なぜ止めるのかと聞かれる」
私は立ち上がった。
手袋の中指は、もう指に沿っていた。さっきの余りは消えた。動かせば収まるものもある。
収まらないものもある。
「まず私が会う」
「王妃陛下の前に」
「そうだ」
あの二人をフレイアの部屋へ直行させれば、王宮は完全に受け身になる。母と叔母が王妃を見て、疲れている、連れて帰る、と言う。そうなれば止めにくい。
先に私が会う。王太后として。
母としてではない。王家の女として。
そう考えて、足元に置かれた小さな踏み台を見た。侍女が靴の紐を直すために出したものだ。今朝はまだ礼拝前だった。私はまだ礼拝堂へ行っていない。
先代王の月命日の祈り。これも、フレイアが席順をきちんとさせていたはずだ。
今日の礼拝は、誰が見るのだ?
「礼拝の席順は」
「王妃府から控えが届いております」
届いている。
フレイアは、今朝それを出してから王の話を聞いたのか。それとも、話を聞いた後に出したのか。
どちらでも腹立たしい。
「控えを儀典長へ渡せ。今日はそれに従う」
「はい」
「王妃府へ新しい指示を出すな。今朝までに届いたものだけで回せ」
女官長が顔を上げた。
「今朝までに、でございますか」
「そうだ。今朝までにフレイアがきちんとさせたものだけだ。それ以上を、今日あの子へ積むな」
言ってから、自分の声に気づいた。少し強かった。
女官長も気づいたようで、すぐに頭を下げた。
「承知いたしました」
廊下の向こうから、足音が来た。
侍従の足音ではない。少し速い。だが走ってはいない。王宮の者ではなく、外から入った者の足音だ。
公爵家の先触れか。
あるいは、もう本人たちか。
扉の外で声がした。
「陛下。イルマ殿下、公爵夫人がご到着です」
早い。まったく、早い。
私は扇を持ち直した。
「お通ししろ」
「小応接へ」
「いや」
少し考える。小応接に通せば、こちらがきちんとさせた場になる。
だが、イルマはそこを突く。白の間でない理由も、小応接である理由も、すぐ読む。
ならば始めから、逃げる形を作らない方がよい。
「この部屋へ」
女官長の目がわずかに動く。
「こちらへ、でございますか」
「そうだ。私の支度部屋だ。礼拝前であることも、急な来訪であることも、見せればよい」
こちらも驚いた。こちらもきちんとさせる時間がなかった。
それは事実である。事実は、使える時に使う。
「お通しします」
女官長が下がる。私は鏡の前に立った。
白い手袋。薄い喪色の衣。髪はきちんとしている。扇も持った。王太后として会える。
鏡の奥で、先代王の小さな肖像が見えた。若い頃の肖像である。
この方も、ずいぶん女を泣かせた。それでも王宮は回った。
なぜ回ったのか。誰かがきちんとさせたからだ。
私か。他の女か。女官長か。当時の王妃府か。
そして今は、フレイアだった。
扉の向こうで、足音が止まる。まずイルマの声がした。
「王太后陛下へ、お目通り願います」
声は丁寧である。丁寧で、怒っている。
私は扇を少し開いた。
「入りなさい」




