無口な職人の新生活シフト 〜深夜報酬4割増しと、見知らぬ治癒院の激痛〜
新天地の空気は、前のアジトに比べれば天界のようだった。
数か月前まで、冒険者ユルが拠点にしていたタマ領の宿はひどいものだった。壁からは雨漏りが伝い、魔獣の幼生かと思うような黒い蟲や百足、ネズミが這い回り、魔導灯は不具合で消えかけ、隣室の狂戦士は夜な夜な奇声を上げていた。極めつけに、領主による大規模な王道区画整理が決まり、宿の主から退去を言い渡された場合には、路頭に迷うという時限爆弾を抱えていたのだ。
そんな彼が新たに移り住んだのは、ヒノ領。 賃料(滞在費)は偶然にも前と同じ白銀貨数枚。部屋は少し狭くなったが、内装は見違えるほど清潔で快適だ。前回の教会での神託(健康診断)の結果が芳しくなかったユルにとって、結界(職場)まで徒歩で通えるこの立地は、体を鍛え直すのにも丁度良かった。
現在、ユルは自身のスキルの幅を広げるため、今まで触ったこともない未知の魔導具の錬成を学んでいる。近い将来、夜間の「防衛任務(夜勤)」へ完全移行するための布石だ。夜間任務が本格化すれば、深夜や早朝に街の乗合馬車は動いていない。だからこその、作業場近くへの転居だった。
一般の冒険者にとって、誰もが眠る夜間に魔物と対峙する夜間任務は「割に合わない」と嫌がられる。しかし、かつて別の大陸で夜間任務を経験していたユルは大歓迎だった。危険手当として報酬は「4割増し」になり、ギルドの退屈な全体集会に出席する義務も免除される。何より、全住民が眠りについている時間帯は、昼間なら混雑する武器屋や市場、街道が驚くほど空いていて快適なのだ。
この任務に就けば、同じ拠点で働く他の者たちと顔を合わせる機会も、その声を聴くこともほぼ無くなる。 もともとユルは他人に興味がない。他の者がどれだけ依頼料を稼いでいようが、誰かの報酬が下がったところで自分の懐が潤うわけでもないし、他人の依頼を自分が全て身代わりになって引き受ける義理もないし、そんなことは出来ない。そんな冷徹なまでの合理性を持つユルは、今でもギルドで一切口を開かない。夜間任務になれば、ただでさえ鬱陶しい周囲の雑音が消えるだけで、彼にとっては理想郷の完成を意味していた。
――そんなユルの唯一の誤算は「身体のガタ」だった。
タマ領にいた頃は、半年に一度、なじみの治癒魔導士のもとへ通って「不浄の浄化(歯のクリーニング)」と、見つかった「呪詛(虫歯)」の治療を行っていた。しかし土地が変われば、治癒院も変えねばならない。 新しいアパートから一番近い治癒院に予約を入れたのと、ほぼ同時だった。ユルの奥歯に、ズキズキとした鋭い痛みが走り始めた。
どうやら新天地での静かな夜間生活が始まる前に、ユルはしばらく、その見知らぬ治癒院の門を叩き続けることになりそうだった。




