舞台裏 荒れ野の果てに
※本編及び外伝読了推奨。
歓呼は嵐のようだった。
人びとの声が雪の礫のように鼓膜を、胸を、魂を打ち震わせる。
――我らの王に祝福あれ
――我らの王国に栄光あれ
荒れ野の果てまでも高らかに響き渡る、運命の歌声のようだった。
かんむりは銀細工の茨でできていた。
装飾といえば硬い棘と蕾を模した精緻な彫りこみだけで、貴石のひと粒すらついていない。冬の荒れ野で凍りついた茨で編んだような、厳格な美しさだけがあった。
「王様が被るにしては、ずいぶん地味ですね」
俺の素直な感想に、大叔母は呆れたようにも面白がるようにも映る角度に眸を眇めた。
「先々代の国王陛下が戴冠式の寸前、下町の彫金師にこしらえさせた品ですよ」
亡き祖父、この大叔母にとっては腹違いの兄に当たるひとは、たいへんな変わり者だったとつねづね聞かされている。
世継ぎを産ませるために貧民窟の下級娼婦を金貨三枚で買い上げたり、金策のために王家伝来の美術品やら装飾品やらを盛大に売り飛ばしたり……
「もしかして、王冠まで売ったんですか?」
そろそろと尋ねると、大叔母はうっすらくちびるの端に笑みを滲ませた。
「『王権の象徴は国庫の半年ぶんにもなりもしなかった』と鼻で笑っていらっしゃいましたよ。さすがに無冠で即位というのは格好がつかないので、陛下じきじきにお気に召す程度の職人を探し出していただきました」
実の兄だろうと国王だろうと容赦なく尻を蹴り飛ばす烈婦の片鱗に、俺はぶるりと戦慄した。
午後の陽がほの白く照らす大叔母の書斎は、花紺青のインクの匂いに混じって没薬の香りがかすかにくゆっていた。
氷柱から削り出したような痩身を柊の葉の色をしたドレスに包み、尖った頤の下に青白い影を落とす大叔母は、不意に儚く感じるほど年老いて見えた。
きっちり結い上げた白髪にはひと筋の乱れもなく、切れ長な雪割草色の瞳は出会ったころと変わらぬまま、血も涙も凍らせた雪の女王のごとく俺を値踏みしているのに。
――雪嵐の晩、水晶の雪車に乗って人間の子どもを攫いにやってくる冬の魔女。
生まれ育った孤児院で聞かされた寝物語を思い出す。王城に連れてこられたばかりの十一の俺にとって、大叔母はおそろしくて憎らしい雪の女王そのものだった。
彼女が支配する王城は、吹雪が荒れ狂う荒れ野にそびえる氷の城。あきらめ悪く脱走をくり返す俺に、魔女は呪文のごとくくり返した。
(あなたは、トゥスタの王となるのです)
パン屋の息子がパン屋になるように。鍛冶屋の息子が鍛冶屋になるように。王の息子である俺もまた王になる。それが運命なのだと。
ならばこんな国捨ててやると叫んだ俺に、彼女は憐れむように微笑んだ。
(ご随意に。そのときは、亡びるだけです)
――すべては、王の御心のまま
王妃なき王家を支え、国母と慕われ、能吏のなかの能吏と称えられる鉄の女には、あまりに不似合いな台詞だった。
はじめて王城からの脱走に成功したのは、次の日のことだ。
……帰りたかった我が家はもうないのだと打ちのめされて逃げ戻った俺を、彼女は「おかえりなさい」と言って不器用に抱き締めた。
「アレク」
懐かしい記憶の向こうから響くぎこちない呼びかけに、目の前の彼女の声が重なる。瞬きに乗せて感傷を振り払い、俺は窓辺に佇む大叔母を見つめた。
時が止まったように、ふわりと浮かぶ埃の影のひとつひとつが瞳に焼きついた。逆光に滲む陰影の下の表情は、過ぎ去った日そっくりに笑っている。
「――今ならまだ、あなたをここから逃がしてあげられますよ」
俺が返した笑顔は、きっと大叔母とよく似ていた。
「いいえ、大叔母上。どうせ俺以外のだれも貰えないのなら、俺が全部貰います」
欲しいものが、ひとつだけあった。
雪の女王の呪いにかかった日、下町のアレクは死に、氷の城の奥深くトゥスタのアレクシオが生まれた。母に捨てられ、父に顧みられることのなかった俺を拾い上げ、たとえ埋め合わせの愛情だとしても持ちうるすべてを与えてくれたのは、気高き荒れ野の牝狐だった。
茨のかんむりを両手で捧げ持つと、ひやりと棘が指を刺した。つくづく祖父は趣味と意地の悪い男だったのだと実感する。
これが俺の運命ならば、哄笑して頭を差し出そう。断頭台の上の死刑囚のように。雪の女王の裳裾に接吻する騎士のように。
――大叔母は、けして俺を息子と呼ばない。
トゥスタのセヴィエラの無二の子は、王国そのものだから。
そのくせ孤独で哀れな女の顔を見せつけるなんて、心底狡猾な魔女だ。ひどい母親だ。
「俺は王になります」
呪詛のごとく、宣誓のごとく、かんむりの守り手に告げる。
「この国を、おじい様のように憎み、父上のように恨み、あなたのように愛し抜きましょう。いつか荒れ野に斃れる日まで、あなたが生んだトゥスタのアレクシオとして歩みましょう」
俺は大叔母の息子にはならない。たったひとつ、彼女の王になる。
それは、雪の女王の腕の中で凍え死んだ子どもを弔うための復讐だった。
かんむりを差し出すと、銀に煙る睫毛が震えた。しらじらと冷たい美貌のなかで、奇跡みたいに春の色彩を閉じこめたまなざしが泣き笑う。
「すべては、王の御心のまま」
約束のように、祝福のように、かんむりの捧げ手は告げた。
かんむりは白い野茨の花でできていた。
丁寧に棘を抜いた野茨を束ねて編んだ花かんむりには、ところどころ淡紅色の赤詰草の蝶が小さな翅を休めている。甘く立ち上る、春の野の香り。
「ふふ、『未来の王妃さまに』ですって」
視察に訪れた農村の子どもたちからの思いがけぬ贈りものは、まだまだ少女らしい許嫁をひどく喜ばせてくれたようだった。王都への帰路を走る馬車の中、小鳥はドレスの膝に置いた花かんむりを飽きずに眺めている。
「そんなに気に入ったなら、乾燥花にしたらどうだ?」
微笑ましく思いながら提案すると、小鳥はほんのり眉を曇らせた。十六のころよりも深みを増した濃褐色の瞳が青い血脈を透かす瞼に隠れる。
たっぷりとした栗毛は、未婚の娘という証しを立てるようにまろい肩の線を貞淑に覆っている。彼女が髪を結い上げて俺の隣に立つ日まで、現実味を帯びてきた焦燥が胸を焼いて仕方ない。
「……もったいないけれど、やめておくわ」
小鳥はそっと苦笑した。
「わたしが戴くかんむりは、もう決まっているから」
俺はクッションについていた頬杖を外した。
繊細な造作を裏切って、小鳥のまなざしは季節を重ねるごとに荒れ野に吹き渡る雪嵐の咆哮を思い起こさせる。灰雪が舞う凍て空を征く白梟のように。
「むかし、あるひとに言われたわ。わたしの人生は、冬の荒れ野を裸足で歩き続けるような旅だと。枯れた茨の棘が両足を刺して、流れる血も凍りつくような孤独だけがあるのだと」
一瞬、視界に火の粉が散った気がした。燃え落ちんとする城で、それでも生きていくと笑った少女が今、こうして俺の目の前にいる。
小鳥の立后が正式に決まってから、俺はさる彫金師に仕事を依頼した。
何十年も昔、雷神と畏怖された王のかんむりをこしらえた職人の息子は、父親譲りの腕前で見事な銀の茨のかんむりを用意してくれた。
祖父から受け継いだものより小ぶりなそれは、やがて俺が妃となるひとの頭上にかざすもの。
片手を伸ばして頬をなぞると、彼女は伏し目がちにはにかんだ。
「でもね、わたしの運命はあなたとともにあった。いっしょに生きる道を許してもらえたの。黒猫と歩く旅路がどんなに険しくてつらくても、わたしはぜったい、幸せよ」
――あなたこそ、わたしの王
欲しいものは、ひとつだけのはずだった。もう、じゅうぶんなはずだった。
戴冠の日、跪く俺の前に茨のかんむりを捧げ持った魔女は、生涯でただ一度だけ「我が王」と俺を呼んだ。
たとえ、ひとりの人として愛することも愛されることもなくても。荒れ野に斃れ、屍すら茨の下に埋もれてしまっても。
「……俺はあんたに出会って、どんどん強欲になっちまう」
熱を孕む両目を伏せて額を触れ合わせると、鼻筋に淡雪のような口づけが降る。野の花の香りにふわりと滲む、林檎のように甘酸っぱい匂い。
「たくさんわがままを言って、わたしを困らせてちょうだいな。いつか同じお墓に入ったら、せいぜい笑い話にしてあげるから」
すべてはあなたの望みのままと、天使のように微笑んで魔女の娘が誘惑する。
とりあえず、俺は耳が焼け落ちる前に恋人の口を塞ぐことにした。
歓呼は嵐のようだった。
人びとの声が雪の礫のように鼓膜を、胸を、魂を打ち震わせる。
――我らの王に祝福あれ
――我らの王国に栄光あれ
――我らの王妃に幸いあれ
荒れ野の果てから高らかに歌い上げる、運命の産声のようだった。




