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裏切りの翼  作者: 冬野 暉
外伝
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29/30

舞台裏 雷神の花嫁

 インクをこぼしたような鈍色の空だった。

 低く唸る遠雷がぴりぴりと皮膚を伝う。逆立った首筋の産毛を撫でさすり、あたしは曇天を睨んだ。

 ――嵐が来る。

 吹きつける風はツンと冷たい雨の匂いを運んできた。暗い影を孕んだ雲がとぐろを巻いた大蛇の腹のように蠕動している。

 ばさりと視界にかかった黒髪を掻き上げると、背後からふてぶてしい男の足音が近づいてきた。

「風神にさらわれるぞ、猫娘」

 男は露台の手すりに両手をつき、上背のある影ですっぽりあたしを覆いこんでしまった。下から睨めつけると、赤みの強い紫の眸が冷ややかに笑う。

 濃い金色の髪が風に波打ち、うっすらと老いが滲む白皙の美貌を光のように縁取る。硬質な目元に淡い翳りを落とす睫毛は蜂蜜色に煙り、まるで夕映えを絵筆で溶かして描いたようだ。

「それとも、今更逃げ出したくなったか?」

「……だれが」

 きっと男の目には、みすぼらしい毛並を逆立てている黒猫が映っているのだろう。貧民窟の路地裏で出会ってからというものの、この男はあたしを気まぐれに拾った野良猫のように扱うのだ。

「てっきりおどろおどろしい万魔殿に怖気ついたのかと思ってな」

「まさか。あんたこそ、娼婦まがいの町娘を召し上げたりなんかして体裁が悪くなったんじゃないの?」

 男はわざとらしく鼻を鳴らしてみせた。

「俺は口うるさい異母妹(いもうと)の言うとおり、世継ぎを産ませるにふさわしい女を選んだだけだが? 俺が気に入った相手ならば文句はないと申したのは、あれが先だ」

 ときどき、この男はとんでもない馬鹿になる。

 荒ぶる雷神の化身――〈雷帝〉の異名を外つ国までとどろかせ、沈みゆく泥舟だったこの国を立て直してみせた稀代の賢王。怜悧にして苛烈、腐敗の根であれば実の母親だろうと容赦なく処刑台に送ったという、まさに血も涙もない名君だ。

 本人曰く、血腥い御家騒動の渦中で生まれ育ち、醜悪な俗物というものをこれでもかと見尽くしたおかげで人間嫌いに輪をかけた女嫌いになってしまったらしい。玉座に就いてからは改革という名の破壊にいそしみ、のらりくらりと「どうかお妃を」という臣下からの嘆願を躱し続けていたが、とうとう四十路を超えたあたりで唯一身内と認める妹君から苦言を呈されてしまったそうだ。

 ずばり、「わたしは子が産めぬ身ゆえ、お世継ぎまでご用意することはできませぬ。この一件に関して、兄上御自ら始末なさいませ」と。

 ……要するに、あたしのようなどこの馬の骨ともつかない商売女を王妾に仕立て上げたのは、妹君への子どもじみた当てこすりなのだ。その裏側に、彼女の口から自身を貶める皮肉を言わせてしまった己への不甲斐なさを押し隠して。

 ひどく不器用な、愛し方というものを知らない男だった。あたしの父親といってもおかしくはない齢のくせに、大切なものを大事にする方法が理解できない、馬鹿なひと。

 そっぽを向く横顔は、淋しがり屋な少年そのものなのに。

「エルトリード」

 だからあたしは、この国でだれも呼ばなくなってしまった男の名前を呼ぶのだ。薄く皺を纏った喉仏が震え、鮮やかな紅紫色の瞳がそろりとあたしを捕らえる。

「あたしはここにいるわ。だってまだ報酬を貰ってないもの」

「……あばずれめ」

「あら、こんな女だってわかっててお買い上げくださったのは旦那さんでしょう?」

 にっこり微笑んで小首を傾げてみせると、彼は短く舌打ちした。彼の子どもを産むことと引き替えに、あたしはどん底の暮らしとおさらばできたのだ。最初は割り切っていたくせに、この頃は妙な後ろめたさを覚えているらしい。

「戻るぞ。体を冷やして風邪でも引かれたら面倒だ」

「素直に『心配だから迎えにきた』って言えばいいのに」

「もう黙れ、牝猫」

 抱きこもうとするたくましい腕に爪を立て、あたしは思いっきり舌を出してやった。ひくりと端整な口元が引きつっている。

 睨み合うことしばし、男は苦々しい表情でぐしゃりと金髪を握り潰した。

「――アディール」

「よくできました」

 あたしは両手を大きく差しのべて爪先立った。膝裏から掬い上げられ、しかめっ面でもきれいな男の顔が鼻先まで近づいた。

 頬骨の張った輪郭を掌でなぞり、憎々しそうな双眸を覗きこむ。

「怖がってばっかりじゃ娼婦は口説けないわよ、エルトリード。〈雷帝〉なんて呼ばれるくらいなんだから、小娘を痺れさせるくらい簡単でしょ?」

「減らず口ばかり叩きおって」

「じゃあ黙らせてみれば?」

 挑発をこめて片目を眇めると、男の眸に冷たくて熱い光が走った。ぞくりとするような、魂まで焼けつく紫電の輝き。

 ――どこにも行かない。行けるわけがない。あたしのすべては、とっくにおそろしい雷神の掌中なのだから。

 嵐の王が治めるこの国に平穏が訪れるのは、だいぶ先になるだろう。それでも最後まで離れてなんてやるものかと、あたしは決意をこめて瞼を閉じた。

 遠雷は、もう聞こえない。

おっさん×少女掌編アンソロジー『掌を繋いで』様に寄稿させていただいた作品を再録いたしました。

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