第一準備 〜喪失〜
目を開けると、そこには見たことのない小川があった。ゆっくりと流れる静かな波は心地よい音楽を奏でている。
美しいその水中には鮎が川をのぼっていた。上流に帰す場所でもあるのだろうか。
手を伸ばしたくなる気持ちが膨れ上がった。
自分が寝転んでいたところは草が一面に生えていた。そよぐ風はなんと涼しげなことか。太陽も絶妙な光加減を保ち、眠りをいざなってくる。
しばらくその快感に身を委ねていると。
ふと、疑問に浮かぶものがあった。
自分は誰だろう。
驚くほどに眠る前の記憶がない。
なぜここにいるのか、なぜ寝ているのか、自分は誰でどこで住んでいたか、目的はなんなのか。
今までの人生という欠片が完全に欠如している。
いうなれば、映画の結末だけを見てその経緯がわからないのと同じように、
無理だと前提的に直感し、同時に頭は混乱を極めている。
そしてそれがヒューマンストーリーなどというのだからなおさらだ。
さらに。今いる状況、
小川と草原の上に寝転がされている状態。
誰がここまでの理由を当てられるものか。考えるだけで無駄である。
だが、不思議と損失感や焦りはなかった。
生み親はわからないし自分がどのような人生を送ったのかさえ分からない。
しかし箱から何かが抜けたような感覚ではなく、箱自体がなかったのだと頭は勝手に決めつけている。
鳥は誰が産んだかなど気にしない。生き延びる使命に基づいて、空を駆け巡るのだ。
川面を覗き込むと繊細な水分子が左から右へと流れていた。寝転んでいる土地はやや丘のような場所なのだ。
川には自分の顔が写りこんだ。幸い顔は整っていた。髪の毛は乱雑に切られており、前髪がななめだ。まるで性格がひん曲がっている様。
目は黒髪には似つかわしくない藍色をしており、それ以上はわからない。
服装は引っ張って確かめたが、ディレクタースーツを着用していた。少し臭い。
なぜか靴は履いていなかった。
不思議である。さわさわと土踏まずに感じる草が妙にくすぐったい。
とりあえず、小川に汚いものが流れていないことを損じて口をつけた。
がぶがぶと飲み込んでいく。冷たい水が喉を刺激し生きていることを実感させられる。
すると空腹が思い出したかのように脳みそをつついた。鳴り響くお腹のムシを抑えながらどこか人がいそうな場所を探すべく立ち上がる。
しかし、それよりも先に服を脱いで川で手洗いした。どうせならと小川に飛び込む。
それほど深くはなく、すぐにぬめりとした泥に背中がついた。
乾燥していない服を無理やり着込んで自然の力に期待しつつ、流水に沿って下る。
流れに身を任せるのもいいと思ったが、人に食べ物を乞うのだ。濡れている若造にだれが食べ物などくれるのか。
匂いはある程度とれており、そこまで気にならない。
目的地は案外早々に見つけることができた。
段差になっていた丘を降り始めていた矢先、すぐに城の頭頂部が見えた。
近づくにつれて、こじんまりとしていた城下町はどんどん大きくなり、今では普通の町よりも大きく感じられた。
普通がどんなものかわからないけれど。
その城と町を囲む城壁は中途半端に建設されていた。
右半分だけは大きな白い外壁に守られているのに対し、左側は青い空が見渡せる。
壁の意味なしと嗤いながら左半分へ迂回して中へ入った。門兵がいるのも右側だけだった。
川はそのちょうど亀裂の線に位置していた。つまり川が右側と左側を一刀両断している仕組みだ。
喧嘩でもしたのだろうか。
町の内部は舗装されており、素足では少し痛かった。すれ違う人々は自分を見ると物珍しそうに眺めまわした。
自重の欠片も感じられない。
こちらも仕返しにと見つめ返していると、ある違和感に気付く。
言葉が全く理解できない。
え、なんなの、俺をいじめたいの?
とか思ってしまうほどにわからない。もはや笑いがこみ上げてくる。そこに孤独感はあれど、あまり気にすることじゃなかった。
宇宙人の町に来てしまったのかと思ってしまうぐらいに、
ぺちゃくちゃと口を開く彼らの言葉に耳は何一つとして言葉を認識してくれやしない。
記憶喪失なのはわかりきっていることであるが、物、
たとえば今着ているスーツの名前や露店に置いてある物の名前は考えなくても出てくる。
しかし、言葉を分からないとはどういうことだろう。
言語を組み立てる、覚える脳が壊れたのだろうか。分からないがそんな部分的に能力を失うものだろうか。
記憶を司る方は完全に死んでいるが。
「あーあー、あ、これが俺の言葉か」
日本語、だということは考えなくても分かる。
つまりここは外国ということだろうか。
英語ならば分かるのだが。西アジアとかその辺だろうか。
しかしあれほどのきれいな小川や、城がある場所など聞いたことがない。
「ここは地球じゃなかったりして」
無駄な口を開いたと笑いながら街路を歩いた。
道行く中で、陽気な露店の店主が靴を投げてきた。
びびったが頭を下げて履かせてもらう。サイズは少し大きい。
誰でも履けるようにと大きめを投げてくださったのだろう。ありがたや。
出会う人は確実にこちらを見た。目線は訴えても勝てるぐらいに容赦ない。
だが目が合うと絶対に彼らは目を逸らした。
気づかれなければ見ていいなどという風習でもあるのだろうか。
ならば巨乳の女性の胸を気づかれていなければ揉んでいいということだろうか。
……揉むと気づかれるか。




