9 ―ウサギのお灸―
「……いない」
園舎裏に飛び出し、彼らがいた辺りを見回したが既にその姿はどこにも無かった。
ひと足遅かったか……
私は肩で息をしながら、どこかホッとしている自分がいることを薄っすらと感じていた。
その感覚が、彼らに注意をしなくてよくなったという事実と、園児たちが嫌な思いをしなくてよかったという事実のどちらによるものかは――私自身、わからない。
確かこの備品の前で吸っていたな。
彼らが立っていた場所まで行き周囲の地面を探したが、一応吸殻は捨てていないようだ。
周囲には未だにタバコの臭いが漂っていた。
臭覚でそう感じていると視覚も錯覚してしまうのか、不思議と目の前の空間も煙って見えてくる。
私はタバコは吸わないのでわからないが、これほどまで臭いが残るものなのか?
しかし見たところ吸殻も灰も落ちている様子は無い。
恐らく、しばらくすれば自然と霧散していくのだろう。
その場を立ち去ろうとすると、うすく漂うタバコの臭いに混じる異なる煙の臭いを感じた。
この臭いは、タバコとは違う。
まさか!?
園舎に向けていた足を止め、振り向いた私の視界に入ったのものは、壁際に積み並べられているダンボールのひとつから立ち昇る灰色の煙だった。
タバコの燃えカスがダンボールの中身に引火したのか!?
そのみかん箱タイプのダンボールは、中途半端に開いた口から吐き出す煙を徐々に太いものにしていった。
慌てて煙を出しているダンボールに駆け寄り、煙を避けつつ中身を覗き込んだ。
厚手の衣類のようなものが折りたたまれて箱いっぱいに詰め込まれていた。
もしかすると、園児たちが今日のお遊戯で着るものかもしれない。
どうやら煙はその中の白い衣装から出ている。
注意しながらその煙を出している衣類を箱から引き抜いた。
これは―― 着ぐるみか……?
私が煙の発生地点を確認するため手にした衣類を広げると、まさしくそれは先程の障害物競走で我々の行く手を阻んだ着ぐるみのウサギ(ゾンビ)だった。
これが園児達の衣装ではないことに私が息をついた一瞬、着ぐるみの背中の黒い発煙元が突然明るい赤に変わった。
「うわ!」
いきなりの出来事に思わず着ぐるみを地面に落としてしまった。
い、いかん。発火してしまう!
本格的に火がついてしまう前に火種を消してしまわねば。
反射的に火元を踏みつけて消火を試みた。
「――熱っちぃ!!」
私は踏みつける時の三倍のスピードで足を引き上げ、その勢いのまま後方に倒れこんだ。
熱い熱い熱い! 裸足だったことをすっかり忘れていた。
せめてもの紛らわしで足の裏を叩いてみたが、その熱さを通り越した痛みがそれに騙されてくれることはなかった。
そのまま無駄な紛らわしを続けながら着ぐるみを確認すると、ウサギの背中からお灸程度の煙が細く昇っていた。
こ、こら! おまえだけ癒されるんじゃないよ! こっちは艾すら挟まないダイレクト灸なんていう足ツボマッサージすら生温い苛酷な治療を受けたって言うのに。
火種が消えていないため、このままでは再度発火する可能性がある。
足は駄目だ。これ以上のリラグゼーションは私には必要ないというか御免被る。
何か他にないか?
グルリと周囲を確認すると、十メートル程離れた場所に水道を見つけた。
私はウサギの手を掴み上げると、火傷した部分を地面につけないようヒョコヒョコと走りながら近くにあった水道に駆け込んだ。
ウサギの背中に勢いよく放水すると、小さな火種はあっという間に消滅した。
念のためウサギには全身シャワーを浴びてもらうことにした。
「カイザーに吹っ飛ばされたかと思えば、こんどは火傷か。おまえもツイてないな」
自分の足の火傷に水道水を浴びせながら、蛇口に『く』の字に引っ掛けたウサギを慰めた。
もしこれが園児の衣装だったら……
水浸しになった右足の靴下を脱いで、エルドラドへ向かった。
「ま、またいない……」
モンペ組に注意をする決意をして観覧席に戻ってみたが、そこには彼らの姿はなかった。
勢いを削がれた私は少し冷静さを取り戻すと、またしてもどこか安心してしまう自分に気がついた。しかし、私は普段ならば後から追いかけて注意するなんてことは絶対にしないだろう。
今日は一体どうしたというんだ。運動会の興奮と熱気にでも呑まれているのだろうか。それともエルドラドのお陰で強気になっているのだろうか。
そんなことを考えていると、園舎のほうから園児たちのワーワーという賑やかな声が聞こえてきた。
あのチビッこい子たちも興奮しているのだろう。
ただでさえテンションの高い園児たちだが、今日はなんといっても運動会だ。興奮して当然だ。
しかしその賑やかな声の中に、運動会の相応しくない言葉が紛れていることに気がついた。
「わーーー」
「たいへんー」
「どうするのー? どうするのー?」
「わー! わー」
「けーむーりー! わーっ」
……
ま、まさか……
私は頭に浮かぶ『まさか』を必死で掻き消す。
そんなはずはない。
全身を水道水に浸して他の衣類とは分けてあるのだ。燃え移るわけがない。
しかし、掻き消してもすぐに別の『まさか』が入り込む。
ダンボールの中の火種が――あのひとつだけではなかったとしたら……?
「やー! 火がついちゃったー どうしよーー」
「ねー ねー けしてけしてー」
「むりだよ~~」
発火したんだ!
大変だ。どうしたらいい?
あのダンボールは水道から結構離れているしホースも見当たらなかった。どうする!?
誰かに助けを――
誰か頼める人を……
動揺する頭で助けを探す。
カメラマンエリアの脚立上にカケル君パパを見つけた。
よし。彼に頼んで一緒に来てもらおう。
「か、カケ――」
……いや待て。もしも彼に頼んでこれが火事じゃなければ彼にとってはいい迷惑だ。ただでさえ、あの脚立からは上り下りするだけでも大変だろうし、彼は体力があるわけでもない。
そうだ。もしどうしようもなければ助けを求めればいい。だから今はいい。やめておこう。
そ、それに、この騒ぎなら、すぐに先生達も駆けつけてくるだろう。
私がここから向かわなくても、きっと先生達のほうが早く到着するはずだ。
そもそも私ではない。これはあのモンペ組の起した問題だ。私が無理をする必要なんてないではないか……
「あー! みんなの服がもえちゃうーー わーん」
助けも呼べず、かといって自分が動くわけでもなく、筋の通りそうな理屈を見つけて安心する。
……違うんだっ! いや、違わない。おまえはただ臆病なだけだ。
そうすれば、結果が影響するのは自分だけだから……
相手は何も変わらない。
エルドラドの淡緑のシートの端を掴み、勢いよく捲り上げるとシートの上の荷物がゴロゴロと地面に転がった。
シートを乱暴に手元に巻き取ると、園舎裏に向けて走り出した。
靴下がないのでランニングシューズのソールが火傷の跡に直接擦れてジンジン痛む。
それでも全く構わない。
足の痛みで忘れられるのなら…… 夢中で走ることで消えてくれるなら消してしまってくれ。
頭の中に、これ見よがしに映し出される『ダメな自分』を。




