書物と怒り
「陽毬さんも、ずっと地下に居ては退屈でしょう。地上に戻られても構いませんよ」
水浴びを終えると、昼餉までは手が空く。
宿禰はいつも文机に向かい、書物を広げていた。
少し迷い、陽毬は口を開いた。
「私、ここに居てはいけませんか? 戻っても特段することがなく、私だけ寛いでいるのは、どうにも気づまりなのです。その……お邪魔でなければですが」
宿禰は、驚いて立ち上がった。
「いいえ、とんでもない! あなたが居て下さるなら、こんなに嬉しいことはありません。いや、何だか緊張してしまうなあ」
照れたように頭を掻き、再び文机へと向かう。
日の差さない地下の部屋に、書物を広げる宿禰様と、その横で、刺繍を続けている陽毬。
オイルランプの光だけが揺れ、地下は穏やかな沈黙に満ちていた。
しばらくすると、宿禰は落ち着かない様子で、身体をゆすり始めた。
「あの、僕はいま、幾千年も昔の清国、ええと、唐や隋の頃の本を読んでいるのですけれど」
「え?」
「すみません、急に小難しい話をしてしまって。こういうのは、お好きではありませんよね」
すぐに書物に戻ろうとした彼を、陽毬は慌てて引き留めた。
「ち、違うんです。私にお話して下さるとは思ってなかったのです。あの、どんなお話なのです?」
相槌を打つと、彼の声がぱっと弾んだ。
「はい! この本には、彼の国で大昔から続いてきた、王朝の仕組みが記されていて――」
「あら、それなら、女学校で少しだけ習いましたわ。昔、唐の国はたくさんの国の集まりだったって」
そこまで言い、つい口が軽くなった。
「そうそう、あの時。私ったら、お爺ちゃん先生のお話が聞き取れなくって。半分くらいは夢の中でしたの……あ」
――しまった、話の腰を折ってしまった。
思わず口元を抑えると、宿禰は穏やかに笑っている。
「あはは、実は、僕も同じです。学生の頃は退屈で、居眠りばかりして叱られていました」
「まあ、宿禰様が? 私はその時、運悪く担任の先生に見つかってしまって。右手の甲に十回もの鞭を打たれましたのよ」
話のついでに、何気なく言ったつもりだったのだが。
「何ですって……!」
宿禰の声から、柔らかさが消えた。
「鞭で、陽毬さんの手を――」
陽毬は思わず肩を強張らせた。
「何という教師だ。体罰など、時代錯誤もいいところだ」
目の中の鋭い光に、陽毬は思わず息を呑んだ。
――恐い。
張り詰めた空気を破るように、陽毬は明るく笑ってみせた。
「いやだ、そんなに怒らないで。随分と前のお話ですし……居眠りをした私もいけなかったんです。それに、そんな風に言われたら、少し照れてしまいます」
「あっ、いえ。そういうつもりでは」
宿禰は、慌てて視線を逸らした。
「すみません。少し、熱くなりすぎました。気をつけねば」
宿禰は、努めて声を穏やかに戻した。
「ともかく。僕が本を面白いと思い始めたのも、やむなく勉強を始めてからでした。書物はいい。何も硬い話ばかりじゃなく、情熱的な男女の物語だってあるんですよ」
「まあ、そんなお話なら、私も少し見てみたい気がしますね」
「ああ、でしたらぜひ。地下にある蔵書は自由に手に取ってみてください。分からないところは、たいてい教えて差し上げられます」
「いいのですか?」
「もちろんです」
宿禰の黒目が、嬉しそうにキラキラと輝いた。
正直なところ、陽毬はたしなみとしてやっている刺繍や針仕事が、あまり好きではない。
刺繍糸よりも、机の上に積まれた書物の背表紙のほうへ目が引かれてしまう。
宿禰は、自分の好きなものに陽毬が興味を示したことが、たまらなく嬉しいらしく、それからは、しばらく本の話が弾んだ。
地下で過ごす時間に、またひとつ、楽しみが増えた。




