自慢の花嫁
カン、カン、カン。
庭の鐘楼から響いた音に、陽毬は本から顔を上げた。
「あら、もうお昼だわ」
地下では時が分からないから、この屋敷では刻ごとに鐘を打つことになっている。
「では、参りましょうか」
ふたりは揃って腰を上げた。
昼餉の膳は、陽毬が階段の上で受け取り、階下の宿禰に渡すことにしている。
それを知らず、膳を運んできた使用人が小声で陽毬に耳打ちした。
「いや助かるよ。何せあの化け物だろ。押し付け合いで、ほとほと困ってたんだ」
――この男。すぐ近くに宿禰様もいらっしゃるのに。
気づけば陽毬は、その場で言い返していた。
「まあ、大変。でしたらそのお話、お義母様たちに訴えてみては?」
男はムスッとして黙り込んでいた。
はじめのうち、陽毬は宿禰が地下でずっと独りきりなのだと思っていた。
しかし、午後になるといつも、義父の会社関係の客人が、二、三人ずつ連れ立って宿禰を訪れた。
そうなると、陽毬は隣の部屋に引き上げることになるのだが――
「……ええ、近く、英国よりも亜米利加国の相場が」
「ああ、そうですね。満州へは投資すべきかと……」
「何と、これが『慧眼』の御託宣」
襖越しの話ぶりから、宿禰が商売の先を読む才を買われているのは明らかだった。
部屋にいる間は、みな宿禰の言葉に熱心に耳を傾けていた。
それなのに、廊下を足早に去る足音には、時折、侮蔑の言葉が混じって聞こえた。
「相変わらず、気味が悪いよな」
「社長の命令でなければ、二度と来るものか」
――宿禰様に、聞こえていませんように。
足音が遠ざかるたび、陽毬は心臓をざらりと撫でられたような気分になった。
「……失礼します」
そんな時の宿禰は、陽毬がそっと部屋に入ると、頭巾を外しながら、決まって肩を落としていた。
「ああ、陽毬さん。……今日は少し、人が多くて。すみませんね、お待たせしてしまって」
無理に明るい声を出す、その気遣いがとても痛かった。
けれど。
一昨日来た若い声の客の時は、そうではなかった。
いつものように襖戸をわずかに開けると、笑いの混じった声のあとに、真面目な議論が聞こえてきた。
ふたりの笑い声は、夕方の水浴び前まで尽きることなく続き、その日だけは、不思議と地下の空気が軽かった。
「さっきのお方は? 随分とお話が弾んでいたようですけれど」
水浴びの最中、思い切って尋ねてみると、引き戸を隔てて、楽しげな声が返ってきた。
「ああ、あれは多摩川梓といって、学生時代の悪友です。昨年あたりから商売を始めた、今流行りの青年実業家というやつですよ」
ザザァ~、と水をかける音。
心なしか、声が弾んで聞こえる。
「へえ、多摩川様。お友達なのですね。そういえば今日は、頭巾も外されていましたね」
「よく分かりましたね。彼は、この姿の僕にでも、以前と変わらず接してくれる、変わった男なんですよ」
その声があまりに嬉しそうで、陽毬まで心がぽかぽかとしてくる。
「そうだ! 次はぜひ、彼に陽毬さんを紹介させてください」
「ええっ、よろしいのですか? 私などを」
「はい、あなたさえよければ」
ザザァ~。
水音の後、少しくぐもった声が聞こえてくる。
「僕だって、人並みに陽毬さんのことを自慢してみたいんです。あなたの不名誉にならなければ、ですが」
「そ、そんな……」
さて、夕餉を終えると、あとはもう眠るだけ。
「それではまた。おやすみなさいませ、宿禰様」
「おやすみなさい、陽毬さん。今日もありがとうございました」
清らかに輝く黒い目に見送られ、陽毬は地上へと帰ったのだが。
――『自慢してみたい』
あの言葉にすっかり舞い上がってしまい、その夜はちっとも寝付けなかった。




