地下の朝
陽毬は、お姫様のような天蓋付きの寝台で目を覚ますと出窓をいっぱいに開けた。
「うーん、いい朝」
朝日とともに、陽毬は新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
ちりん、ちりん。
枕元のベルを二度鳴らすと、扉の外からパタパタと足音が聞こえてきた。
「若奥様、おはようございます」
使用人のタミが、おさげ髪を揺らしながら、朝餉を運んできてくれたのだ。
「ありがとう」
礼をいうと、タミはおっとりと微笑んだ。
「わあぁ、素敵な京擦り。よくお似合いです」
「ありがとう。宿禰様が贈って下さったのよ。新しいビジネスのために、婦人服の流行を勉強しておられるのですって」
「あら、『ビジネスに』なんて言っておいて、本当は奥様に喜んでもらいたいだけなんじゃありませんか?」
「いやだ、からかわないで」
女同士のおしゃべりをしながら、ゆっくりと採る朝食。
このひとときだけが、陽毬がお日様の下に居られる時間だ。だから陽毬が地下へ向かうのは、いつも少しだけ遅くなる。
厨房で宿禰の膳を受け取ると、そろりと足元に気を配りつつ地下へと向かった。
壁に隠したレバーを引き、地下への扉を開けるのには慣れたが、階段の前に立つとまだどこか身構えてしまう。
それでも、下ではもう宿禰が灯りをともしていてくれる。
そう思うと、足はやはりそちらへ向いた。
「おはようございます、宿禰様」
「おはよう、陽毬さん」
襖を開けると、宿禰はすでに布団を上げて、文机の前で書き物をしていた、
「昨日はよく眠れましたか?」
「ええとても。昨夜はとても涼しくて、風が心地よく吹いていました。宿禰様は?」
「僕は……そうですね。何か、長い夢を見ていた気がします」
「へええ、それはどんな夢?」
「ええっと……すみません。忘れてしまいました。小さな頃のことだったかも知れません」
わずかにランプの灯りが揺れた気がして陽毬はさっと視線を伏せた。
「そうですか。ではまた、思い出したら教えてくださいね」
「はい、すみません」
食事の支度は、一緒にする。
「まあ、そんなの私がやりますのに」
最初、お櫃から飯をよそおう宿禰に言うと、彼は目を丸くした。
「これくらい。学生の時分は、飯も自分で炊いていましたよ」
「まあ、一人暮らしをしていたのですか」
陽毬は、目を輝かせた。
「はい。その頃の僕は、人の姿をしていましたから。相部屋の友人と、どちらが飯を炊くか、なんてことでよく揉めていました」
その声に滲む懐かしさに、陽毬の胸はじんわりと温かくなった。
食事の後、宿禰は決まって水浴びをした。
「ふう……宿禰様、三つ目を降ろしまーす」
「ありがとう、あの、もう少しゆっくりでも構いませんよ」
井戸水のたっぷり入った桶を、下の宿禰に渡してしまうと、陽毬は両手に息をかけた。
「大丈夫よ、次をお持ちしますわね」
階下に向かって明るい声を出した。
この病は乾燥に弱く、朝夕二度、たっぷりと水を浴びなくてはならないそうだ。
――残り、あと四杯。
ふうっ、と息を吐くと、陽毬は額の汗を拭った。
元々は男の使用人の役目だったものを「気味が悪い」と漏らすのを聞き咎め、以来陽毬が引き受けている。腕はつらくとも、あんな無礼を聞かされるよりはましだ。
水浴びは、いつも宿禰がひとりで済ませる。
これについては最初の日に、
「終わるまでは、決してこちらへは来ないでくださいね」
などと恩返しの鶴のように言われてしまった。
それは冗談めいた口調だったが、逆らわせぬ響きがあった。
今日もまた、水音の向こうで、彼が息を整えている気配がする。
その間、陽毬は廊下に椅子を置き、刺繍をして待った。
けれど、その呼吸が時折、人のものとは思えない、深く、重たいものに感じられ――気づけば椅子は、少しずつ浴室のほうへ寄っていた。
ひと月も経つ頃には、風呂場の真正面が陽毬の居場所になっていた。
今日も陽毬は、水音の向こうの気配から、目を逸らせなかった。
怖いのに、もっと近くに居たかった。




