ご対面
「お初にお目にかかります。陽毬と申します」
私はさらに頭を深く下げた。
胸の内で、脈が忙しなく跳ねていた。
薄暗い地下の雰囲気とは裏腹に、部屋からは品の良い白檀の香りが漂っていて、陽毬の張り詰めた気を緩めてくれた。
額を床につけたまま、陽毬はそっと視線を上げた。
文机に向かい、何か書き物をしていたらしき背中があった。紺の作務衣に包まれた広い背中は落ち着きを湛えていた。
やがて彼は帳面を閉じ、ゆったりとした動作でこちらを振り向いた。
「あ、ども。宿禰っす」
「きっ……」
顔を上げた瞬間、喉から悲鳴が飛び出すのを、辛うじて堪えた。
――信じられない。
義母の念押しも、義父が来なかった理由もようやく分かった。
目の前で照れくさそうに頭を掻いている青年。
その姿は紛れもなく、巨大で、人の言葉を話す――
蛙だった。
「あ、あ、あ、あ……」
思わず後ろを振り向けば、すでに義母の姿はない。
恐る恐る、正面に向き直ると、目の前の蛙は、頭を掻いて笑っていた。
「いやぁ、まいったなぁ」
――お義母様、逃げたんだわ。
実は父も騙されていて、私――生け贄だった?
だから、衣装も道具も要らなかったの?
逃げ出したい。それでも、身体が動かなかった。
蛙の青年は、おかまいなしに朗らかに言った。
「ああ、そりゃびっくりしますよねぇ。僕、こんな姿ですから。あ、でも安心してくださいね。別に、取って食ったりしませんから」
「あ、は」
視線を上げれば、きちんと正座をし、距離を保っている。
「ええっと……宿禰……様?」
「はい」
深呼吸で、何とか息を整えた。
「あの……そう! かような病は初めて目にしたものですから、つい驚いてしまいました。お、お、お赦しくださいませ」
「へえ」
蛙は、人よりは随分と高い位置にある黒い瞳をきょろりと動かした。
「あなた、僕が恐くはないのですか? 地下へ来た方々は皆、母上でさえ、長くは居られず逃げてしまうのに」
ふと、声が乾いた気がした。
陽毬は、懸命に傷つけない言葉を探した。
「ええっと……正直、驚いています」
陽毬は、床の木目をなぞるように追いかけた。
「でも宿禰様は、最初から私を怖がらせまいとなさっていたでしょう?」
視線を、横のランプに流す。
「だから私も、失礼な態度はだけは取りたくなくて……す、すみません。まだ少し、緊張しています」
「なるほど」
彼は、感心したように腕を組むと、大きな口元に手をあてた。
「あなたは、大層肝の座ったお方だ。これまでに五人、花嫁として地下へいらっしゃいましたが」
蛙はぱちりとまばたきをした。
「皆、僕を見るなり悲鳴を上げて、逃げ出してしまいました。だってほら、僕の面相は蛙みたいでしょう?」
「ええ、少し……ふふっ」
水かきがうっすらついた両手で己の顔を指差す仕草がどこか剽軽で、笑みがこぼれる。
「ご婦人方が嫌がるのも、無理はありません」
宿禰の瞼が、大きな瞳を半分覆った。陽毬の胸がちくりと痛んだ。
「あの! 私、よく変わりものだと言われます」
今度は、陽毬が自分のことを語る番だった。
「蟲や物怪が、さほど怖いとも思いません。好奇心のほうが勝ってしまって。女学校でも浮いてしまって、父や母も手を焼いていたと思います」
宿禰は、朗らかに笑った。
「ははっ、そうですか。あなたが変わり者で、本当に良かった。初対面の僕と……ちゃんと言葉を交わして下さる方がいるなんて。まるで夢みたいだ」
冗談めかしたその声には、寂しい色が滲んでいた。
「あの、ちなみにその病はいつから? お医者様は何と仰られて? お義母様は、私の看病次第で治癒するものと」
「ああ、あなたの好奇心は相当だな。まあ……そのあたりは、またいずれ」
彼はやんわりと遮ると、穏やかに告げた。
「今日はもう、ゆっくりと休まれてください。部屋は、父が地上に一番日当たりの良い処を準備してくれていますから」
「お部屋は別々なのですか?」
「はい。母からはお叱りを受けましたが……僕からお願いしました。あなたがここに居る間、少しでも快適に過ごせるように」
言葉の端に、どこか〝ここに居る間だけ〟という響きを感じたが、深く考える余裕はなかった。
「はい、ではお言葉に甘えて」
改めて三つ指を突く。
すると、頭上から少し慌てた、優しい声が落ちてきた。
「ああ、どうか御顔をお上げ下さい。あなたのことは、〝陽毬さん〟とお呼びしたらいいのかな?」
「はい、私は〝宿禰様〟と」
「では改めて。よろしくお願いします、陽毬さん」
「こちらこそ、宿禰様」
つるりと滑らかな青白い手にそっと触れる。
黒い瞳が、きらきらと光っていた。
*
地下を上がると、同い年くらいのお女中さんが控えていて、陽毬を部屋に案内してくれた。
白い出窓に、レエスフリルの天蓋つきの寝台。まるで西洋の物語にある姫君の部屋へ迷い込んだようだった。
帯を解いてもらい、浴衣を渡してくれた後、お女中さんは礼をして去っていった。
「は〜、疲れたぁ」
ひとりになった途端、陽毬は羽根布団に身を投げ出した。
地下の隠し階段。蛙の姿の宿禰様。
あまりに奇抜なことばかりで、頭の中がまだふわふわしている。
それでも、思い返すたび胸に残るのは、あの深く穏やかな声と、きらきらと光る黒い目だった。




