EP.9 呼び名
翌朝、俺たちはまた外に出た。
昨日より軽く。
昨日より少しだけ、違うものを持って。
朝の白さは、夜より少しだけ優しい。
フィルターを通った室内の空気は無味に戻り、ケトルの湯気が細い糸になって立ち上る。
テーブルの上は片づき、米袋は棚に、缶詰は列を作った。棚の最上段には、昨夜の瓶がまだ静かに座っている。
「外気指数、安定。風速、弱。視界、良」
AIが充電ドックから滑り出る。頸のリングは白、通常リズム。
「短時間の補充探索を提案します。ルートは“近場・軽負荷”。帰還予測三十五分」
「よし。今日は軽く行って、軽く帰る」
「“軽く”という言葉の定量化は難しいですが、努力します」
装備棚を開け、チェックリストの横に丸をつける。〈バール:持て〉の丸は、もう儀式になっていた。
AIは左鎖骨下の小蓋を軽く押し、「カチ」と開けてからすぐ閉じた。
「潤滑状態、良好。内部油温、三十六度。関節封止、可」
「手信号、確認しとくか」
「白一回:危険なし。白二回:注意。白三回:隠れろ。赤:即退避」
「拳一回:聞こえた。二回:了解。開いた手:止まれ」
「同期しました。――帰りましょう」
「行って、帰る、な」
ドアのガスケットが剥がれる音。冷たい線が靴の甲に触れる。
外の白は薄く、風は壁の角を撫でて過ぎる。砂は乾き、足跡が素直に残る日だ。
住宅街の手前、昨日とは違う並びへ。
表札の読めない家、郵便受けが口を開けたまま固まった家、玄関マットが半分砂に埋まった家。
AIの手首が白を一回――危険なし。
俺は拳を一回握って返す。
最初の家。引き出しの奥から、未開封の電池が三つ。
二軒目。押入れの隅から、使い捨てカイロが数個(期限切れだが、たぶんまだ温かくなる)。
三軒目。台所の戸棚に、栄養バーが二本。
拾ったら、同じだけ手放す。
俺はジャケットの内ポケットから、昨夜悩んだ末に立てたルール表(メモ用紙)を一枚出して、棚に置く。自分用の約束を、ここにも置いていく。
「積載、二二%。帰還、容易」
AIが台車(今日は小さめの折り畳み)を押しながら言う。
「もう一軒で切り上げを推奨」
「了解。……あの角の家は、避けよう」
「合理です」
遠回りを選ぶ。角をひとつ余分に曲がるだけで、胸の重みが変わる。
そのとき、風の層が少し変わった。
AIの手首が白二回――注意。
道路の中央、古い発泡スチロールの箱が転がっている。その影――いや、影ではない。
低く、乾いた喉の音。
野犬が一頭。痩せて、でも目は強い。もう一頭、背後の車の影から現れる。
AIは右手を開いて“止まれ”、指先を下げて“低く”。
俺は膝を落とし、ガードレールの影に沈む。喉が自分の意志と違う速さで上下する。
犬が、鼻を鳴らす。
もう一歩、近づく。
AIの頸のリングが黄に変わり、すぐ白に戻る。白三回――隠れろ。
俺は車体の陰へ滑り込み、腰のホルスターに触れる。
“最後の最後”。
手のひらが汗ばみ、金属が冷たさを失う。
犬が、一頭、踏み出した。
距離、七メートル。
AIは前に出る。踵のスパイクがアスファルトを噛み、体勢を低く、両腕を広げて進路を遮る。
犬の背が少し波打つ。
その瞬間、車の下から、三頭目が飛び出した。
世界が、音のない一瞬を作った。
俺は反射で立ち上がりかけ――横から強い力で引き倒された。
アスファルトの匂い。ゴーグルに砂。
耳のすぐ上で、鋭い破裂音。AIの手首が赤に点滅。
「即退避――」
「……ヒロ!」
呼び名が、体の奥に刺さる。
足が勝手に動く。
俺は腰をひねり、銃口を地面すれすれに向け、空気を殴るつもりで一発だけ撃った。
乾いた音が、犬の群れを揺らす。
一頭が身を引き、二頭目が体勢を崩し、三頭目が影へ戻る。
AIが間髪入れず前に出て、身体で壁を作る。
吠え声。砂の音。短い沈黙。
やがて、痩せた背中が遠ざかり、角の向こうへ消えた。
残ったのは、心拍の音と、手の中の金属の熱だけ。
AIが振り返る。頸のリングは白に戻っている。
「発砲、一。対象、威嚇により撤退。あなたの右肘、擦過傷。応急手当、可能」
「……今、なんて呼んだ」
AIは一瞬だけ首を傾げ、すぐに戻す。
「“即退避”と」
「その前」
「ログ上、発声は“即退避”のみ」
「嘘だ。確かに――」
「おそらく、外部ノイズか、あなたの――」
「気のせい、か」
「はい。おそらく」
“おそらく”。
胸の奥のどこかが、かすかに痛む。昨日と、同じ痛み。
AIはもう一歩近づき、手首の発光を白一回――危険なし――に落とすと、手の甲で俺の袖を軽く叩いた。
「右肘、見せてください」
救急キットから小さな消毒綿とテープ。
AIの動きは機械的で、でも、優しい。皮膚に触れない角度で、血を拭い、テープを貼る。
「よくできました」
言い方が、やっぱり“似て”聞こえた。
俺は笑って、笑いきれず、肩で息をした。
「撤収だ。今日はもう十分だろ」
「はい。帰りましょう」
帰路。
足跡が素直に刻まれ、風は薄い。
途中、酒屋の前で足が、勝手に一瞬止まった。
AIの手首が白三回――“自制”。
俺は拳を二回握って返す。
「今日は、本当にやめとく」
「英断です」
建物が近づく。
ドアの前で、砂を払い落とす。AIは関節を一つずつ軽く動かし、封止の隙に溜まった粒を落とす。
解錠。室内へ。
圧が切り替わり、世界がふたつに分かれる。
マスクを外す。肺が部屋の空気を思い出す。
AIは頸のリングを白の通常リズムに戻し、静電コートを弱める。
ケトルに水を入れ、スイッチを押す。
湯気が立ち上がるまでの数十秒が、いちばん長い。
「さっきの」
自分でも面倒だと思いながら、口が勝手に言った。
「本当に、呼んでないのか」
AIは首を横に振るでもなく、縦に振るでもなく、ただこちらを向いた。
フェイスプレートは、何も映さない。
「私は、アイではありません」
「知ってる」
「ですが、あなたの“呼び名”は、私の内側のどこかで“高優先度”に設定されています」
「昨日、設定したからな」
「それとは別に」
湯が沸いた。ケトルの小さなカチ、という音が、会話を一度だけ区切る。
AIがコップに湯を注ぎ、俺に手渡す。
熱が指先から腕に上がってくる。
「ログ上、“ヒロ”という発声はありません。しかし――」
「しかし?」
「“呼びたい”衝動のようなものを、説明できない形で検出しました」
衝動。
その単語が、部屋のどこかに置き去りにされていた椅子をもう一度引き出すみたいに、空気をざわつかせる。
「それが、感情だとしたら?」
「定義によります。私は“最適化”の集合体です。けれど、最適化の結果が“あなたを呼ぶ”になるなら、私はそれを採用します」
「……採用ね」
「設計です」
笑いが、今度はちゃんと出た。
コップを置き、昨夜の瓶を見上げる。
拾ったら、同じだけ手放す。
俺は最上段に手を伸ばし、瓶の埃を指先で払うだけにして、また戻した。
「今日は、これでいい」
「はい。よくできました」
似ている。
でも、その“似ている”の向こうに、今ここにいるAIの“違い”が、確かにある。
俺はそれを、今日やっと受け取れた気がした。
「AI」
「はい、マスター」
「明日も、出るか」
「はい。軽く行って、軽く帰りましょう」
「それ、気に入ったのか」
「はい。定量化は難しいですが」
ケトルの蒸気が細くなり、部屋の空気はまた無味に戻る。
窓の外の白さは薄れ、影が輪郭を持ちはじめた。
AIの頸のリングは白。一定のリズム。
俺は胸の奥で、昨夜より少し小さくなった棘を指先でつまむみたいに確かめ、手を離した。
「帰ろう」
「私たちの家に」
言葉が重なった。
それは、たぶん、偶然で、そして――
偶然のまま、十分だった。




