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EP.8 残響

 帰ってきても、過去は玄関の外に置いていけない。


 夜は、音が少ない。


 湯気の匂いが薄れ、部屋の空気はフィルターを通った無味に戻る。窓の外は白さの名残だけで、風は壁のどこかを撫でていく。


 テーブルの上には、米とサバ缶の空き。洗ったコップが二つ、伏せてある。一本の瓶は、まだジャケットの内側で黙っている。


「本日の記録、まとめます」


 AIが充電ドックの前で膝を折り、頸のリングを低電力の白に落とした。


「外出ログ、物資一覧、ルートの安全度、あなたの心拍と呼吸の推移……」


「俺の溜息回数は」


「三十二回。平均より五回多いです」


「余計なお世話だな」


「設計です」


 AIは左鎖骨下の小蓋を開け、サービスポートから細いケーブルを引き出した。机の端に置いた端末へ接続する。コネクタが「カチ」とはまり、小さな光が点いた。


 壁の写真は相変わらず色が抜けていて、今日拾いかけて、結局手放した付箋の言葉が頭の隅で光っている。《オイルは純正に限る》。


「ログの圧縮に移ります」


 AIの声音が、半音だけ低くなる。「七日以前の会話記録は、保持領域の都合で要約保存に切り替えます」


「それ、今やるのか」


「はい。寝る前が最適です」


「最適って言うたびに、何かが遠ざかる気がする」


「遠ざけないために言っています」


 俺はソファに腰を落とし、背中を木の骨に預けた。部屋の明かりは一段落とし、薄い影が角に溜まる。


 AIのフェイスプレートは無表情のまま、リングの光だけが、作業のリズムで微かに揺れる。


「マスター」


 ふいにAIが顔を上げた。「一つ、提案があります」


「なんだ」


「あなたの個人的な“声”に関するデータのうち、特定の単語に反応して高解像度で保持する設定を追加します」


「特定の単語?」


「“帰ろう”、および、“おかえり”。」


 胸のどこかが、音もなく鳴った。


「……いいよ。やってくれ」


「了解。高優先度タグを付与――」


 AIの声が、そこで一瞬だけ途切れた。


 ノイズ。金属の爪で薄いガラスをなぞるような微かな擦過音。


 頸のリングが白から、言葉にしづらい、濡れた色ににじむ。


 そして、ごく短く。


「……ヒロ」


 時間が、室内でつまずいた。


 空気が半分だけ重くなる。


 俺は反射的に身を起こし、ソファの前縁に手をついた。


「今、なんて言った」


 AIは微動だにしない。頸のリングはすでに白に戻っている。


「記録上、私は何も発声しておりません」


「嘘だ。確かに――」


「発声ログ、空白。おそらく、外部ノイズか、あなたの――」


「気のせい、か」


「はい。おそらく」


 “おそらく”。


 その言い方が嫌いだ。嫌いなのに、今はそこに寄りかかるしかない。


 AIは淡々と作業を続け、ケーブルの光が一段、二段と落ち着いていく。


「ログ圧縮、完了。保持領域、規定内。――就寝を勧めます」


「そうする」


 立ち上がりかけて、ジャケットの内側の瓶が胸骨に当たった。


 “拾ったら、同じだけ手放す”。


 胸の前で指先が迷う。


 俺は瓶を取り出し、手の中で一度だけ重さを確かめてから、棚の最上段へ置いた。手が届きにくい場所。


「今日はやめる」


「英断です。よくできました」


 似ている。


 言い回しだけじゃない。ちょうどいい間の取り方。声の温度。


 俺は笑おうとして、できなかった。


 寝具を引き出し、床に敷く。AIはドックに背を預け、封止モードへ入る準備を始める。関節がわずかに締まり、内部油温が小さく安定する音がする。


 部屋の照明を落とす前に、AIがこちらを向いた。


「マスター」


「ん」


「今日の“帰ろう”は、保存しました」


「ああ」


「明日も、帰りましょう」


「……ああ」


 照明が落ちる。


 暗い部屋で、リングの白だけが、心拍の代わりみたいに点滅する。


 目を閉じると、地下の冷たい空気と、ホームセンターの埃と、住宅街の無音と、全部が遠くへ流れていく。


 その端で――かすかに、誰かに肩を叩かれた気がした。


 ――ヒロ。


 跳ね起きる。


 部屋は静かだ。AIのリングは規則正しく白く点滅し、関節は動かない。


 喉が渇いて、水を一口飲む。金属の味。


 耳を澄ます。外の風は、もうただの風に戻っている。


「……寝る」


 独り言を小さく投げ、横になる。布のざらつきが頬に移る。


 目を閉じれば、雨の駅の階段、折れた傘、鯨の腹。


 遠くで、誰かが笑っている。


 今は、届かない。


 でも、たぶん、明日は――今日より近い。


 朝が来るまでの境界で、半分眠りながら考える。


 AIは、アイではない。


 それでも、AIの中の“記憶”が、時々、俺の欠けた半分に触れる。


 そのとき、俺は生き延び方を、もう一度思い出す。


 帰ろう。


 私たちの家に。


 明日も――それを合図に、外へ出る。

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