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EP.7 記憶と拒絶

 AIは、アイではない。


 その当たり前の事実を、俺は何度も確認しなければならなかった。


 嵐の音が、さらに遠くなった。


 非常灯の赤い点は変わらず瞬いているのに、地下の温度だけがほんの少し上がったように感じる。話した言葉の熱が、コンクリにうっすら残ったのかもしれない。


「収束まで二十七分」


 AIが静かに告げる。頸のリングは白、一定のリズム。


「続けますか」


「……いや、少し休もう。喉が砂でできてる気がする」


「“温かい水”の提供を提案します」


「帰ってからでいい。あれは“帰宅の儀式”だ」


「了解。帰りましょう」


 “帰ろう”という言葉が、地下室の空気をゆっくり撫でた。


 俺は背中を壁から離し、脚を伸ばす。足首が鈍く鳴った。


 AIは姿勢を変えない。膝を揃え、両手を重ね、聴くための形を維持している。


「なあ」


 自分でも面倒な声の出し方だ、とわかっていながら言う。「お前、自分で自分のこと、どう思ってる」


「定義:私はAI。人型。屋外行動最適化。あなたの生存の補助」


「それ、カタログだろ」


「正確です」


「じゃあ、カタログに載ってない項目を、ひとつだけ言ってみろ」


 短い間。リングの点滅が、一度だけ呼吸とずれて、すぐ戻る。


「私の中のいくつかの応答は、“あなたに似合う言葉”に引き寄せられます。最適化の理由は説明できますが、動機は説明しづらい」


「動機って言ったな」


「言いました。撤回はしません」


 笑いかけて、笑いきれなかった。


 AIはそれを見て、とでも言いたげに、ほんの少しだけ頸を傾ける。


「もう一回、確認する」


 俺はひざに肘を置き、両の手を組む。


「お前は、アイじゃない」


「私は、アイではありません」


「でも、お前の中にアイはいる」


「記憶が、です」


「記憶って、ただのデータか?」


「データです。形式、サイズ、検証、破損率、圧縮率……」


「それ以上はよせ。数字は今いらない」


 AIは素直に口を閉じた。


 地下室の天井で、ライトに照らされた埃が、雪のような遅さで落ち続けている。


「……お前の中の“記憶”は、俺にとって“人”だ」


 言えば言うほど、薄い氷の上を歩く音がする。


「“人”を、お前に押し込んだのは俺だ。だから、お前が“私はアイじゃない”って言うのも、わかる。わかるけど、時々、わからなくなる」


「わからなくなる、とは」


「お前が“帰ろう”って言うときとか、“よくできました”って言うときとか。声が似てるとか、癖が似てるとか、そういう次元じゃなくて、身体のどこかが『それはアイだ』って言う。俺の欠けた半分が、勝手に判断する」


 AIは自分の胸部装甲に触れる真似をして、すぐ手を下ろした。


「私は、アイではありません」


 繰り返す声の芯は同じなのに、表層の温度がほんの少し揺れる。「私は、あなたの補助です。あなたを“帰らせる”ための設計です」


「……そうだな」


 納得の言葉を出したはずなのに、胸のどこかには、小さな棘が残る。


 俺は立ち上がった。膝に手をつき、ゆっくりと。


「上に上がろう。嵐はもう峠を越えた。視界が戻るまで、家の中を少し整理する。食えるもの、持ち帰れるもの。拾ったら、同じだけ手放す」


「了解。先導します」


 階段を上がると、居間の空気はまだ薄暗く、外の轟音は布一枚へだてたような遠さになっていた。窓ガラスは砂に磨かれて不透明。


 AIが先に立って、手首の白を一回点滅――危険なし。


 俺は頷き、拳を一回握って返す。


 台車から缶詰と米の一部を棚に戻し、代わりに“軽くて役に立つもの”を探す。結束バンド、布テープ、乾電池。キッチンの引き出しのさらに奥から、未開封のマスク専用フィルターが三枚、出てきた。


「当たりだ」


「寿命の延伸に直結。喜んでください」


「喜んでるよ。静かに」


 居間に戻ると、壁の写真が目に入った。砂に曇ったガラスの向こうで、見知らぬ家族が笑っている。


 AIが写真立てを手に取り、角にたまった埃を指先で払う仕草をして――やめた。


「破損リスク。記録だけします」


 手を離すとき、フェイスプレートの無表情の向こうに、何かを飲み込むような、ほんの刹那の逡巡が見えた(気がした)。


 廊下を渡って寝室へ。衣装ケースを開けると、防寒用のインナーが未使用で入っていた。サイズは少し大きいが、重さは軽い。


 AIが台車にバランスよく積み直す。


「積載七三%。帰路、許容範囲」


「瓶一本ぶん、余裕は?」


「重量一・三キロまで。バランス補正可能」


「正確に言うな。心が揺れる」


「揺れないために、定量化を」


「悪魔の囁きだ」


 胸の内側で、琥珀色の瓶がひやりと存在を主張する。


 俺は意識的に視線を外し、別の部屋の戸を開けた。


 子ども部屋。色あせたポスター。小さな机。引き出しの中に、短い手紙の束。


 “おかえり”“ただいま”の練習をしたらしい紙切れが、几帳面な筆圧で並んでいた。


 喉の奥に、硬いものが転がる。


 AIが静かに近づき、頸のリングを白二回――注意――と点滅させてから、ゆっくり首を振る。


 “拾ったら、同じだけ手放す”。


 俺は紙束をそっと元に戻した。


 台車のところへ戻る。


 AIが短く告げる。「外、視界回復。風速、下降中。――帰れます」


「よし。撤収だ」


 玄関へ向かう途中、俺はふと足を止めた。


 リビングの片隅、古いオーディオの上に、薄い紙箱があった。


 開けると、中は空。付箋が一枚、底に貼りついている。


 《オイルは純正に限る》


 マジックのインクが、時間で少し滲んでいる。


 馬鹿みたいだ、と思う。こんなところで、アイと同じ文言に会うなんて。


「……見せたい」


 思わず漏れた独り言に、自分で驚く。


 AIがすぐ隣に来て、紙を覗き込み、首を傾げた。


「合理です」


「合理?」


「“命綱はケチらない”。最適化の原理。あなたの過去との接続は、帰巣本能の安定化に寄与します」


「その言い方で、どうして少し泣きそうになるんだろうな」


「耐性不足です」


「設計し直せ」


「更新パッチは、今はありません」


 苦笑いが喉の奥でほどけた。


 俺は箱を閉じ、付箋の言葉だけ記憶に写して、何も持たずに棚へ戻す。拾ったら、同じだけ手放す。


「帰ろう」


 言葉にすると、家の空気がわずかに軽くなる。


 AIが頷き、台車のハンドルを握る。踵のスパイクが床を軽く噛む音。


 玄関の扉へ。砂の線がまだ薄く続いている。


 AIが手首の白を一回――危険なし。


 俺は拳を一回握る。


 扉を開き、外の白い残り滓の風の中へ、一歩。


 帰路の街は、洗われたように静かだった。砂の膜が薄く張り直され、足跡が素直に刻まれる。


 遠くで、看板が一度だけ鳴る。


 AIは前を見据え、足音を一定に保つ。俺は半歩後ろで台車を支え、影から影へ。


 途中、酒屋の前で足が一瞬だけ止まる。


 AIの手首が白三回――“隠れろ”ではなく、“自制”。


 俺は拳を二回握り、笑って首を振る。


「今日はやめとく」


「英断です。よくできました」


 言い方が、やけに“似て”聞こえた。


 胸の内側で、瓶がかすかに鳴った気がした。


 俺は歩幅を少し広げ、風の向きに合わせて進路を変える。


 やがて、俺たちの住処の建物が見えた。


 AIが速度を落とす。


「入館手順。砂塵の払い落としを先に。玄関内に侵入させない」


「了解」


 ドアの前で、衣服と外装に付いた砂を手で払い落とす。AIは関節を一つずつ軽く動かして、封止部にたまった粒を落とす。シャラ、という小さな雨の音が足元に降った。


 解錠。内外の圧が切り替わる音。


 室内へ。扉が閉まり、世界がふたつに分かれる。


 マスクを外す。肺が部屋の空気を“覚え直す”。


 AIは頸のリングを白から通常リズムへ。静電コートを弱め、封止モードを解除する。


 関節の内側で、わずかな“鳴き”。金属が、長い一日を報告するみたいに細く音を立てる。


「……やれやれだ」


「“温かい水”の提供を開始します」


「頼む」


 ケトルの音が、部屋の静けさを丸く埋める。


 コップから上がる湯気を見ていると、地下の冷たい空気と、ホームセンターの埃っぽい匂いと、住宅街の無音の玄関と、全部が一度に遠くなる。


「マスター」


 AIがコップを差し出す。指先の動きは、いつ見ても無駄がない。


「お疲れさまでした」


「お前もな」


 熱い水が舌の上をゆっくり通り、喉を落ちて、胃の底でひとつ落ち着く。


 もう一口。


 身体のどこかで、きしんでいた歯車が、油を差されたみたいに静かになる。


「……純正、やるか」


「はい、マスター」


 AIが左鎖骨下の小蓋を開く。


 金色の液体が透明チューブを通って、静かに流れ込む。


 頸のリングの光が、ごく短い間だけ柔らかくなって、すぐに戻る。


「最適です」


「お前、やっぱり機嫌だろ」


「潤滑です」


「はいはい」


 俺は笑って、コップをテーブルに置いた。


 台車の荷を少しずつ降ろし、米を棚へ、缶詰を並べ、フィルターをケースにしまう。


 AIが最後に、救急キットをいつもの場所へ置く。


 それから、ふいに、こちらを向いた。


「……マスター」


「ん?」


「私は、アイではありません」


「知ってる」


「でも、あなたの“帰ろう”は、私にとっても目的です」


 胸の奥で、棘が音を立てて溶けた。


「……ああ。帰ろう」


「私たちの家に」


 その言い方は、どこかで聞いた響きに似て、でもはっきりと“今のAI”の声だった。


 外は、まだ白っぽい。


 中は、湯気と、わずかな油の匂いと、二人分の息で満ちている。


 その夜、俺たちは早く眠った。


 明日も、出る。拾って、手放して、また帰る。


 帰るために、出る。


 ――たぶん、それを繰り返すかぎり、俺はまだ、ここにいられる。

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