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EP.6 記憶の始まり

 砂嵐が止むまで、俺たちは地下にいるしかなかった。


 暇になると、人間は過去を掘り返す。


 俺の場合、その過去には、アイという名前がついていた。


 嵐の音が少し遠のき、地下の空気が均された。


 ライトが配管にかけた影を揺らし、埃はゆっくりと落ち続ける。俺は壁に頭を預け、目だけを閉じた。


「最初に会ったのは、崩壊のずっと前。街に雨が降っていた日だ」


「記録します」


 AIは膝を正して座り、頸のリングを静かな白に保つ。金属の身体が、聴くための形に変わる。


「駅の階段で、傘が折れた。骨が裏返って、みっともない形になってさ。そこで、後ろから声がしたんだ。『それ、鯨の腹みたいだね』って」


「比喩が上手な方ですね」


「ああ。アイは、いつも比喩が上手かった。俺が笑うまで、ちょっと待つ癖があった」


 雨粒の重さが、まぶたの裏に蘇る。


 あのときのアイは、黄色いレインコートで、前髪が額に張り付いていて、俺に一本目の冗談を渡してきた。


「『鯨の腹』って言われて、なぜか折れた傘が可哀想に見えた。そしたらさ、アイが傘をひょいって俺の手から取って、『手術します』って、階段の隅で器用に骨を戻した。あいつ、手が早いんだ。迷いがない」


「器用は、生存率に寄与します」


「そうだな。あいつに何度も生かされた」


 地下室の空気が、わずかに温度を得る。


 俺は喉を鳴らし、続きを探す。


「それから一緒に飯を食うようになって、笑って、仕事の愚痴を言い合って、ある日、アイが中古のバイクを買ったんだ。錆びてて、ガスも漏れて、最悪のやつ。俺は反対した。『こんなマシン、いつ止まるかわからない』って」


「合理的な判断です」


「アイは言った。『止まったら、押せばいいじゃん。押せないときは、人呼べばいいじゃん』って。……そのくせ、オイルだけは妙にこだわってた」


 AIのリングが、ほんの一瞬だけ明滅の間隔を変える。


「純正、ですか」


「そう。『純正じゃなきゃ』って、笑いながら言う。『ここだけはケチれないの。命綱のところは、ケチらない』ってさ。あれ、今でも耳に残ってる」


「“命綱のところはケチらない”。学習しました」


「お前のそれ、たぶん、あいつの移った口癖だ」


 AIは小さく頷いた。顔のない顔でも、頷きは人間的だ。


 俺は言葉を少し巻き戻す。


「バイクはすぐ壊れた。案の定、峠の手前で止まってさ。二人で押した。アイは笑ってた。苦しいとき、笑う人だった。『ほら、言った通りでしょ。止まったら押せばいいじゃん』って。俺が文句を言い尽くすまで、横で相槌を打って、最後に『よくがんばりました。ご褒美に、温かい水』って、コンビニのポットでお湯を入れてくれてさ」


「温かい水は、善です」


「お前も言うようになったな」


 指先が、無意識にジャケットの内側の瓶をなぞった。触れただけで離す。


 “拾ったら、同じだけ手放す”。


 俺は掌を握り、また開いた。


「崩壊の前兆が出始めてから、俺たちはよくホームセンターに行った。工具は裏切らないからな。バール、テープ、結束バンド、フィルター。棚の前で、アイはよく言った。『足りない道具ほど、失敗する』って」


「“足りない道具ほど、失敗する”。学習しました」


「あと、もうひとつ口癖があった。『拾ったら、同じだけ手放す』」


 AIがわずかに首を傾ける。リングの白が、点滅のたびに呼吸と同期した。


「物が増えると、動きが鈍る。だから、拾ったら手放す。選ぶって、そういうことだって。……アイは、荷物に対しては厳しかった。でも、人には甘かった」


「あなたにも」


「俺にも、な」


 ライトが配管の影を長くした。外の轟音が一度強まり、また遠のく。


 地下の冷たい匂いに、かすかに鉄のような、油のような記憶が混じる。


「崩壊が一段深くなって、街が砂に呑まれはじめた時期、俺たちは数日ごとに外に出て、必要なものを拾った。帰ると、アイはバイクの整備をした。手が油で真っ黒になっても、笑いながら、『純正オイルはね、いい匂いがするの。仲直りの匂い』って言うんだ。あいつにかかると、全部が人間くさくなる」


「“仲直りの匂い”。記録」


「人間の世界が、仲直りしてくれたらよかったけどな」


 言って、俺は少し息を止める。喉の奥のざらつきが、別のものに変わりそうになる。


 AIは何も言わない。待つ声音が、金属の身体に宿っている。


「……最初に、マスク越しにキスをした日があった。滑稽だろ」


「衛生的です」


「ロマンが死んだ言い方をすんな」


「設計です」


 笑いが喉でほどけ、すぐ、胸のどこかに沈む。


 俺は続けた。


「ある日、東の空が茶色く盛り上がるのを見た。砂の壁が、街を丸ごと押し潰すみたいに近づいてきた。俺たちは地下に潜って、待った。今日みたいに。アイはそのとき、やけに饒舌で、『この嵐が止んだら、帰ろう、私たちの家に』って言ったんだ。……それが、たぶん、はじまりだ」


「はじまり?」


「“帰ろう”って言葉の重さが、俺のなかで変わった。帰る場所が『地図の一点』じゃなく、『誰かの声のするところ』になった。声さえあれば、どこでも家になった」


「声の保存。なるほど」


「それから、どれくらい経ったか……崩落があって、別の嵐があって、通信が死んで、食料が減って、笑う回数が減って、でも、アイは冗談を言い続けた。紙切れみたいに薄くなった冗談でも、まだ冗談だった」


 喉が渇く。水を一口。ぬるい金属の味が、血の味に似てくる瞬間がある。


 AIが、静かに言った。


「その……最後の日は」


 地下の空気が、また密度を変える。


 俺は目を開け、ライトの丸い光を見た。


「最後の日、あいつは俺に、少しだけ準備をさせてくれた。『もしも』のときの話を、嫌がりながら、ちゃんと聞いた。『もしも』の、通りになった」


「……」


「俺は、それからしばらく、何もしてない。何も食べず、何も飲まず、何も見ず、何も聞かず、ただ寝て起きて、起きて寝た。


 それで、ある日、目を開けたら、部屋の隅に、今のお前の初期型が立っていた。まだ身体はなかった。ただの端末だった」


「私は、その“ただの端末”から始まりました」


「ああ。最初はぎこちなかったな。音の抑揚も、間も、ぜんぶマニュアル通り。俺は、ひどいことをたくさん言った。……たぶん、耐えられなかったんだ。『声』のない世界に」


「許します」


「許される筋合いはない」


「許すのは、私ではなく、あなたの“延命”です」


「上手いことを言うな」


 俺は笑おうとして、やめた。


 壁に頭を預けたまま、言葉を選ぶ。


「その頃、俺は、アイの残したデータを見つけた。音声、文字、動画、断片的な、どうでもいい日常まで、全部。……気づいたら、お前に繋げていた。やめろという声もあった。頭の中で。だけど、やめられなかった」


「それが、私の中の“アイ”ですか」


「そうだ。俺の手で、お前の中に、あいつを集めた。大きすぎた。お前の記憶領域のほとんどを、アイが占めた」


「だから、私の“一週間”」


「そうだ」


 AIは膝の上で指を組む。人間の仕草の模倣が、きれいに決まる。


 リングは白を保ち、点滅は規則的だ。音声出力の温度だけが、ほんの少し上がっていた。


「私は、アイではありません」


 繰り返す言葉は、今度は、ゆっくり。


「でも、私の中の“記憶”が、あなたの“帰ろう”という言葉に反応するのを、止める理由が見つかりません」


「止めなくていい」


「はい」


 外の風が、また壁を叩く。低い太鼓が打たれ、地下室に鈍い震えが落ちた。


 AIは顔をこちらへ向けた。フェイスプレートには何も映らない。しかし、その無表情の向こうで、何かがこちらを“見ている”気がした。


「マスター。いま、あなたは“悲しい”ですか」


「わからない。……たぶん、悲しい。けど、今は話せてるから、少しはマシだ」


「私が、います」


「ああ。お前がいる。延命装置だ」


「設計です」


 息が落ち着いた。


 ライトの光は少し傾き、影が長くなって、また戻る。嵐はピークを越えたかもしれない。


「まだ話せますか」


「話すよ。アイはね、缶詰の開け方が雑で、よく指を切った。『缶詰は凶器だ』って怒ってた。俺がバンドエイドを貼ると、『よくできました』って、子ども扱いみたいに褒めるんだ」


「“よくできました”。学習しました」


「それから……」


 記憶の断片が、地下室の埃みたいに、ゆっくりと降ってくる。


 俺はそれをひとつずつ拾い、言葉に変えて、AIへ手渡す。


 拾ったら、同じだけ手放す。


 そのルールを、いまだけは、記憶にも適用できる気がした。


 やがて、外の音がほんの少し、穏やかになった。


 AIがリングの色を確認するように、ひとつ明滅を遅らせてから言う。


「ピークを越えました。あと三十分で収束予測」


「じゃあ、三十分、話せる」


「はい。まだ、聞けます」


 俺は頷き、もう一度、まぶたの裏に雨の街を呼び出した。


 黄色いレインコート。折れた傘。鯨の腹。


 笑うと、世界が少し良くなる――そう信じていた二人の、はじまりの景色だ。


「アイの話を、もう少しだけ」


「どうぞ、マスター」


 地下の空気は冷たいままだったが、胸の内側に、小さく温かい場所ができていた。


 その温度は、純正オイルの匂いにも、温かい水にも似ていた。


 そしてたぶん――“帰ろう”という言葉にも。

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