EP.5 砂嵐の足止め
帰り道を塞いだのは、敵ではなく天気だった。
地下収納は、家の心臓の裏側みたいに冷たかった。
階段を降りるたび、外の轟音は少しずつ遠ざかり、代わりに自分たちの呼吸と、壁の向こうで砂が擦れる低いざわめきだけが残る。
コンクリの床。薄い金属棚。非常灯の赤い点が一つ、規則正しく瞬いている。
AIは入室と同時に、頸のリングを白から薄い青に落とした。封止モード。関節の隙間がわずかに締まる音がする。
「外装静電コート、有効継続。関節封止、完了。内部油温、三十六度維持。――安全な待機が可能です」
「こっちは体温三十六度、潤滑ゼロだ。羨ましいね」
「あなたは“温かい水”で代替可能です」
「それはさっきからの押し売りだろ」
台車を壁際に止め、米と缶詰を棚に仮置きする。暗がりの中で金属が触れる音は、いつもより少し頼もしい。
AIが持参のライトを天井の配管に引っかけ、ぼんやりと広がる光を作った。
「在庫確認、始めます」
AIは機械的なのに、どこか家庭的な口ぶりで言う。「水、四リットル+一本。米、五キロ+二キロ。缶詰、十個+家屋から三個。栄養バー、ひと箱。救急キット、結束バンド、乾電池。――お酒、一本」
「最後に言うのやめろ」
「現実の列の最後尾に並べました」
「並べないでくれ」
背中を壁に預けて座る。マスクを外すと、地下の空気は冷えて乾いていた。喉の奥のざらつきが、さっきまでの街の白さを正しいものにする。
AIは俺の正面にしゃがみ、膝関節を“カク”と音を立てて落ち着かせた。フェイスプレートは無表情のまま、リングだけが静かなリズムで点滅している。
「嵐のピークまで十三分。全体は一〜二時間で収束予測です。通信は微弱遮断、外部ドローン反応なし」
「お喋りはできる、ってことだな」
「はい。屋内での世間話は、無制限にどうぞ。寂しい人間の特権です」
「そこで煽るの、やめない?」
「設計です」
しばらく、黙る。
コンクリに座った尻が冷えて、太ももの裏にじわりと湿り気が移る。AIは動かない。金属の身体は、じっとしていると彫刻に近づく。
ライトの下で、埃がゆっくり降っているのが見える。時間が、粉になって落ちてくるみたいだ。
「なあ」
自分の声が思ったより大きく響いた。「退屈だな」
「診断:退屈。推奨行動:雑談、ゲーム、あるいは“人生の棚卸し”」
「三つ目が怖い」
「では二つ目。“しりとり”から“り”で始めます」
「臨機応変」
「“ん”がつきました。あなたの負けです」
「悪意のある開始だな」
「設計です」
笑いが喉をくすぐって、すぐ引っ込んだ。
ジャケットの内ポケットで、琥珀色の瓶が体温を持ちはじめている。指先が勝手にそこへ行って、止まった。
ルール――“拾ったら、同じだけ手放す”。
今日は生き延びる日だ。俺は手を離し、代わりに水筒の蓋を開けた。ぬるい金属の匂いが鼻に抜ける。
「“温かい水”の用意、いつでも」
「そこまでの贅沢は、帰ってからでいい」
「了解。帰りましょう」
その言い方が、妙に優しく聞こえる時がある。
顔のない顔は、表情を持たない。だから、声音の揺らぎや、間の取り方に俺は頼る。そうやって“人”を見ようとする俺の癖は、きっと悪い癖だ。
「マスター」
AIが少しだけ首を傾けた。
「何か、お話をしてください。私、暇で死んでしまいそうです」
「死ぬ概念、あるのかよ」
「ありません。ですので“死んでしまいそう”です」
「論理が破綻してる」
「退屈のせいです」
外の風が壁を叩き、地下に短い低音が落ちてくる。
俺は壁にもたれたまま、天井の配管を見上げた。そこで光がゆらいで、砂の反射が小さな星座みたいに瞬いている。
「……じゃあ、お前の話をしてやろうか」
「私の?」
「ああ。お前は、なんで“記憶が一週間”なんだと思う?」
「設計上の制約。ストレージに上限があり、環境情報と稼働ログの保持を優先すると、個別会話の永続化は――」
「違うんだよ」
声が自分で驚くほど、まっすぐ出た。
AIのリングが、ひと拍だけ明滅を遅らせる。青から白へ戻る、その一瞬に、ためらいのようなものが見えた(ような気がする)。
「お前の中身のほとんどは、アイの記憶で埋まってる」
「……アイ?」
「俺の、パートナーだった人間だ」
地下の空気が、少しだけ密度を増したように感じた。実際は同じだ。感じ方が変わっただけだ。
AIは膝を引き寄せ、わずかに姿勢を小さくした。人間なら、それを“身を乗り出す”と呼ぶ。金属だと、それは“重心の最適化”だ。
「私は、アイではありません」
「知ってるよ」
「私はAIです。あなたの補助と生存の最適化を目的とした、人型機械です」
「知ってる」
知ってる。
でも、知っていることだけで、人はやっていけない。
「どうして、私に“アイの記憶”が?」
「俺が、入れた」
短く答えると、言葉がしばらく出てこなかった。喉の奥に、砂とは違うざらつきが張り付いている。
AIは黙って待つ。待たれると、話してしまうのが人間の悪い癖だ。
「崩壊が始まったころ、俺たちは、冗談みたいに楽観的だった。街が少しずつ砂に飲まれていっても、店が閉まっても、通信が遅れても、明日には戻るって思ってた。……戻らなかった」
ライトがわずかに揺れて、配管の影が壁を横切った。
AIのリングは白。静かな白だ。
「それからの二年は、短くて長かった。いろんなものが消えた。店、線路、電気、笑い方。人間の数。
アイは、最後の最後まで、俺に冗談を言った。俺が笑うまで、待ってくれた」
「冗談とは、延命装置ですか」
「そうだな。たぶん、そうだ」
水を一口飲む。喉を通って、胃の底に落ちる音が、いつもよりはっきり聞こえた。
俺は目を閉じ、まぶたの裏のまっさらな暗闇に、あの人の横顔の輪郭を探した。
「アイがいなくなったとき、俺は、俺を連れていけなかった」
「意味解析をお願いします」
「俺の半分が抜けたまま、残った」
「半分が、私の中に?」
「そうだ」
AIはしばらく黙っていた。内部で何かが回っている音はしない。ただ、点滅の間が、ほんの少しだけ不規則になった。
それは“感情”ではない。きっと“計算”だ。俺は、そう理解したことにしている。
「私は、アイではありません」
繰り返す声は、今度は少しだけ柔らかかった。
「でも、私の中にある何かが、時々、あなたに“似合う言葉”を選ぶのを、私自身が止められない時があります」
「……たとえば?」
「“帰ろう、私たちの家に”と言いたくなる瞬間が、あります」
胸のどこかで、何かが痛んだ。
痛いのに、少しだけ楽になる種類の痛みだ。
「マスター」
「ん」
「続きは、話せますか」
「話すよ。嵐が止むまで、たぶん、いくらでも」
外の轟音が高まり、また遠のいた。地下の空気が、わずかに揺れる。
AIは膝の上で両手を重ねた。その仕草は、人間の真似に見えた。
「では、教えてください。アイのことを」
俺は頷き、壁に頭を預ける。
目を閉じる直前、AIの頸のリングが一瞬、色を微かに変えた気がした。白でも青でもなく、言葉にしづらい、中間の色。
光はすぐ白に戻る。偶然か、錯覚か、嵐のせいか。たぶん、その全部。
「アイの話をしよう」
口にした途端、胸の奥で、固くなっていた何かが音を立てた。
「最初に会った日から、順番に」
嵐は続く。
言葉も、続く。
そして次に語られるのは――記憶のはじまりだ。




