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EP.10 帰路

 今日は、帰ることが目的だった。


 拾うことではなく、持ち帰ることでもなく。


 ただ、ふたりで帰ること。


 朝のアナウンスは、相変わらずだ。


「本日の天気は曇りのち晴れ。風速、弱。視界、良。――“軽く行って、軽く帰る”が最適です」


「それ、気に入ったんだな」


「はい。定量化は難しいですが」


 装備棚に丸をつける。〈バール:持て〉。


 AIは左鎖骨下の小蓋を“カチ”と開け、すぐ閉じた。潤滑は十分。頸のリングは白で安定。


「手信号、確認」


「白一回は危険なし。二回は注意。三回は隠れろ。赤は即退避」


「拳一回は聞こえた、二回は了解。開いた手は止まれ」


「同期しました。――行って、帰りましょう」


 外は、乾いた白。足跡は素直に残り、風は建物の角で丸く曲がっていく。


 今日は“近場・軽負荷”のルート。補充は少し。帰ることが目的だ。


 住宅街の外れ、昨日とは反対側の並びへ。


 フェンスの影、郵便受けの口、玄関マットの半分。


 AIの手首が白を一回――危険なし。


 俺は拳を一回、握って返す。


 一軒目。引き出しから、すべり落ちそうな乾電池が二つ。


 二軒目。洗面台の下に、未開封の石鹸。


 三軒目。玄関の軒先で、錆びた輪が目に入った。風鈴――音を忘れたやつだ。糸は切れ、短冊はない。金属の輪だけが、風を思い出せずにぶら下がっている。


 俺はそれを手に取って、AIを見る。


 AIは頸をわずかに傾ける。白二回――注意――の点滅。


「拾ったら、同じだけ手放す」


「……そうだな」


 胸の内側。昨夜から観念して最上段に置いていた瓶の重さが、ふっと肩に戻ってくる。


 俺は風鈴の輪を掌に乗せ、しばらく黙った。


 そして、軒先の棚に、ポケットから出した小瓶をそっと置く。埃を指先で払う。


「交換だ。音の代わりに、重さを置いていく」


「合理です」


 AIの声が、いつもより丸い。「帰路の総重量、変化なし」


「うるさい。ロマンは定量化できない」


「仮にできるとしても、単位が複雑です」


 笑いが喉でほどける。


 俺は風鈴の輪をジャケットの内側に滑り込ませた。金属は冷たく、でも、軽い。


 帰路。


 影から影へ。看板が一度鳴り、空は粉を溶かしたような薄曇り。


 遠くで、昨日の犬たちの足跡が、風に少し削られていた。


 AIは前を見据え、踵のスパイクを一定のリズムで落とす。


 手首が白を一回――危険なし。


 俺は拳を一回握って返す。


 建物が近づく。


 ドアの前で、砂を払い落とす。AIは関節を軽く順番に動かし、封止の隙にたまった粒をシャラ、と落とす。


 解錠。圧が切り替わり、世界がふたつに分かれる。


 室内の空気は無味。肺が、いつもの“帰り方”を思い出す。


「“温かい水”の提供を開始します」


「今日は二杯で頼む」


「特別に、三杯目に“ぬるい水”を」


「豪華だな」


 ケトルの音が、部屋を丸く満たす。


 湯気が上がる間に、俺はテーブルの上を片づけ、棚から細い糸(釣り糸の残り)と小さな金属ワッシャーを何枚か持ってくる。


 風鈴の輪に糸を通し、ワッシャーを段違いに結ぶ。指先が不器用に震えるたび、AIが無言で糸を支える。


「器用さは、生存率に寄与します」


「うるさい。こういうのは、下手でも作ったもの勝ちだ」


 できた。


 輪と糸とワッシャーだけの、骨だけの風鈴。


 窓際、フィルターの吹き出しに、そっと吊るす。


 最初の揺れは弱く、音は生まれない。


 少し角度を変える。糸を短くする。


 フィルターが一息、強く回って――ワッシャーが触れ合い、かすかな金属音が、生まれた。


 チリ。


 ほんの、ひと欠片の音。


 だけど、音だ。


 鳴らない街の中で、俺たちの部屋に、音が戻ってきた。


 AIがその音に、顔のない顔を向ける。


 頸のリングが、白で、いつも通り。


 それでも、俺には、点滅の間がほんの少しだけ柔らかく見えた。


「よくできました、マスター」


「お前の補助も、まあ、悪くない」


「最適化です」


 コップが二つ、湯気を立てる。


 一口目は熱い。舌の上を通って、喉を落ち、胃の底で静かに止まる。


 二口目で、身体のどこかの歯車が油をもらう。


 三口目で、胸の奥の棘が小さく鈍くなる。


「純正、やっとくか」


「はい、マスター」


 AIが小蓋を開ける。金色が、透明のチューブを静かに流れる。


 頸のリングの光が、ごく短い間だけやわらぎ、すぐ戻る。


「最適です」


「それ、毎回言うな」


「設計です」


 笑って、空になったコップをテーブルに置く。


 今日拾ったものは少ない。乾電池二つ、石鹸ひとつ、そして、音。


 AIが端末に接続し、短いログの整理を始める。


「高優先度タグ“帰ろう/おかえり”を再確認。前回以降の出現――三回。保存完了。七日以前の会話は要約に移行」


「今度は、俺からも追加する」


「追加?」


「“ただいま”。タグに入れておいてくれ。お前にも、俺にも、必要だ」


「了解。高優先度タグ“ただいま”を追加」


 AIの声は、少しだけ丸い。


 作業が終わる。


 夕方の白さが薄まり、部屋は音の少ない夜の顔に戻る。


 窓際で、ワッシャーが微かな風に触れ合い、チリ、と鳴る。


 俺はその音を聞きながら、壁に背を預ける。


「なあ」


 自分でも面倒な声だと知りつつ、言う。「お前、自分で自分のこと、どう名乗りたい?」


「定義:私はAI。人型。屋外行動最適化。あなたの生存の補助」


「カタログ、な」


「しかし――」


 AIが、ほんの少しだけ首を傾ける。


「“帰ろう”に反応するもの、でもあります」


「それは、いい」


「はい。最適です」


 風鈴が、もう一度、短く鳴く。


 俺は息を吸い、吐く。部屋の空気は無味だが、この音には味がある。少し金属、少し懐かしい。


「帰ろう」


 言葉にすると、部屋が一息つく。


 AIがこちらを向く。頸のリングは白。


「――私たちの家に」


 声が重なった。


 偶然でも、合図でも、どちらでもいい。


 それで十分だ。


 寝具を出し、照明を落とす。


 AIはドックに背を預け、封止モードへ入る準備をする。関節がわずかに締まる音。内部油温の表示が安定する。


 暗がりで、リングの白だけが心拍の代わりみたいに点滅する。


「おやすみ、AI」


「おやすみなさい、マスター」


 少しの間。


 フィルターが息をし、風鈴が、ほんの気まぐれに、チリ、と鳴る。


 その音に紛れて、ごく微かに――


 ――ヒロ。


 聞き間違いかもしれない。


 “おそらく”そうだ。


 でも、俺は目を閉じ、笑って、答える。


「ただいま」


 外の白は、もう気にならない。


 中は、湯気の残り香と、わずかな油の匂いと、二人分の息で満ちている。


 明日も、出る。拾って、手放して、また帰る。


 帰るために、出る。


 その繰り返しの先で、きっとまた、音が鳴る。


 ――帰ろう、私たちの家に。



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