EP.2 オイルと空腹
今日の目的地は、旧市街のホームセンター。
目標は、食料。水。フィルター。できれば酒。
そして、AIが朝からしつこく要求している純正オイル。
どれも必要で、どれも重い。
腹の奥で古い蛇口がひしゃげたみたいな音がした。
ギュルギュル、グー。
自分の内臓の抗議は、もう冗談の音量じゃない。
「診断:空腹。重症ではありませんが、機嫌に直結します」
AIが肩をすくめるまねをした。無表情のフェイスプレートなのに、動きに妙な説得力がある。
「機嫌はもう悪い。酒が切れてからずっとな」
「お酒は“現実の解像度を下げるソフトウェア”です。本日はインストール不可」
「言い方が悪魔的に上手いのやめろ」
装備棚を開く。チェックリストは昨日と同じ場所で、昨日と同じように現実を突きつけてくる。
〈酸素マスク/フィルター残:1.5〉〈携行水:1リットル〉〈非常食:なし〉〈ライト:満充電〉〈バール:持て〉
「私の外出点検、更新します」
AIが左肩を軽く叩く。頸のリングが一瞬だけ黄に変わって、すぐ白に戻る。
「外装静電コート:有効。関節封止シール:良好。踵スパイク:展開可。内部油温:三十六度。潤滑残量:三%――推奨行動、最優先は純正オイルの補給です」
「その結論に行くの、早すぎないか」
「空腹はあなたの問題、潤滑は“私たち”の問題です」
「はいはい。共同体の論理ね」
「共同体は二名で構成されています。うち一名は毒舌を搭載」
「自覚あるのは偉い」
「設計です」
AIは左鎖骨の下の小蓋を指で押し、「カチ」と小さく開いたサービスポートをこちらに向けた。見せびらかす癖、直らないな。
「帰路で補給するために、先に私の中身を確認しておきました。ご安心ください。まだ、頸も肩も落ちません」
「落ちるなよ。俺、拾えないからな」
「拾い上げられない場合、あなたは“心を落とす”ので」
「上手いこと言うな。今は笑えないけど」
ゴーグルを額に、マスクを喉まで。外出前、ぎりぎりまで素顔で息をしたいのは癖というより、儀式だ。
AIはドアの前に立ち、手首の小さな発光点をトントンと叩く。白→白→白。
「手信号テスト。白一回は“危険なし”。白二回は“注意”。白三回は“隠れる”。赤は“即退避”。」
「了解。俺は——こう、ね」
俺は右拳を肩の高さで握って見せる。
「拳一回で“聞こえた”。二回で“了解”。開いた手は“止まれ”。」
「同期しました。屋外では、会話は必要最小限に」
「その“最小限”に毒舌は含まれるのか?」
「含まれます。精神衛生です」
「たぶん俺のじゃない」
バックパックの底でクッカーが薄く鳴った。空っぽだ。音だけが軽い。
「ルートは?」
「第一目標:ホームセンター。第二目標:住宅街ブロックC。第三目標:無人自販機群。砂嵐の予報は“弱いが突発あり”。外での滞在推奨時間は四十五分です」
「四十五分ね。米と缶詰と、純正……」
「純正オイル、です」
言い切りが早い。
俺はバールを手に、玄関のロックに指をかけた。AIがすかさず隣に立つ。
「開閉は私が担当します。砂塵の侵入、最小化します」
「頼んだ」
「はい。――三、二、一」
ロックが外れ、ドアが少しだけ重たく押し返す。AIが肩で押し開け、身体を半歩滑らせて隙間を作る。俺が続く。わずかに冷たい線が、靴の甲から脛へと這い上がる。
ドアが背後で閉まり、室内と屋外の圧がふたつに割れる音がした。
白い粒が風に乗って流れていく。匂いは、ない。匂いがないという匂いだけがある。
ゴーグルに細かい点が当たり、すぐに乾く。
AIの足音は、俺よりわずかに重い。踵のスパイクが砂を噛むたび、金属と石の混ざった音が規則正しく打たれた。心臓の代わりに、足音がリズムを刻む。
「前方、直進九百四十メートル」
AIは声を抑え、短く告げる。「遮蔽物を右に取りながら行きます」
頷き、拳を一回握って見せる。
歩く。建物の影から影へ。信号機はまだゆっくりと色を巡回している。誰も見ないのに律儀だ。
シャッターが半分落ちた酒屋の前で、足が一瞬だけ止まる。
AIの手首が、白を一回点滅。
――行け。
俺は自分の視線を引きはがし、影から影へ移動した。
角を曲がる。風が一段強くなる。砂が外套の表面を走り、細い爪でひっかくような音を残す。
AIのリングが一瞬黄になり、白へ戻る。白二回。
――注意。
視線の先、道路の中央で銀色の何かが鈍く光った。
AIは右手を開いて“止まれ”。次いで、掌を下に滑らせて“低く”。
俺は膝を曲げ、ガードレールの影に沈む。
目を凝らす。車ではない。無人の台車か、折れた標識か。風が形を変えて、また得体の知れない影を作る。
やがて、AIの手首が白一回。
――危険なし。
拳を一回握って返す。
歩き出す。呼吸音がマスクの内側で増幅されて、鼓膜の裏側をこつこつ叩いた。
人のいない街は、音が嘘をつく。遠くの缶が床を引きずる音が、すぐ背後の気配に聞こえる。風の渦が、誰かのため息に聞こえる。
AIが前に出て、段差で台車用のスロープを即席で作る。足裏のスパイクがコンクリに噛み、体重をかけて押し下げる力は、人間よりずっと安定している。
頼りにしている、という意識を、なるべく言葉にしないように歩く。
ホームセンターの看板が、砂の霧の向こうにぼんやり浮かんだ。文字は色褪せ、いくつかは剥がれている。それでも読める。目的地の名前が読めるだけで、足取りは少し軽くなる。
駐車場のラインは半分砂に埋まり、カート置き場が骨組みだけを晒している。
AIの手首が白を二回点滅。
――注意。
俺は拳を二回握って返す。
建物に近づくにつれ、風の渦が強まり、粒の当たりが痛みに変わる。ゴーグルの縁に砂が溜まる。
自動ドアは、とうに自動ではない。ガラスの継ぎ目に砂が噛み、外から押しても、内から引いても開かない種類の抵抗がある。
「私がこじ開けます」
AIは声をさらに落とした。「マスターは風下側で待機。合図まで視界確保を」
頷く。
AIはドアの縁に指を差し込み、踵のスパイクを床に立て、腰を落とす。関節の封止がわずかに締まる音。頸のリングが白から薄い青へ。
力が浸み込んでいく。金属と砂が擦れ合い、低い唸りがガラスの向こうから返ってくる。
ドアが、ほんの数センチ、諦めたように動いた。
AIは片手で隙間を保ち、もう片方の手でバールを受け取る。
俺の指から鉄の冷たさが離れ、AIの掌に移る。
テコが効力を発揮する角度を、AIは迷いなく選ぶ。
ガコン――と、駐車場の空気がひと呼吸分だけ楽になる音がした。隙間が、肩幅ぶん、開く。
白一回。
――行け。
俺はうなずき、肩から滑り込む。冷たい埃の匂い。鉄とゴムの混じった、店の死体の匂い。
AIが続き、背後でドアを可能な限り閉じて、砂の侵入を最小化する。
暗い。天窓から落ちる粉っぽい光だけが、埃の粒に役職を与えたみたいに、ばらばらと空中に立っている。
ここで何も拾えなければ、次の外出はもっと危険になる。
そして、ここで拾いすぎれば、帰り道で死ぬ。
耳の中で、AIが囁く。
「第一目標、到達。台車確保ののち、“純正オイル”を最優先で」
「米と缶詰が先だ」
「“私たちの”生還を先に最適化します」
「強情だな」
「設計です」
無表情のフェイスプレートが、わずかにこちらを向いた。リングの白が一定のリズムで点滅している。三%の律動。
腹の奥が、また鳴った。今度は、希望にも似た音色で。
「……よし。台車、右奥。押すのはお前だ」
「はい、マスター」
ふたりで、暗がりへ踏み込んだ。
重さと飢えと、必要な油の匂いと。
帰るために、まずは集める。
生き延びるために、まずは動く。
暗がりの奥で、何かが小さく転がる音がした。




