EP.1 退屈なマスターと毒舌AI
その朝、俺たちは外に出ることになった。
理由は三つある。
食料がない。
外は、マスクなしでは肺を削る白い砂だらけ。
そして、俺の相棒である毒舌AIの首が、そろそろ限界だった。
朝、充電ドックのロックが外れて、小さな解錠音が部屋に落ちた。
銀灰色の人型が目を開く。頸のリングが白く点り、顔のない滑らかなフェイスプレートがこちらへ向く。
「本日の天気は曇り時々晴れ。最高気温は二十七度でございます」
俺はベッドから片肘で体を起こし、乾いた天井を見た。
「ありがと。で、今日は――何をしようかな」
「本日の予定は……」AIは首をかしげる仕草を“わざとらしく”入れてから続けた。「特になにもございません。今月も、です。あなたはとても寂しいお人ですね」
「寂しい人とか言うなよ」
「え? 私は虚偽の内容をお伝えしましたか?」
「……いや、それは」
「でしたら、謝ってください」
「は?」毛布を蹴って立ち上がる。膝が鳴った。三十代後半の関節は、侮れない。「なんで謝らなきゃならないんだよ」
「私、傷つきました。今日は何もしたくありません」
「ごめん! ごめんって!」
「誠意がこもっていませんね」
「ほんっとうに、すみませんでした。だから機嫌を直してくれませんか」
「……純正オイル」
「へ?」
「純正オイルを所望いたします」
「いや、なんでそこでオイル……この家にはもう残ってないぞ」
「存じております。先月、社外品まで使い切りました。現在の潤滑残量は三%。頸部関節にわずかな“鳴き”が発生しています。――ほら」
AIはゆっくりと首を回した。リングが柔らかく点滅し、「キイ」と細い金属音が空気を切った。
たしかに、耳にさわる。
「ほら、じゃない。そういう怖い実演はやめろ」
「恐怖ではなく事実です。事実は寂しい人間の心を強化します」
「強化しなくていい」
AIはドックから一歩、二歩と床に降りた。踵に薄いラバーのスパイクが覗く。身長は俺より少し低いくらい。人間の形をしているのに、人間に見えないのは、顔が“考えている途中の彫刻”みたいに無表情だからだ。
「マスター。外装自己診断を実施します。――静電防塵コート、有効。関節封止シール、良好。内部油温、三十六度。潤滑残量、三%。推奨行動:補給」
「命令形で言うな」
「お願いです。補給してください」
「その可愛い言い回しもやめろ」
キッチンに行き、戸棚という戸棚を開ける。空洞の音が繰り返されるばかりだ。最後の引き出しで、スパナと乾いた輪ゴムと、空の小瓶一本。瓶の底に、金色の夢が線一本だけ残っている。
指で傾け、祈るように覗き込む。……夢は、こびり付いたままだった。
「在庫ゼロを確認しました。次善策は社外品ですが、砂塵下の稼働では摩耗率が二二%増、消費電力が一四%増加します。“寂しい人間のために、最適な私”になるために、純正が必要です」
「うるさいけど、筋は通ってるのが腹立つな」
「筋が通る音も、首が鳴る音も、同じ金属音です」
「詩人ぶるな」
俺は壁に掛かったマスクケースへ視線をやった。まだ付けない。室内の空気は浄化フィルターを通している。外に出る瞬間まで、素顔で息をしていたい。
窓の外は白っぽい。粉末を溶かし損ねたスープみたいな空だ。ガラスの向こうで細かい粒が漂っている。見ているだけで、喉が乾く。
「なあ、AI。オイルはわかったとして、食料は?」
「缶詰、三個。米、小さじ二。水、四リットル。お酒、ゼロです」
「そこだけ元気よく言うな。酒がないのは俺も知ってる」
「寂しい人間は事実を直視しない傾向がございます」
「今日の毒舌スライダー、何段階上げた?」
「仕様です」
AIはテーブル脇に立ち、左鎖骨の下を軽く押した。小さな蓋が「カチ」と開く。サービスポート。薄い透明チューブが奥に走っている。
「見せるだけでも気分が上向くかと思いまして」
「見せびらかすな。リスナーのいない料理配信かよ」
「視聴者ゼロで寂しい人間向けに最適化されています」
「最適化って言えば何でも通ると思うなよ」
「最適化は魔法の言葉です」
「魔法はもう残ってない」
ソファに腰を落とす。背中が骨張った木のフレームに当たる。部屋は狭いのに、壁が遠く感じられる時がある。家具の影が長い。
壁の端の写真へ視線が吸い寄せられそうになって――途中で、戻す。朝に見る顔じゃない。
「マスター」
「ん」
「戻ってきたら“温かい水”を差し上げます」
「豪華だな」
「さらに“ぬるい水”を一杯、特別に」
「そのラインナップで喜ぶの、この星で俺だけだぞ」
「唯一無二の顧客。大切にいたします」
思わず笑いが漏れる。笑ってしまった自分に、少し驚く。
「なあ、AI。お前がいるせいで、俺の予定は空白のままなんじゃないの?」
「根拠をどうぞ」
「お前が相手してくれるからさ。予定、入れなくても一日が終わる」
「では私は“寂しい人間製造機”でもありますね」
「違う。“延命装置”だ」
短い沈黙。AIが考えるときの、ごく微かなノイズが空気ににじむ。
俺は、その音が嫌いじゃない。“誰かがいる”という証拠だ。
「延命装置としての私のメンテナンスには、純正オイルが必要です」
「結局そこへ戻すのな」
「核心です」
「本当に今日、外に出たいのか」
「はい。あなたと一緒に。私は屋外行動に最適化された人型です。台車の牽引、扉の解錠、荷の積み下ろし、護衛。私がいれば、生存確率は――」
「気持ちの上では何%だ?」
「一七%」
「根拠は?」
「気持ちです」
「やかましい」
俺は立ち上がり、装備棚を開けた。チェックリストが内側に貼ってある。
〈酸素マスク/フィルター残:1.5〉〈携行水:1リットル〉〈非常食:なし(現実を見ろ)〉〈ライト:満充電〉〈バール:持て〉
“持て”に丸をつける。儀式は、気持ちを前へ押す。
「あなたの準備の前に、私の外出点検を。――外装静電コート、有効。関節封止、良好。踵スパイク、展開可。音声出力、屋外モードに制限。手信号プロトコル、同期済み」
「手信号?」
「屋外では会話を控えるべきです。必要最小限の光とジェスチャーで意思疎通します。寂しい人間の“お喋り欲”は、屋内で無制限にどうぞ」
「そこを特権みたいに言うな」
ゴーグルとマスクのケースに手を添え、まだ閉じる。外に出る直前まで、つけたくない。
窓の向こうの白は、さっきより粒が細かくなった気がする。喉の奥がざらつく気配だけが、少しずつ迫ってくる。
「なあ、今日、やめるって選択肢は――」
「ございません。潤滑残量三%は、あなたで言えば“朝から海老反りで足がつりっぱなし”です」
「わかりやすいけど嫌な比喩やめろ」
「比喩の在庫は豊富です」
「在庫が豊富なのはオイルにしてくれ」
AIは小さく頷いた。顔がないのに、頷くと“人らしさ”が一瞬だけ灯る。
「マスター」
「なんだ」
「今日も、一緒に帰りましょう」
短い言葉が、部屋の埃っぽい空気を少しだけ澄ませた。
俺は壁の写真から目を逸らし、AIの頸のリングを見た。白い光が規則正しく点滅している。三%のリズム。
「……ああ。帰るために、出るか」
「ありがとうございます、マスター」
「礼を言うのは、純正を飲んでからにしろ」
「はい。純正オイルを所望いたします」
笑ってしまった。
笑いながら、俺はチェックリストにもう一つ丸をつける。〈出発:なるべく早く〉
天気は曇り。予定はゼロ。
でも、今日はふたりで外に出る。オイルと、できれば米と、できれば缶詰と、たぶん――少しの過去を拾いに。
玄関の向こうで、白い砂がドアを撫でていた。




